NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」(その1)


8月15日、お盆の日、敗戦の日NHKスペシャルでした。戦争指導者と前線で戦った兵隊と、鮮やかな対比で無謀な作戦を告発、あの戦争とは…を考えさせる番組でした。記録を克明に残していた齋藤博圀氏の登場には息をのみました。当時23歳の青年は、96歳。最後の慟哭の中から絞り出す言葉に泣けました。思いは日本国憲法の第九条につきます:
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

NHK[総合] 戦慄の記録 インパール2017年8月15日(火) 午後7:30〜午後8:43(73分)

川幅600メートルにも及ぶ大河と2000メートル級の山々が連なるインドとミャンマーの国境地帯。今から73年前、日本軍はこの国境地帯を越えインドにあったイギリス軍の拠点「インパール」の攻略を目指した。しかし、誰一人としてその地を踏むことが出来ず3万とも言われる将兵が命を落とした。歴史的敗北を喫した戦場で何があったのか。新資料と新証言でその全貌に迫る。
★再放送:8月26日(土)午前0時50分〜2時03分(25日深夜)

◎録画の書き起こしを…と思ったら、ネットやブログで既に書き起こしされているところがあります。こちらのサイトの書き起こしを利用させていただいて私なりに写真と追加(◎)を加えながら追ってみました。(引用元:https://tvmatome.net/archives/7648

 今から73年前、日本軍はインドとミャンマーの国境地帯にある川幅600メートルにも及ぶ大河と2000メートル級の山々が連なる険しい山岳地帯を越え470キロを行軍するという前代未聞の作戦を決行しました目指したのはインド北東部の街インパール。しかし、誰一人インパールにはたどり着けず約3万人が命を落としました太平洋戦争で最も無謀と言われた「インパール作戦」です。


日本と戦ったイギリス軍が撮影した10時間を超えるフィルムが残されています。3週間という短期決戦を目論んだ作戦は数か月に及びました。補給を度外視したため兵士は密林の中で飢え、病に倒れていきました。兵士が戦いを強いられたのは世界一と言われる豪雨地帯。飢えた兵士たちが行き倒れた道は「白骨街道」と呼ばれました。敗走した兵士たちは濁流の大河を渡れぬまま命を落としていきました。戦場の現実を無視して作戦を強行した陸軍の上層部は、戦後もその責任に向き合おうとしませんでした


◎73年前、山奥へ突然やってきた日本軍のことを多くの村人たちはよく記憶していた。「この辺りには日本兵の霊がさまよっている。軍服を着た日本兵をよく見るが、近づくと消えてしまう」現地の人が墓標の前で語る。

◎牟田口中将の自宅から大量の遺品が見つかった。
今回初めて牟田口中将の孫が検証してほしいと取材に応じた。
「父はアンチ戦争でしたが、捨ててはいけないという思いがあったのでしょうかね。」
「見たくはないけど、捨ててはいけない」

戦死者3万人 無謀な作戦の結末:◎インパール作戦の戦死者3万人のうち1万3577人分の戦没者名簿を入手。一人一人の死を場所や日時を特定して地図に記した。赤が作戦中、青が中止後に亡くなった人。重ねてみるとほとんどが病死か餓死である。


作戦は1944年3月に始まり、3週間でインパールを攻略する計画でした。しかし、日本軍はイギリス軍の猛攻の前にインパールに到達することさえできませんでした。多くの戦死者を出し、作戦が中止されたのは開始から4か月後のことでした。作戦中止後の死者はほとんどが病死や餓死でした。撤退は中止から半年が経った1944年12月になっても完了しませんでした。戦死した兵士のうち実に6割が作戦中止後の撤退中に亡くなるという無残な戦いでした。

田口司令官 残された肉声


陸軍史上類を見ないインパール作戦を決行したのは牟田口廉也(むだぐちれんや)中将でした日中戦争のきっかけとなった1937年の盧溝橋事件では連隊長として戦闘を指揮するなど強気の作戦指導で知られていました。


終戦から20年が経った1965年、牟田口中将がインパール作戦について語った肉声が残されています。
私の作戦発起の動機は『大東亜戦争に勝ちたい』という一念にほかなりません。戦争全般の形勢が各方面とも不振である当時の形勢に鑑み作戦指導如何によっては戦争全局面を好転させたいとの念願をもっていたからである

陸軍上層部 責任なき戦争認可インパール作戦は極めて曖昧な意思決定をもとに進められた計画でした。」

ことの始まりは1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに侵攻し全土を制圧。イギリス軍はインドに敗走しました。勝利の余勢をかって大本営はインド侵攻を検討するも、すぐに保留にしました。しかし、戦況の悪化が再び計画を浮上させました。1943年に入ると、太平洋でアメリカ軍に連敗。その後、戦線は急速に後退していきました。そのころ、アジアでも態勢を立て直したイギリス軍がビルマ奪還を目指して作戦に出ていました。


1943年3月、大本営ビルマ防衛をかためるためにビルマ方面軍を新設。河辺正三(かわべまさかず)中将が司令官に就任しました。着任前、河辺司令官は首相の東條英機(とうじょうひでき)大将と会っていました。2人は陸軍大学校同期の仲でした。


「今ガ島(ガダルカナル)その他みんな落ち目になっているから、せめてビルマで一旗揚げてくれというようなことを言われたんですよ。それでそのことが頭に来ていて(インパール作戦を)出来たらやりたいと」(ビルマ方面軍 片倉衷 高級参謀)
同じ時期、牟田口中将ビルマ方面軍第15軍司令官に昇進。インパールへの侵攻を強硬に主張しました。



「これは大本営の希望だったということを牟田口さんは耳にしたわけですね。何としてでも大本営のご希望に沿うようにやってみようと。それがもう牟田口さんが何としてもやりたいと。」(ビルマ方面軍 後勝 参謀)


軍の上層部が作戦に前のめりになる中で、反対意見はことごとく退けられていきました
小畑信良(おばたのぶよし)参謀長は強硬に作戦に反対しました。小畑参謀長は陸軍の中でも数少ない兵站の専門家でした。兵站とは前線の部隊に食糧や弾薬を補給する任務のことです。小畑参謀長は兵站の観点から作戦は実施すべきではないと牟田口司令官に進言。しかし、牟田口司令官から消極的だと叱責され、就任から1か月半で更迭されたのです。


田口司令官が作戦を遂行するために頼ったのがビルマ方面軍河辺司令官でした。2人は盧溝橋事件のさいに上司と部下の間柄でした。東條首相の意も受けていた河辺司令官は作戦を認可。南方軍寺内総司令官も同調していきました。しかし、このころ大本営ではビルマ防衛に徹するべきだとして作戦実行に消極的な声も多くなっていました。大本営杉山元参謀総長が作戦を最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていました。


杉山総長が『寺内さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穣一郎少将手記より


そして1944年1月7日、インパール作戦は認可されました冷静な分析よりも組織内の人間関係が優先されたのです。

◎お友達同士、仲間内、上司と部下の馴れ合い、人情論が優先する組織…なんだか、森友・加計事件に揺れる安倍政権に似ています。
度外視された兵站 強行された短期決戦補給の確保より”大和魂



1944年2月、作戦開始の1か月前に(陸軍経理学校を卒業したばかりの)23歳の齋藤博圀(さいとうひろくに)少尉が配属され、牟田口司令官に仕えました。
(◎今回、現地でつづっていた日誌が見つかった。司令部内の一挙一動を知ることで切る貴重な記録です。)

牟田口中将は平生、盧溝橋は私が始めた。大東亜戦争は私が結末をつけるのが私の責任だ。と将校官舎の昼食時によく訓示されました。」(齋藤博圀少尉の回想録より)
経理部長さえも『補給はまったく不可能』と明言しましたが全員が大声で『卑怯者、大和魂はあるのか』と怒鳴りつけ従うしかない状況だった。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

1944年3月8日インパール作戦開始


・大河と山を越え最大470キロを踏破する前例のない作戦でした。短期決戦をきした日本兵は3週間分の食糧しか持たされていませんでした。田口司令官は荷物の運搬と食用のために牛を集めさせました。さらに、敵から食糧や武器を奪えと命令したのです。



1944年3月8日、インパール作戦が開始されました。兵士たちの前に川幅最長600メートルに及ぶチンドウィン河が立ちはだかりました。イギリス軍の空襲を避けるために渡河は夜間に行われました。集めた牛は半数が流されたと言います。河を渡った兵士たちの目の前にあるのはラカン山系でした。車が走れる道はほとんどないためトラックや大砲は解体して持ち運ぶしかありませんでした。大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たち。戦いを前に消耗していきました。

消耗する兵士たち 軽視されていく命作戦変更の進言に怒号を返す牟田口司令官

作戦開始から2週間、インパールまで直線距離110キロの辺りで日本軍とイギリス軍の最初の大規模な戦闘が起きました。南からインパールを目指した第33師団です。イギリス軍の戦車砲や機関銃を浴び、1000人以上の死傷者を出す大敗北をきっしました。



第33師団の師団長・柳田元三(やなぎだげんぞう)中将は、インパールを3週間で攻略するのは不可能だとして牟田口司令官に作戦の変更を強く進言しました。
<「いまだ敵拠点を占領するに至らず。突進隊を玉砕に瀕せしめた。至急適切なる対策を講ずるの要ありと認め、忍び難きを忍びて、あえて意見を具申申す」(柳田師団長から牟田口司令官への電報)


田口司令官のもとには、他の師団からも作戦の変更を求める訴えが相次ぎました。司令部にはいつも牟田口司令官の怒号が響いていたと言います。


師団長と牟田口司令官とのけんかのやりとりが続いた。司令官は『善処しろとは何事かバカヤロウ』の応答だった。」(齋藤博圀少尉の回想録より)
「牟田口司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり『ハイ5000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5000人殺すのかと思った。それは味方の師団で5000人の損害が出るということだったまるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せばどこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録より)

発見された機密資料 牟田口司令官の思惑相手戦力の軽視

終戦直後、イギリスなど連合軍はインパール作戦について日本軍の指導者から、その内実をひそかに聞き取っていた、その対象は司令官から幕僚、17人に及んでいる。北から侵攻した第31師団、1万7000人がイギリス軍側と激突したコヒマの戦いについての田口司令官の調書が残されています。
インド国内の連合軍の軍事力に関して一定の情報を収集していたが得られた正確な数字を覚えていない。コヒマを取ることによってインパールの敵軍に圧力をかけられ、その攻略ができると考えていた。

作戦開始から3週間、第31師団がコヒマに到達しました。しかし、イギリス軍の戦力は太平洋戦争の初戦でビルマから敗走した時から一変していました。短期決戦を期した日本軍に対し、イギリス軍は航空機による補給で持久戦に持ち込む作戦を周到に立てていました。武器や食糧、医薬品など一日250トンもの物資を前線に投下できる体制を整えていたのです。

コヒマに攻め込んだ第31師団の師団長・佐藤幸徳(さとうこうとく)中将は、コヒマにいたった時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言しています。
コヒマに到着するまでに補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」(佐藤幸徳師団長の調書より)

死者3000人 コヒマの戦い 挫折した短期決戦捨て身の肉薄攻撃

作戦開始から3週間。イギリス軍が撮影していた10時間を超える映像が残されていた。(その中には無残な日本兵のおびただしい死体も)

日本人に協力した少数民族の男性が右手でタクトを振るように日本の歌を聞かせた:
白地に赤〜くぅ〜♪ 日の丸染〜てぇ〜♪ 
あ〜ぁ、美しや〜♪ 日本の旗〜は〜♪(◎今なお完ぺきな日本語が、この山奥の尾根に日本人兵士が確実にいたこと、現地の人たちとの交流をも物語っています。お骨を今も袋に入れて残している人もいます。)

◎コヒマからインパールへつながる三差路。
イギリス軍は、この三差路を見下ろす丘の上に
強固な陣地を築き、
突撃を繰り返す日本軍を火力で圧倒した。



◎突撃命令を下した平山さん。
「これ(突撃)に失敗するとそこで死ぬ」
「その中から、俺は生きて残った」
「一番 悪の方だ。」
その目が潤む。



3週間で攻略するはずだったコヒマでの戦闘は2か月間続き、死者は3000人を超えました
武器、弾薬が不足する中で兵士が命じられたのは肉薄攻撃爆薬を抱えたまま敵の戦車に飛び込むという命がけの攻撃でした。
(突撃命令は、山田さんの直前で中止。それまでに突撃した10人全員が死亡。)

◎太平洋戦争の敗戦が続くなか、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された
コヒマから遠く離れたメイミョーで指揮を執っていた牟田口司令官の下で、取材対応を取り仕切っていた山崎さん「朝日(新聞)とか、毎日(新聞)とか、大きいとこには非常にいいお話をする。とにかく、国の人たちが、「やった〜〜日本はやったぁ〜」と景気よくやらないかんと。嘘でもええと。」(つづく)