母の最期と葬儀

6月15日(木)昼下がりの2時過ぎ、101歳7か月の母が亡くなりました。ホームから連絡があって、所用で出かけていた夫が戻って車で駆け付けました。母はすでに目を閉じて、呼びかけても反応はなく、スタッフの方が来られて、胸に手を当てて呼吸が止まっていますと言われました。すぐお医者さんが呼ばれて、死亡が確認されました。

数日前から神奈川の妹には毎日連絡を取っていましたが、結局、間に合わずでした。

妹が駆け付けるまでの間、スタッフの方たちが次から次へ母とのお別れに来られました。母に声をかけて下さる方や、娘夫婦の私たちに母とのやりとりを話して下さる方たちが大勢。多くは、母も話していたことですが、大豆の煮ものの話。

母は100歳までの長生きの秘訣を聞かれると、”大豆の煮もの”と答えることにしていました。家にいては趣味の写真のこと以外は一切何もしない父のことを、マメとは程遠いのに何故かマメが好きと母がよく言っていました。母によると、最近は戻した水煮の大豆が手に入るから楽、その大豆と刻んだ昆布と人参を醤油と酒と味醂で煮込んだ煮物を切らさず作っていました。夕食時の酒の肴にも、赤ワインの友にも、父はこれさえあればいいのでと言っていました。長寿の秘訣はコレと母は言い切っていました。

ある方は自分の75歳になる母親に、101歳の母が手紙を書いたり俳句を詠んだりしてしていることを伝えてるんですよ~と話して下さったり。私は、俳句を詠む以外のホームでの様子が想像できなくて、食事の時間も、食堂で離れ離れに座って、お話しながら食べている様子も見たことが無かったので、淋しくないのかな~退屈じゃないのかな~と思ったことがありました。ところが、皆さんのお話を聞いていて、あゝ母はどこにいても変わらず若い人たちが好きで、好き嫌いも分け隔てもなくお世話して下さる皆さんとお喋りしていたんだなぁ・・・ととても安心しました。

5時に到着して母の遺体を運びだすまでの30分の間にもスタッフさんが次々お別れに来られて妹も交えて3人でお話を聞かせて頂いていましたが、いよいよ父の時にも世話になった葬儀社のベルコのお迎えが来ました。ちょっとお願いをして途中で自宅の前を遺体を乗せたまま通ってもらうことにして、夫が先導することになりました。

ホールで待っている間に、ケアマネジャーのSさんが「お母様のあの年(98歳)で自分からホームに入ると決める人はいません、それに、最後まであんな風に過ごして病院へ行かず看取りを希望する方もいません、覚悟があって潔い、女傑です」と言ってくださいました。母への最高の誉め言葉だと受け止めました。私は私で、このSさんこそ素晴らしい職業人だと思っています。入所を前に大腿骨骨折、退院間際に腕を骨折、病院からリハビリを経てギブスを付けてそのままホームへ。その間、手術を待つ間も私に付き添ってくださったり、打ち合わせ会議や、病院からそのままホームへ入所するときも全部このSさんのお世話になりました。母を通してお世話して下さる介護職の素晴らしい人たちをたくさん知ったことはとても良い経験でした。

葬儀は、母の意向もあって親族のみでこじんまりとと思っていたのですが、そうはいかなくなりました。母は五人姉妹の真ん中、最後の一人ですし、父も五人兄弟姉妹の真ん中で、母は父の姓を名乗る最後の一人です。面倒見の良い母でしたので『身内のみ』では困るとあの人この人に言われ、途中で方針転換、断った人にも事情を話して、ゆかりの人たち全員参加の葬儀ということになりました。

打ち合わせがあって遅れて入ったお通夜の席に、母が入居していたホームから4人も出席されているのを知りました。最後に喪主の挨拶と言われましたので、お世話になった皆さんにお礼を伝えることのできる場は今しかないと思って、皆さんのお別れの言葉を聞いて母がホームに居ても最期まで母らしい日常生活を送っていたことを知りとても嬉しかったことをお伝えしてお礼を言わせていただきました。

終わった後、4人揃ってご挨拶に来てくださって、「いろいろ無理を言って困らせてたんでしょう」と言ったら「そんなことないですよ」とケアマネさんが、「家族を呼んで世話になってるスタッフさんに家族からシッカリお礼を」には皆さんビックリしましたと笑いながら…明るくお別れが出来ました。

翌日の葬儀では最近ではめったに会わない親戚同士が顔を合わせる良い機会になったと喜んでもらえました。火葬の後のお骨拾い、ほとんどが消失していました。骨折箇所を繋いでいた金属が異様な大きさに見えました。小さな骨壺に言われた順番にお骨を皆で拾い上げて最後に蓋を。箕面の市営の「聖苑」では出来たときから棺を運ぶのはロボットでした。私も自治会などで参列したことがあり経験しましたが「機械任せで冷たい」と評判が悪かったものです。ところが今では馴染んで”先を行ってる感”がありました。

最後に初七日のお経が終わって、帰りを急ぐ遠方の皆さんに用意したお車代を渡しながら、母が呼びよせてくれたお陰で新たな絆が深まったと思いました。父母の時代が終わって、その娘や息子の世代の付き合いは、なんとか続けられていますが、その先がどうなる事か・・・・母にとっては甥っ子の娘も通夜の席に参加、大学生活スタート時から丸々コロナ禍だったスワヒリ娘も就職が決まったという朗報も聞いて皆で祝福。

夫の助けも借りて喪主のお役目を何とか無事務めて母を見送ることが出来ました。長い間.娘で居させてくれてありがとう・・・『娘』の卒業式でした。