高村薫氏「真実や正義が意味をなさない時代に」(西日本新聞)


★★今宵も大阪府庁前の抗議、
7時から8時まで、やりますとのことです。
★昨日の大阪府庁前抗議ツィッターからです:

cherry
@cherry_o17 5月10日

明日は(今日11日) #大阪府庁前抗議 マイクデーでもあります。
19〜20時、大阪府庁正面玄関前にて#0511大阪府庁前抗議



◎このところの気持ちの悪さは何だろうか。与党政治家や大臣やお役人のふるまいのなんと下劣で居丈高で…昔なら、こんなひどい状況が何年も続くなんてことはなかったはず。選挙を何度やっても同じか、マスマス悪くなる。一体、有権者は、何を見て、何を聞いているのか。一つには、日本語が通じなくなったことがあります。『むかし、むかし、太平洋の海原に浮かぶ美しい列島に住む我儘な王様が、ある時から、”閣議決定”とやらで「黒は白」「白は赤」と勝手に決めてしまい、そこに住む人々は「黒は黒」と言えなくなってしまったのです』。昔話やおとぎ話の世界ならよかったのですが、現実です。当面『日本語を取り戻そう!』が真面目な課題です。

内田樹さんがリツイート

中島岳志
@nakajima1975 4月29日

言葉を崩壊させると、あらゆる合意が空洞化する安倍内閣の最大の特徴は、言葉への信頼を剥奪することで、政治的操作を進めることにある。これは世界の崩壊につながる。言葉を取り戻さなければならない。


日報の「戦闘」、法的な「戦闘行為」でない:朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/ASL4W51FYL4WULFA02B.html


◎5月3日の憲法記念日西日本新聞高村薫さんの記事を掲載しました。どなたかのツィッターでその記事の写真を見たので保存していました。読んでみると、今の時代の憂鬱の原因がよくわかりました。
<もはや腹を立てるだけ虚(むな)しい。それほどの惨状です。一国の首相の配偶者の振る舞いに振り回されている政治の現状も、取り繕うのに必死の内閣も、ひたすら追従するだけの与党や官僚も、そして次元の低さを冷笑するだけの有権者も、全てが最低・最悪。けれども、これが民主主義国家を標榜する日本の掛け値なしの実像なのです>・そうなんですね、なぜか虚しくて・・・戦後70数年経て、日本の民主主義は、確かに、この程度です。
<日本がいまだに昭和の戦争の検証と総括ができていなのは、政治家と官僚が公文書を廃棄したからです。戦争の総括ができないことで、戦後の日本人がどれほどの損失を被っているか。過去の検証ができないことの不幸は、若い世代も無縁ではない。>・戦争の検証と総括ができないために、私たちは共通の歴史が持てなくて、戦争の反省もバラバラ、描く未来もバラバラです。
<ネット社会が根本的に変えてしまいました。大衆がそれぞれにものを言い、瞬時に多数派を形成して社会を動かすようになったいま、理念や原理原則は後退し、耳を傾けるべき意見、従うべき社会常識、信ずるべき価値観が消え、全てがフラット化されてしまった。>・これも全くその通り。言ったもん勝ちのレベルの低いところで言い合い合戦です。
<かつて「お天道(てんと)様が見ている」と言われたような絶対的な規範は、もう存在しない。いまや、ウソと分かっていても、フェイクニュースであっても、「いいね」ボタンが多ければ OK という社会が出現しているのです。そして、その「いいね」も日々変わっていく。真実や正義や公正が意味をなさない時代になり、原理原則が崩壊した社会に私たちは生きています。文明の終わりの始まりなのかもしれません。>・「すべてが最低・最悪」の現実をしっかり把握して、このまま落ちていくのか、日本の正念場かもしれません。

◎写真と記事の書き起こしで全文を:
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規範を失った日本社会
高村薫さん「政と官のいま」語る
西日本新聞(5月3日)3面>

改ざんや隠蔽(いんぺい)など不祥事が相次いで発覚、日本の統治システムは危機に瀕している。公正性、信頼性が失墜した「政と官」の今をどう見るのか、作家の高村薫さんに聞いた。


▽不変の原理原則
 もともと官僚が国民の方を向いて仕事をしていたとは思いません。彼らの主眼は常に組織と省益の防衛だから。情報公開でもづ合が悪ければ当たり前のように黒塗り、そもそも追及されて困る事実は文書に残さない。徹底した文書管理が官僚の本態なのに、今回あちこちでボロが出たのは組織の緩みでしょう。
 しかし、公文書の改ざんは組織の緩みではない。官庁の文書管理に本来「改ざん」の発想はないからです。結局、自分や婦人が関与していれば辞める、と断言した安倍晋三首相の稚拙な国会答弁に合わせるために、改ざんに追い込まれたとしか考えられない。官邸と官僚の異様な関係が浮かび上がりました
 時代がどんなに変わっても、変えてはならないものを原理原則と言います。公文書の保存はその一つ。それを改ざんしても罪を問われないとなると、歴史の検証ができなくなる。日本がいまだに昭和の戦争の検証と総括ができていなのは、政治家と官僚が公文書を廃棄したからです。戦争の総括ができないことで、戦後の日本人がどれほどの損失を被っているか。過去の検証ができないことの不幸は、若い世代も無縁ではない国会と政府から完全に独立した公文書管理機関が絶対に必要です
 社会の秩序を保つ公共の精神も、政治や統治を行うための理念も、現実には日々の仕事に追われて生きる私たち国民が広く共有するものではありません。 だから私たちは代表者を選んで政治を託し、あるいは知識人の語る言葉に耳を傾け、新聞を読んで知識をえてきたのが、ネット社会が根本的に変えてしまいました。 

(「終わりの始まり」写真の記事の続き)合理的な若い世代は国会で証人喚問してもムダだから、それよりも重要法案を審議しろ、と言う。確かに証人喚問しても何も出てこない可能性は大だが、政治を私物化して公文書の改ざんまで引き起こした上に誰も責任をとらない、こんな政治家に重要法案の審議などさせてはならない、これが原理原則です政治の停滞がもたらす不利益は、こんな政治を許してきた私たち有権者の自業自得なのです。
「忖度(そんたく)」は一般の社会生活でも日常的にありますが、一線を越えれば当然罰せられる。今回の不祥事では官邸も官僚も一線をはるかに越えていても、のうのうとしらを切る。この事態を、私たちは心底おそれるべきです。というのも、これは真実や正義が価値を持たなくなった世界の出現を意味するからです。
 かつて「お天道(てんと)様が見ている」と言われたような絶対的な規範は、もう存在しない。いまや、ウソと分かっていても、フェイクニュースであっても、「いいね」ボタンが多ければ OK という社会が出現しているのです。そして、その「いいね」も日々変わっていく。真実や正義や公正が意味をなさない時代になり、原理原則が崩壊した社会に私たちは生きています。文明の終わりの始まりなのかもしれません。