安保とその時代・第3回「「60年安保 市民たちの一ヶ月」

9月5日の日曜日(夜10時から1時間半)放送のETV特集「シリーズ・安保とその時代」の第3回を観ました。
今回こそ、大幅ダイジェストで感想だけにしようと決めていたのですが、録画したのを見るとやはり、現場で体験した人たちの言葉は重いですし、様々な人の安保体験から今を考えてみる良い材料でもあります。なるべく端折りながら追ってみようと思いますが、また長くなりそう? よかったらお付き合いください。

 60年安保は私が高校生になったばかりの時で、箕面から岡町へ、阪急電車を石橋で乗り換えながら通学していました。現代社会の先生は授業中にも「アメとムチ」の政策とか言いながら、解説があったような。クラス討論もあったような。はっきり覚えているのは、以前にも書いた、学校から駅までの帰り道にある遊園地の象の鼻の滑り台の上で、近くの阪大生の活動家が「授業でク、カラ、ク、カリ、シ、キ、カル、ケレなんて唱えている場合ではな〜い!」とアジ演説をしていたのを、友達二人で「あれが全学連!」という思いで遠巻きに見ていたこと。家に帰れば連日、全学連の学生の大規模デモ、その内市民や文化人や知識人も、というのをニュースで見ていましたので、身近に事件を感じた忘れられないシーンです。

新旧安保の違いまでは知らず、ただ、自然承認の日は、こんなに反対してる人がいるのに・・・という気持ちでした。一緒に見ていた父も母も無言でした。政治的なことは家の中では親子で話し合うことはない頃でした。勿論、樺美智子さんが亡くなられたときは話題にはなりましたし、放水のシーンや国会の門が開けられるシーンなどもビックリして見ていました。その高校1年生よりほんの3年上が大学1年生ですので、いよいよ70歳代の方たちがリアルタイムで生きていた時代に入ってきます。

山根基世さんが語る本編前のプレリュードが毎回の番組のテーマを示しています。今回、画面は2010年6月15日、サッカーのワールドカップでニッポン、ニッポンと沸く日本の若者が映し出され、50年前の今日何があったか知っていますかと質問して始まります。1960年6月15日、この日も2万人の日本の若者が国会前に押し寄せていた。安保反対闘争である。そして、この日、東大生の樺美智子さんが死亡。1ヶ月で反対闘争は全国に広がったが、自然承認され、岸信介首相の辞任と共に激しかった闘争は収束。安保の中身は議論される事なく、そのまま一言一句変わることなく現在に至っている。あの闘争は一体なんだったのかを当時そこにいた人たちの証言をもとに考えてみようというわけです。また、去年今年と普天間基地の移設問題でゆれる沖縄、その在日米軍基地の根拠になるのが岸首相が結んだ「日本とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」です。

1957年1月、岸信介、首相就任。アメリカとの関係を重視して6月にはワシントンでニクソン大統領に6年前に結ばれた旧安保の改定を申し出た
背景には基地反対闘争、米兵の犯罪、米軍機の墜落などがあり、1951年の旧安保条約の不平等:米軍が日本を守る規定がない、米軍が行動を事前に日本に知らせる義務がない、内乱を米軍が鎮圧する(内乱条項)があった。
岸首相は、より対等となる条約を結び国内の不平を抑えようとし、アイゼンハワー米大統領も改定に同意した。
日本の基地の維持はアメリカのアジア戦略の要であった。改定案は両国の友好関係の強化と不平等を改める(事前協議の義務化、内乱条項の撤廃、集団的自衛=日本の領土内でどちらかが攻撃された場合共同で守り合う)ものであった。しかし世論はより対等に改められると評価するものとアメリカの戦争に巻き込まれると反対するものに二分された。
当時の科学技術庁長官の中曽根氏は「独立国家としての対面が保たれた。安保は必要不可欠として賛成」していた。反対運動の中心は労働組合の団体が社会党共産党に呼びかけて結成された「安保改定阻止国民会議」であった。当時の幹部の証言:安保改定は、戦争に巻き込まれ、軍事増強、核兵器持込や核武装につながるんじゃないかという不安を持っていた。


岸は反対に耳を貸すことなくアメリカと交渉を重ね、1960年1月19日 ワシントンにて安保条約調印にこぎつける。あとは両国の議会の承認を得れば発効するばかりとなる。叉アイゼンハワー大統領の訪日も決定。
学生運動の中心は全学連全日本学生自治会総連合)、当時全学連を指導していたブントと呼ばれる組織の幹部だった葉山岳夫さん(東大4年)の証言:朝早く学校に行っても講義は受けず、自治会室に。安保の本質は軍事同盟条約、改定阻止からもろとも安保そのものの粉砕を目指していた。戦闘的デモンストレーションでないと岸政府への強い意志・抗議が出来ないと思った。当時の九州大学4年生の篠原宏一郎さん(全学連):いわばアメリカが勝手に駐留しているといったことが、今度は日本側がそれを求め、尚且つ日本も相互に協力する、このあたりは双務的なもので、今度は日本が軍国主義化すると思い軍国主義反対という闘争を組織していった。
当時父が江田三郎社会党書記長の原参院議長江田五月さん(東大1年):父が反対していましたし、問題のある条約だと思っていた。入学式の時からアジ演説や議論、議論・・・。当時父が社会党の横路節雄安保対策委員長だった現衆院議長横路孝弘さん(予備校生):父が安保7人衆とか言われていた。アメリカ軍が駐留して、アメリカが戦争すれば巻き込まれると、基本的にはそう考えていましたので、家庭内でもそういう雰囲気でしたし・・・


5月19日、この日を境に日本列島を巻き込んだ激動の一ヶ月が始まる。
岸首相はこの日、日米合意の安保条約を国会で採決しようとしていた、可決されれば1ヵ月後自然承認される。
6月のアイゼンハワー大統領来日前に成立の考えだったが、野党、自民党内からも議論が尽くされていないと反対の声が。しかし岸は強行採決を図る。
中曽根康弘さんの証言:胸騒ぎがあった。安保反対と岸さんの行動に反対が多かった成立の日がアイク来日の日と重なっていた。アイクに対する媚態ではないか、アメリカへの媚態をぶち壊せという感情も強かった。大変だなと感じていた
当時の赤城防衛庁長官の秘書・水野清さんの証言:まあ、(言っても)いいだろう、もう。(国会内に入っていたのは警官だけではなかった)右翼を使って座り込んでいた社会党の国会議員を腕力でゴボウ抜きに引き抜いた。右翼に国会通行だけ自由なバッチを付けさせた
社会党議員を排除した後、清瀬一郎衆院議長が本会議に入場、自民党議員に守られながら「国会は50日間会期延長」され、日付をまたいだ5月20日未明、自民しか居ない議場で新日米安保条約は採決。「賛成の方は起立を求めます。」「起立総員!」で安保条約は可決。一ヵ月後、自然承認され批准されることに。この時から、闘争は岸首相退陣を目指し始める。


「可決された条約は岸の退陣か国会解散で阻止できる可能性が残されていた。この時から闘争が労組や学生のみから、一般労働者や市民にも広がった。戦争の記憶のある人たちは安保によってアメリカの戦争に巻き込まれるのではないかという不安が反安保へ駆り立てていた。」
東京大田区では店の商店主が暖簾を掲げてデモ。当時参加した商店主の写真を見ながらの証言:これは不動産屋、これがお菓子屋さん、これが宝来軒、この方が病院の事務長さん、この方が仕立て屋さん、すべての業種を網羅していた。写ってないけど葬儀屋さんも。(岡持ちに「安保反対」の紙が貼ってある)戦後15年ですから、商売が軌道に乗ったとはいえ、平和であってこそ商売ができるのだから・・・
東京中野区でも100件の商店が店を閉めた。当時、鶏肉店を経営していた飯島昇さん:強行採決の後、店を休みにして抗議デモに参加。生ものなのによく閉めたと思いますよ。日本の国の運命が決まる時でしょう。「安保反対の抗議デモに参加の為店を閉めます」とか書いてるんだと思います。でも、あの頃って、戦争で辛い思いをして、色んな犠牲を払って自分はたまたま殺されずに生きていて敗戦を迎えた。これからは、俺たちが主人公だというパワー、理屈じゃなくってね、日本は生まれ変わったというパワーがあったと思う。


1960.5.24 自然承認まであと26日 知識人の間でも賛否両論。20を超える大学から300人の教員が国会へデモ行進。
当時東大助教授の石田雄さん:戦争中、確かに軍国主義を煽ったのは軍人中心だが、当時は知識人も太鼓をたたいたりしたわけですから、そういう知識人の怨恨と悔恨。つまり、私の世代は軍国青年だったという悔恨から、どうしたら繰り返さなくて済むかという使命感があり、私より上の世代はどうしてあの時反対しておかなかったんだろう、だから今反対しておかなければ大変な事になるという使命感があった。作家の大西巨人さん:広島・長崎に原爆を落とした人間の考え方を肯定する考え方に対して反対、岸の遣り方は言語道断という思いだった。
「若い日本の会」に集まった文化人も共同で声をあげた。当時作家の石原慎太郎さんは、自民党単独採決には反対、しかし、安保改定には賛成。石原さんの証言:安保には精通した方がいいと思って、江藤淳に来てもらって詳しく話を聞いた。直す事は必要、妥当な話だと、安保改定には必要だから賛成。当時、物書きも含めて、その、国民大衆ってのはね、政治案件についてはほとんど言っちゃ悪いけど無知に近い。ま、やったのは若い連中で労働組合は何でも反対しますからね。あれから起こった学園紛争含めてね、一種の精神生理現象でね、戦争がなくなってしまうと、ああいう兆候ってのはヨーロッパでもどこでもある。ま、そういう点で私は一種の社会的必然性があるものとは思うが、反対している連中の論理は全く通らないものだった。


しかし、安保改定賛同の声を掻き消すように安保反対の声は全国に広がっていった
基地周辺でも激しいデモが。山形県陸上自衛隊神上駐屯地は戦後米軍基地として使用された。果樹農家の槙さんは「安保は全く頭になかった。アメリカは強制的に、しかも開墾した土地を取っていた。やっぱり返してもらわないと」。神町キャンプは強制的撤収。基地返還運動で1957年ようやく取り戻す。安保は全国にある基地の返還闘争と一緒になっていった。
高校生の間でも学校新聞でアンケートを取った函館東高校3年生だった2人。「10代のわれわれは徴兵制の復活を恐れたし、民主主義に反する国会への反発もあった」「”民族独立行動隊の歌”です、デモの歌を覚えた。高校生らしくない歌だったが、これしか歌う歌がなくて、いつも歌った」
九州でも当時日本一の石炭産出を誇る三井三池炭鉱では、労働者の大量解雇に対する激しい闘争=三井三池争議があった。当時炭鉱で電気工をしていた織田喬企さん(当時20歳):5月に安保粉砕・岸内閣打倒と首切り反対の抗議デモ、首切り撤回せよとがつながった。安保は政治的課題で、三池闘争は労働問題ではあるけれど、強行採決があったあと三池に支援に行くと全学連が押し寄せた。当時教職員だった人も、安保闘争労働争議も国民の力を弱めるという事で、その根は一緒、完全に一体として闘う事ができた。基地反対闘争、労働運動、様々な主張(思潮?)を投影して安保闘争は拡大していった。
60年にはまだアメリカの施政権下にあった沖縄にも東京へ進学した学生たちがいて、東京で「沖縄を返せ、基地を撤去せよ/東京沖縄県学生会」の旗を掲げて行進した。彼らの主張は安保反対以前に沖縄の返還、日本復帰を訴えたかった。当時、沖縄はアメリカの施政権下だったので日米安保条約は適用外であった。彼らは本土との行き来にはパスポートが必要。パスポートを取り上げられる危険をおかしてデモに参加した。「国会まで行った」「警官隊が来たら逃げた」「パスポートを取り上げられたら帰られなくなる」「警戒して引きながら参加していた者が多い」。


この頃、マスコミも岸の強行採決に批判的だった。5月末の世論調査では退陣58%、内閣支持率は12%。
岸の不人気には過去の経歴も影響していた。岸は戦時中、東条内閣の将校大臣として戦争遂行を支えた。敗戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監され、1948年に不起訴となり釈放。1953年、衆院議員として国政に復帰、4年後の1957年、首相の座についた。岸は、市民の声の高まりに「一部の反対にすぎない」として「声なき声に謙虚に耳を傾けて、日本の民主政治の将来を考える事が首相に課せられた責任と思っている。今は声ある声だけですよ、いわゆる世論といわれておるものは。」この発言がさらに市民の反発を招くことに。


1960.6.4 自然承認まであと15日  「安保改定阻止国民会議」は全国でストをうち、参加者は560万人に達した。国会前にも13万人の人が押し寄せ、安保反対の請願に多くの市民が署名、最終的には2000万人にのぼる。
「声なき声に耳を傾けるべき」という岸の発言に反発して誰でも入れる「声なき声の会」が生まれノボリをたてた。全学連や労組に属さない一般の人が集まった。印刷関連会社勤務だった太田さんは「一緒に歩きませんか」と呼びかけた。中心になったのは当時30歳の政治とは無縁の絵画教室教師の故小林トミさん。姉の小林やすさん(当時服飾会社勤務)は「ノボリをかけて歩いたら皆ついてきた。いろんな人がいましたよ。元憲兵だったから自分は怪しまれる、ここなら入れると言った方。会社の社長さんで、皆と一緒に行けないから来たという方。子どもと一緒に来ましたよ。島田(日本髪)の人まで一緒に入ってた。だれでもはいっちゃうんですよ。」
東京郊外、2年前に団地が造成され、その団地からも住民たちが大勢参加。参加した主婦たち:身近な関心事でした。私たちが経験したあの戦争を体験させたくなかった。保育所がほしい、駐車場がほしいという話をしていると、その中で一番大きな問題が安保だった、成立したらどうなるのっていう・・・」
団地住人で当時の中学校教師:デモに行こうということになった。フランスデモ、銀座の真ん中を手を広げて一人ひとり手を繋いで、感激した。市民どうし、ぜんぜん知らない人の手がこんなに暖かいなんて・・・あれは、おもしろかった・・・


しかし、全学連を指導していた葉山岳夫さん(ブント幹部)は運動の質が急速に変わり始めたと感じていた。葉山さん証言:一定の高揚した時期には、語弊があるがお祭り的状況も生じてきた。大衆的高揚があり、安保条約の本質を完全に理解したものではなく、一種反政府的、反権力的な動きが開放されたような点がある。当時東大助教授の石田雄さん:正直言って、こんにちから考えてあの時点で安保から岸を倒せになり、民主主義に問題がすり替わったんだということを後で悔いている。その時はやはり驚くべき盛り上がりで、気づいていればもっと安保、安保と言っていたのだが・・・その60年安保闘争で置き去りにされた安保そのものの問題を石田さん(現東大名誉教授)は今も考え続けている:安保の中身をつきつめて考えない姿勢は現在も続いていると考えている。安保の基礎にある武力による抑止力は大変危ないものであるということを考えに入れて、危ないものでもそれに頼らなければならないと思う方は、これは選択されるしかないが、それを知らないで安保をそっとしておくという方は、もう一度安保の危うさ、武力の抑止に頼る危うさをもう一度計算に入れて考え直してほしい。


岸は外交でも大きな抵抗にあっていた。日米の新安保条約をソ連中華人民共和国は警戒していた。「自国への露骨な挑戦」と受け止め、ソ連フルシチョフは訪問中のインドネシアの議会で演説。「現在日本を侵略する国がないのに、日本は一体何のために外国の軍事基地を設け勢力を拡大しようとしているのか。新日米安保条約は日本にとって危険な賭けである」と激しく非難した。
これに対し、岸は「安保は防衛的な内容で、他から侵略された場合において我々が安全な態勢を持つだけの話。一方において脅迫を加え、一方においては条約を廃棄すれば何か良い事があるように匂わしてですよ、全く国論を分裂させようという意図以外にみうけられない。」
共産勢力に対して強い日米関係をアピールするためにもアイクの来日が重要となり、それに先立ってホワイトハウスの報道官が来る事に。



1960.6.10 自然承認まであと9日 来日に対して共産党と影響下にあった全学連の反主流派が動く。舞台は羽田空港。バガティー秘書は、アイク来日の打ち合わせの為特別機で羽田へ。その後大使館へ向かう。飛行場の出口の道を3000人の労働者や学生が座り込み道を阻む。車は立ち往生。当時東京教育大1年だった二人の証言:抗議を申し立てようと座り込んでいる所へ、人間とは思わず虫けらのように思って猛スピードで突っ込んできたから、そちらの方が失礼じゃないか。ハガティーは米軍のヘリコプターによって辛うじて救出された。マッカーサー駐日大使と共に記者会見に臨んだハガティー報道官は「あくまで反対派は一部の共産主義者にすぎず、大統領の来日は予定通りに進める」と発表。
大統領の来日に固執する岸に対して自民党内にも異論が。中曽根康弘さん(当時科学技術庁長官):アイクの訪日は小さなこと。それよりも国民的結束を大事にしなくちゃいかん。それには岸さんの考えを変えてもらわなければ。岸さんは一旦決めたら権威に関わるので強行突破を考えていたようだが」。  つづく

岸首相の発言は新聞で逐一報道されたのでしょう、高校生の私も良く覚えています。「声なき声」のほかに「野球場(巨人戦だったか)は観戦の客で一杯だ」とも言ったとか。反対しているのはごく一部の人間という意味だったんでしょうね。こういうやり取りの報道が一般市民までを行動に駆り立てる役割を果たしたのかもしれませんね。そして、いよいよ「1960年6月15日 安保で一番長い一日が始まろうとしていた」あの日につづきます。