「本土の政治が変わったと思った2つの切っ掛け」(翁長さん)

◎先週のサンデーモーニング青木理氏が、翁長氏にインタビューしたときのことを話していました。「変わったのは私ではなくて自民党だ」というお話で、変わったと感じた2つの切っ掛けを。なるほどと思ってメモしたのですが、先日山崎氏のツィッターで青木氏の発言を見つけましたので:

山崎雅弘さんがリツィート
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@kentaro_s1980 8月12日

サンデーモーニング 青木
「一年くらい前に翁長さんにインタビューした。元々自民党ど真ん中の人。なんで変わったんですか、と。『私が変わったんじゃない、本土の政治が変わった。きっかけは?沖縄戦での集団自決を教科書から消そうとした(ことと、沖縄屈辱の日を「主権回復の日」にして祝ったこと」by蛙)等…沖縄に対する知識も情も寄り添う気持ちもない…』」

(1)「自民党本流」だった翁長氏の転機となったのは2007年。文部科学省の高校歴史教科書検定沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述が削除・修正されたことに対し、記述復活と検定意見の撤回を求めた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に参加。(8月12日蛙ブログ「写真で振り返る政治家・翁長雄志氏」より)
(2)2013年に、サンフランシスコ条約が発効した4月28日を日本が主権回復を果たして60年の節目の「記念式典」を政府が主催することを3月12日に閣議決定。4月28日に政府主催で行った。この時参加者の間で天皇陛下万歳が始まり、天皇皇后両陛下が硬い表情をなさっている様子がニュースで。


サンフランシスコ講和条約発効から61年を迎えて開かれた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」。左端は安倍首相。2013年4月28日 ©共同通信社(引用元:文春オンラインhttp://bunshun.jp/articles/-/5922?page=2

◎歴史を変える、あったことを無かったことにする、ということは、関わった人を亡き者にすること、抹殺することに等しいと思います。

日本の戦争がいかに人の命を疎かにしてきたか、人ひとりの命を何だと思ったのか。人間を鉄砲の弾代わりに使い捨てのようにして平気。軍人のみならず、住民まで戦わされて、その上自決を迫られた沖縄の人たちの死。それを、教科書から削除するとは? 1952年の平和条約(サンフランシスコ講和条約)では、ひそかに結ばれた日米安全保障条約(旧安保)で米軍の沖縄占領が固定。その後、1972年の沖縄返還。本土並みのはずが実はそうではなくて、相変わらず米軍基地は残り、女性たちが米軍兵士の慰み者にされ続けた。それなのに、沖縄屈辱の日を本土の安倍政権は「主権回復の日」として祝う。 ”取り戻す日本”の中に沖縄は含まれていないと翁長さんはじめ沖縄の人たちが実感するに十分な仕打ちだと思います。


◎かつての自民党政治家には、太田実中将の最後の電報「沖縄島民、かく闘えり、ご高配のあらんことを」を心に刻んだ人たちがいました。翁長氏が名前を挙げた野中さんのほかにも戦争中の沖縄のことを良く知っていて、沖縄を大事に考える政治家たちがいました。沖縄に銅像まであるのが小渕恵三さんです。小渕さんと言えば、30年前の元号発表の会見で「平成」を掲げた官房長官でした。総理大臣となって沖縄サミットを準備しながら出席できなかったのでしたね。今は見ることもない二千円札を発行し表を首里城の守礼の門にしたのも小渕さん。まさに「沖縄島民、かく闘えり」をよく知って、沖縄に寄り添った政治家が自民党の中にもいたのです。村山富市氏の追悼演説が小渕氏と沖縄とのかかわりを十分に伝えています。(追悼演説はWikipediaの小渕氏のところに紹介がある)
◆ここで、平和条約と日米安保条約のおさらいです(主にWikipediaより)

「日本国との平和条約」(サンフランシスコ講和条約)( Treaty of Peace with Japan)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために締結された平和条約。この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した。国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。
連合国構成国であるソビエト連邦は会議に出席したが条約に署名しなかった。連合国構成国の植民地継承国であるインドネシアは会議に出席し条約に署名したが、議会の批准はされなかった。連合国構成国である中華民国および連合国構成国の植民地継承国であるインドは会議に出席しなかった。その後、日本はインドネシア中華民国、インドとの間で個別に講和条約を締結・批准している。
1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。

<講和会議と条約調印>9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス(ウォーメモリアル・オペラ・ハウスにおいて全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。
日本の全権団は首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎自由党常任総務)・徳川宗敬参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登日銀総裁)の6人。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど、妥協の末、委員参加を取りつけた。また、日本社会党に対しても全権委員参加を要請したが、左翼陣営は基本的に「全面講和」を主張していたため不参加となった。
9月7日、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。英語で行う予定で準備されていたが、直前になって日本語で行うことになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な巻物式の急造原稿は現地のメディアからトイレットペーパーとも言われた。

(GHQとの交渉で活躍した白洲次郎が、吉田茂の演説を事務官が英語で用意したのを、日本語で、それも巻紙、毛筆に改めさせました)


「日本国との間の安全保障条約」(旧日米安保条約(Security Treaty Between the United States and Japan)は、日本における安全保障のため、アメリカ合衆国が関与し、アメリカ軍を日本国内に駐留させること(在日米軍)などを定めた二国間条約である。1951年(昭和26年)9月8日の日本国との平和条約の同日に署名された。1960年(昭和35年)に日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効したことに伴い、失効した。

当条約の署名のさい、主席全権委員であった吉田茂首相は独りで署名に臨んだ。講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、プレシディオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われたこの調印式には、他の全権委員は欠席しており、唯一同行した池田勇人蔵相に対しても「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って一人で署名したという

◎1951年9月8日、午後5時、吉田茂首相が一人で米軍下士官用のクラブハウスへ出向き4人の軍人に囲まれて署名した旧安保条約。

吉田ひとりで安保条約に署名 帰ってきた日本(17)

日米外交60年の瞬間 特別編集委員伊奈久喜
2012/12/29 7:00
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK19031_Q2A221C1000000/


◆ここの受け止め方が「屈辱の日」か,それとも「祝賀会」まで開いて天皇陛下万歳となるかの分かれ目です。沖縄にとっての屈辱は、すなわち日本にとっての屈辱です。もともと二つでセットだったものを、光りの平和条約だけを取り上げて影の日米安保条約を見ようとしない無視すると万歳になりますね。本土が基地問題を抱えていた時代は2つがセットと気づいていたけれど、沖縄に基地が集中するようになると、見て見ぬふりをしたり、見ようとしなくなったり、忘れたり。翁長氏はそこを訴えています。
この当時おぜん立てを手伝った白洲次郎が残した言葉「今に見ておれ」の通り、冷戦体制の中、早期独立のためアメリカ側との単独講和を選んだものの、日本の自立の望みは捨てず、アメリカとの協議の中で安全保障条約の従属的な内容を変えていくつもりだったのではないかと思います。
しかし白洲から見ると、その後の吉田茂は変節し、政治家から政治屋になった。その後の政権も安全保障はアメリカ頼み、経済一辺倒、浮かれてしまってダメだということで政界からは一切身を引いてしまったのでは。1970年直前の白洲次郎の言葉に、安保は一方的に通告すれば止めることが出来る、本気なら独立して自前でやってみろ、経済的には今より苦しくなる、それを覚悟する気なら…というのがあります。
大事なことを先送りして経済的豊かさを追求してきたのは私たち戦後世代の国民にも大きな責任がありますね。
◎翁長さんの最後となった7月27日の承認撤回記者会見で、今の沖縄(=日本)を取り巻く状況と何をなすべきかが語られています:(8月12日の蛙ブログより)

・アジアのダイナミズムを取り入れて、アジアが沖縄を離さないんです沖縄はアジアの地政学的な意味も含めて経済ということでは大変大きな立場になってきている。こういったこと等を平和的利用、アジアの中の沖縄の役割、日本とアジアの架け橋、こういったところに沖縄のあるべき姿があるんではないかと思う。


今の日本のアメリカに対しての従属は、日本国憲法の上に日米地位協定があって、国会の上に日米合同委員会がある。この2つの状況の中で日本はアメリカに対して何も言えない状況がある。これはもし違うなら反論しながら『そうじゃないよ。ちゃんと憲法日米地位協定抑えているよ、国会も日米合同委員会から報告させているよ』と日本の最高権力がそうやっているならいいが、F15から何から飛んでいくのをみんな日米合同委員会で決められて、何も問題がないということで国会でも議論にならない。


↑この状況を変えていくことですね。
◎国の安全保障をどうすべきか、沖縄に負担を一方的に押し付けたままでいいのか、沖縄の闘いを本土は見ているだけでいいのか、アメリカとの関係は今まで通りでいいのか、韓国とは、中国とは、ロシアとは、北朝鮮とは? 世界で唯一の被爆国なのに、核兵器禁止条約に今のようにアメリカ追随でいいのか?核の傘でいいのか? 9条をなくしてしまっていいのか? 考えるべきことはたくさんありますね。人任せにして後で文句を言っても始まりません。自戒を込めて。