ここ数年、8月のお茶は、お盆で忙しいし、暑いし…と、お休み月になっていました。ところが、先月、予定を決めるとき、皆さん、すんなりと決まりました。が、私は、寸でのところで行けなくなるところでした。
実は、明日は帰国日という夫からメールが入り、今、空港行きの列車に乗ったから予定通り帰ると連絡があったのに、その後のメールで「電車遅延のためフライト間に合わず、ドーハ、ソウル経由に変更」とのこと。その韓国で乗り継ぎの飛行機が満席。一泊して翌日帰国ということになり、月曜のお昼頃やっと帰国。ところが、翌日の朝になって40度を超す高熱を発し、かかりつけ医もお盆休みということで、解熱剤を飲んで氷で冷やして横になっているうちに平熱に戻ってきました。70も過ぎて飛行場の堅い椅子で2泊したりして、若いころの体力がないのに、無理をした所為でしょう。私は、お茶のお稽古日だというのを思い出して、ひとまず何とか安心して出かけられるようになりました。
お部屋に入ると、いつもと違います。広い床の間の正面、いつもなら掛け軸がかかっている真ん中に竹籠に生けた花が飾ってあります。掛け軸の下には隠し釘の無双釘が仕込んであり、花籠を飾るときは収めた引っ掛け部分を取り出して、花籠を掛けます。
お花は、白くて大きな木槿(むくげ)、隣の濃いピンクの花は秋海棠。小さくて薄いピンク、真ん中が濃いピンクの花は高砂芙蓉(ふよう)、そして白い蓼(タデ)。
お一人が目医者さんの検査帰りで瞳孔が開いたままだとか。大事なお茶碗を取り落とすといけないので、今日は飲むだけということで、正座してのお稽古の用意もしてありましたが、二人とも立礼式でお茶を点てることに。先生が、水差しだけ入れ替えてテーブルの上へ。大きな漆の黒い蓋ですが、真ん中を蝶番(チョウツガイ)でつないである割れ蓋がかぶせてあります。水差しは青い絵付けがしてあり、鶴と雲が描いてあります。(←写真は、終わった後の棚飾りを、蓋の上で)
夏用の平茶碗がたくさん出してありました。分厚くて、いかにもイタリアという色彩豊かな浅い器と、もう一つは、模様は九谷の赤絵を模してあるけど、よく見ると屋根は教会の屋根という、変わった浅い鉢。裏を返すと、フィレンツェという文字が見えます。これは、どうも日本の和皿を模したものだけど、イタリア製よというアピールもしてある変わった陶器。よく見つけてこられたものです。私は、極彩色のイタリア製と、京焼のほうずきを描いた平茶碗を選びました。先に京焼、2番手にイタリア製で淹れます。
主菓子は直前まで器ごと冷蔵庫で冷やしてあったのを、私が水屋に入ったとき、先生が持ってこられました。松山空港限定品の「はつか雲」という名前のお菓子。上は小豆の大納言。下の蒸し菓子のようなところは栗が入っていて高級菓子だそうです。
お干菓子は、かわいい落雁。なかなか凝った絵柄のきれいな落雁。
よく見ると、傘やカタツムリ、写真にはありませんが、蛙の顔なんてのもありました。
竹細工の上に和紙を張って塗りを施したお皿もいいです。
お茶碗は、いびつな小さいお茶碗で半分が黒、半分は青い色をした葵窯のもの。青い釉薬の下には線彫りの鳳凰の絵が見えます。青い釉薬が一番下で一点に集まったところはガラス質になっています。
淡いベージュの色がとても美しい高麗茶碗。全体に背が高く見えるところが韓国風。
左のお茶碗が裏にフィレンツェと書いてあるもの。絵がよく見えるように写真を撮ったので、異国風に見えますが、周りの模様が九谷のよくある赤絵模様を模しているので、一見和風。言わない限り、イタリア製と判る人はいないとか。
9月のお稽古日を決めて帰宅。
すっかり元気になった夫の声がして「テーブルの上にお土産があるから」。
帰ってすぐ洗濯物を出して以来触っていなかったリュックをやっと見る気になったようです。
かわいいカードが付いた茶色の袋。何だろうと思ったら、革製の細い紐。小さな飾り金具がついた腕輪でした。
カードを裏返すと、アオスタという地名が。イタリアの西北の端、フランスやスイスに近い所。シャルドネは、ワインとは全く関係のない別のシャルドネでした。
PS:先生に「三本脚の場合は、どちらが正面でしたっけ?」と質問。「喰籠((じきろう)の場合のみ2本が正面。普通は一本が正面」と答えてくださったのですが、後で先生が思い出したように、「脚のことだけど。たとえば、風炉の脚を一本正面にして置いて、その横にまた三本足のもの(なんでしたっけ?)を置くような場合は、重なることを避けてワザとこちらは二本を前にする場合があります。そういう時は、間違っていると思わないこと」「じゃ、それを、話題にしてもいいんですね」「正客さんの機転で、よく考えてありますねと指摘すれば、なるほど…と言う風になって、お茶席の場が持つわけです。お茶というのは亭主だけでもダメ、お客さんあって、相互のやり取りがあってのお茶。だから人と人の総合芸術なんですね」と。
お茶の常識をわきまえたうえでの常識破り、それに気づいて、その気持ちを慮る。歌舞伎の『型破り』と同じですね。だからいつまでたっても到達できない楽しみがお茶にはあると言われました。書、工芸、漢詩、和歌、など古典の素養と現在の社会情勢、などなど、出される話題には限りがありませんし、精通している場合もあれば、素人の場合も、そういう時、恥をかかせない配慮、気遣いも必要だし、と人間性も問われる場です。お茶の奥深さを教えていただいた日でした。