平家物語「能登殿最期」

先週書いた3日の購読についての記事、森友文書改ざん問題でアップする機会がなく今週になってしまいました。麻生大臣、安倍首相夫妻、平家物語の冒頭のような末路をたどることになるか、国民の意思次第ですが、引用です。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

3月3日の土曜日は今月の平家物語購読の日でした。
3時前に講座室に入ったら、いつもにまして大勢の人。ほとんどの席が埋まっています。

一つの机を3人で使わないと立っている人が出るほどの込みよう。真ん中の席について、立っている人に、どうぞ、と声を掛けました。
先生のお話によると、萱野にあるヴィソラの講座室で、平家物語の講座を4回開いたそうです。それも名場面ばかりで、4回目が、先月の「先帝身投」。評判がよくって、6人の方たちがこちらの講座も受けたいということに。それで、一杯だったわけです。お名前を呼ばれましたが全員女性でした。
さて、この日は「能登殿最期」。
能登殿というのは、清盛の弟・教盛(のりもり)の次男、教経(のりつね)のこと。もう平家は負け戦、ここは、平家の人々の最期の様子を描いています。戦って死ぬものもあれば・・・
まず、二位殿(安徳天皇の母で、高倉天皇の后、清盛の娘徳子)は、焼石とか硯とか重いものを懐に入れて海に身投げしたが、長い髪に源氏の渡辺党の一人が熊手をかけて、引き上げた。「それは、女院ですよ」と言われて、義経に申し上げて、御所の御船に移された。
海に飛び込んで死ぬときは、わざわざ重いものを身につけて飛び込まないといけないんですね。

侍でも同じ。
清盛の弟の教盛との経(つね)盛兄弟は、鎧の上に碇(いかり)を背負い、手に手を組んで海に。
清盛の長男・重盛の息子、資(すけ)盛と有盛、従弟の行盛の三人も、手に手を組んで海に。

ところが、大臣殿(おおいどの=総大将の宗盛)親子は海に入ろうという様子もなく、茫然とした様子。侍どもはあんまり情けないので、そばを通り過ぎる格好をして海へ突き落した。息子の右衛門督(うえもんのかみ)は、これを見てすぐさま飛び込まれた。ところが、重いものを身につけぬ二人、そのうえ、水泳が達者(「くっきょうの水練にておわしければ」」)なので、沈めない。親子二人は助かるも沈むもお互い相手次第と思いながら浮いているところを、伊勢三郎義盛が船を寄せて、熊手に引っ掛けて二人を船に引き上げ捕らえた。

大臣殿の乳母子(めのとご)の飛騨三郎左衛門景経(かげつね)がその船に乗り込んで加勢するも、ついには力尽きて大臣殿の目の前で討たれてしまう。大臣殿は生きたまま引き上げられ、目の前で乳兄弟の影経を討たれ、どんな心地がなさったことだろう。

さて、一方、能登守教経(のとのかみのりつね)は勇猛果敢、ありったけの矢を射つくして、大太刀を抜き、大長刀(おおなぎなた)の鞘を外して、両手に持って振り回していくと、面と向かうものなく、多数が討たれてしまった。新中納言知盛(とももり)が「能登殿、いたう罪な作り給ひそ、さりとてよき敵(かたき)かな」。知盛らしい言葉です:「あんまり罪造りなことをなさるな。大した敵でもあるまいに」。戦闘の勝ち負けに関係のない命を無駄に奪うな”ということです。
そこで、能登殿は『大将軍に組め』というのかと源氏の船に乗って、顔を見知っていない総大将の判官を探すことに。うまく判官の船に乗り込んだが、そこは身の軽い判官、二丈ばかり離れた味方の船に「ゆらりと」飛び乗った。

もはやこれまでと能登殿は、太刀・長刀を海へ投げ入れ,甲(かぶと)も脱ぎ捨て、鎧も胴だけにして、ざんばら髪になり、大手を広げて立っておられた。威風堂々他を寄せ付けぬ様子に見えた(「凡そあたりをはらってぞみえたりける」)。「おそろしなンどもおろかなり」(恐ろしいなどという言葉ではとても言い尽くせないほどである)。

「我こそと思う者どもは、寄って教経に組んで生け捕りにしろ。鎌倉に下って、頼朝に会って、一言言おうと思う。さあかかってこい」と言われるが、近寄るものは一人もない。

ここに、土佐の国の住人で,安芸郷(あきのごう)を支配していた安芸大領実康(さねやす)の子、安芸太郎実光(実光)と言って三十人力の剛の者がいた。と同じくらいの郎党一人と、弟の次郎も普通以上の強剛の者。安芸の太郎が能登殿を見て「どんなに勇猛でも、われら三人が取り付いたら、たとえ背丈十丈の鬼でも、どうして従えられぬことがあろう」と言って、三人船に乗って能登の殿の船に横付け、「えいっ」と乗り移り、討ちかかる。
能登殿ちっとも騒ぎ給わず、まっさきに進んだる安芸太郎が郎等を、裾を合わせて、海へどうど蹴入れ給ふ。つづいて寄る安芸太郎を、弓手(ゆんで=左)の脇にとってはさみ、弟の次郎をば馬手(めて=右)の脇にかいはさみ、一締めしめて、「いざうれ、さらば、おのれら 死途(しで)の山の供せよ」とて、生年廿六(26歳)にて海へ つっとぞいり給ふ。」
◎大臣殿の宗盛の最期やいかに?というところですが、大碇を背負って海に飛び込む?とMr.後藤が・・・