平家物語「逆櫓」


◎昨日は9月最初の土曜日、古典文学講座「平家物語」の新年度でした。
室内に居れば涼しいぐらいですが、外の日差しはまだ夏。でも湿度が低くカラッとしています。
いつも二階の踊り場から写真を撮っていましたが、この日は3階の踊り場から芦原公園を。
年会費5000円払って更新。世話役さんの初仕事の日です。
さて平家物語、1185年のお話です。
平家はもう、敗走に次ぐ敗走も3年目。

◎「逆櫓(さかろ)」という章に入りましたが、追走する義経の言葉が酷い。
瀬戸内海の八島にいる平家を追う源氏。
梶原景時が、「今回の合戦では舟に逆櫓を立てて引き返すこともできるように」と提案しますが、義経は「戦う前から逃げ支度とは。百挺でも千挺でも櫓をたてるがいい。義経はもとのままで」と、二人の間で同士討ちが始まるかと思えるほどの対立。
日が暮れ夜に入って、出発の命令。船頭や水夫が「追い風だけど強風なので、沖ではもっと強いはず」と出し渋ります。
すると義経は「野山の末にて死に、海河の底に溺れて失するも、みなこれ前世の宿業なり。」
「向かい風にわたるというのなら不都合だろうが、順風なのが多少強いからと言って、これほどの大事な時にどうしてわたるのは嫌だと申すのだ。船を出さぬのなら、一々(いちいち)にしゃつばら射殺せ」と下知(げち)せらる。」
凄いです。「船を出さぬなら殺せ」と命令します。

ここで先生のお話しが入ります。
「戦争って、いつの時代もこうなんですね。退却は許されない、引けば味方でも殺すんですね」。
◎船頭・水夫たちはこれを聞いて「射殺されるのも船を出して死ぬのも同じこと。風が強いなら、ただ船を走らせて死んでしまえ、者ども」と言って、
「二百余艘の船のなかに、ただ五艘でてぞ走りける。」
決死の嵐の中の追走で、なんと、「三日かかるところをたった六時間ぐらいで渡った。」
「二月十六日の午前二時頃に大阪の渡辺・福島を出発して、翌日の午前六時ごろに、阿波の地へ風に吹きつけられて到着した」
ここまでが、「逆櫓」です。
◎↓この地図は先生が持ってこられたものです。
義経の船団が出発したのは渡辺というところです。
堂島川に架かる渡辺橋というのがありますが、今のこの辺りだそうです。
近くに朝日新聞社やリーガグランドホテルが見えます。

余談ですが、渡辺という名字は、ここからということが分かっているのだそうです。
”渡しの辺り”で渡辺と呼ばれ、渡辺と名乗るようになったそうです。
全国の渡辺さんはルーツをたどると一人残らずここに行きつくことになっています。

帰宅して、昨日まではデミタスサイズのコーヒーを3人分、隣の両親に出前する時間ですが、この日は前日、父が歩いて我が家まで行ける、というので、じゃということになっていました。7月25日、原因不明の脚の炎症を起こして以来、一か月以上です。杖を渡して、玄関に踏み台を置いて、様子を見ていましたが、大丈夫。夫も一緒に久しぶりの4人でのコーヒータイム。お土産のスイスチョコがよく合いました。
◎この日の夜のEテレ、途中から見たのですが、今、「花筐(かたみ)」という映画を撮り終えて最後の編集段階を、がん闘病をしながら頑張っている映画監督の大林さんでした。映画のテーマは「青春を戦争の消耗品にされてたまるか」という意味で「青春は戦争の消耗品ではない」と映画で言わせておられました。軍国少年だった自分、今の戦前ムードに気づくのが遅かった、生きているうちに警告を発するのが役目と、遺言のような映画を撮っておられます(「Eテレ」昨夜の番組)映画の公開は12月とか。)
戦争は、敵も味方もなく、人間を消耗品扱いする非人道極まりない政治の結末。戦争は絶対悪。そうならないために平和の努力をどんな苦労をしてもすべきです。安倍首相の北朝鮮への対応には、平和の努力を感じません。圧力をかけ続けた結果、戦前の日本みたいにヤケッパチの戦争を選ぶこともあります。その結果を日本人は一番知っているはずです。同じことを北朝鮮にさせてはいけない、そのためには、何が何でも北朝鮮アメリカが話し合いで解決できるよう日本も尽力すべきです。それが今の憲法が求めていることだと思います。