◎安田純平さんが解放されたというニュースに、「良かった〜!」と同時に「また、自己責任ってバッシングが出るんだろうか」と心配も。でも、政府は解放に尽力してくれた関係各国に謝意を述べて身代金については否定。カタールが払ったらしいということでした。新聞も「自己責任」」については警戒した書きっぷりで、今回は「自己責任論」は主にネット上で交わされたようです。
内田樹さんがリツイート
津田大介
@tsuda 11月3日
この記事すばらしいな。http://bunshun.jp/articles/-/9514
14年前、誰が「自己責任論」を言い始めたのか?
「イラク3邦人人質」記事を読み直す
2018.11.2
今回私は、当時の朝日・読売・毎日の紙面をあらためて調べてみた。「イラクで3邦人誘拐 イスラム過激派か 自衛隊の撤退要求」(朝日新聞 2004年4月9日)
緊迫した情勢はこの4月9日から、4月16日の「人質の3人解放」(朝日新聞)まで7日間続いた。
では政治家による「自己責任論」はいつから出たのか。新聞をチェックして言葉を拾っていこう。※肩書は当時のもの。
◎死と隣り合わせの3年4か月の囚われの日々。よく生きて帰ってこられたと本当に良かったと思います。なぜジャーナリストは戦場に行くのか。雨宮さんのこの安田純平さん帰国を祝っての一文は、この疑問への回答になっていると思って読みました。
先週の何曜日か、モーニングショーで玉川徹氏と橋下徹氏のこの問題をめぐっての討論がありました。橋下氏が丁寧な言い方ではありましたが自己責任を問う主張をされていて、聞いていてとても悲しくなりました。言い方は丁寧でしたが、本質は安田氏の業績はそれに値するものであったか検証が必要だと聞き取れました。査定は一体だれがどんな基準でするというの?と腹立たしくなりました。誰も行けないような危険なところで子供たちがどんな目にあっているのか、知る必要があると思って行って帰ってきた人に対する敬意は・・・玉川氏の言葉に共感しました。
ところで、2日の「shuueiのメモ」さんが取り上げられた雨宮処凛さんのこの文章は、橋下氏に対する回答みたいです。『想像と共感。それは、おそらく戦争を回避するための第一歩だ』…そのことのためにジャーナリストは戦場に行くのですね。(http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20181102/1541103437)
By 雨宮処凛 2018年10月31日
さて、安田さんにインタビューしたのは、15年1月。この日は、イスラム国に囚われた湯川遥菜さんが殺害された映像が公開されてから2日目。しかし、後藤健二さんはまだ生きていると見られていた頃で、二人に対する殺害予告映像が公開されて6日後だった。ちなみに、安田さんと後藤さんは、よく二人で飲みに行くなど親しい関係だったという。
よってこの頃、安田さんは後藤さんの友人ジャーナリストとして連日テレビなどに出演しっぱなしの状況で、取材中にも携帯はほぼ鳴りっぱなしだった。そうしてやはり、この頃も、後藤さんに対して「自己責任」という声が一部から上がっていた。そのことを問うと、安田さんは言った。
「後藤さんがずっと取材していたシリアでは、内戦で20万人もの人が死んでいるわけです。それだけの人が死んでいる現場だから、その状況を知ってほしいと思って後藤さんはずっと取材をしてきた。そんなに死者が出ている場所だから、記者だって死ぬかもしれない。そんな記者に対して『そもそもそんな情報必要ないのに、何を勝手なことしてるんだ』というバッシングがされている。必要な情報だと思えば、誰も自業自得なんて言わないですよね。今回のそういった反応は、必要だと思っていない証拠ですよね。シリアで20万人死のうが関係ない。自分と直接関係ないんだからどうでもいいということじゃないですか」
命がけで現地に入っても、この国の無関心な人にはなかなか届かない。それどころか、何かあったらバッシングされる。戦場ジャーナリストほど割に合わない仕事はないのではないか。そう問うと、安田さんが淡々と言ったことを覚えている。
「だから、好きでやってるというだけですよ」
この取材の日から6日後、後藤さんの斬首された映像がインターネットに公開された。
そしてこの取材から5ヶ月後、安田さん自身の消息が不明となる。
この頃、安田さんとの連絡も途絶えた。今から思うと呑気すぎるが、『14歳の戦争のリアル』の出版記念イベントへの出演を打診しても一向に返事が来なかったことを不審に思っていた頃、「シリアで行方不明」という報道を目にしたのだ。また、この年の7月頃には、安田さんと長野県のイベントに一緒にゲスト出演することになっていた。
「もしかしたら、当日、ふらっと現れるのでは?」
この頃には、まだどこか楽観していた。しかし、安田さんが現れることはなかった。
あれから3年4ヶ月。本当に、よく生きて帰ってきてくれたと思う。
なぜ、ジャーナリストは戦地に行くのか。
インタビューで、安田さんは、後藤さんが戦地の子どもにこだわって取材していたことについて、シリア内戦の取材経験から、以下のように語っている。
「2012年の頃ですね。見えるところまで戦車が来て、ボンボン撃っていました。迫撃砲、戦車砲、空爆で、反政府側の地域にどんどん攻撃が来る。そこらじゅう瓦礫の山から子どもや女の人の死体がどんどん出てくるんです。病院は政府軍が押さえているので、反政府側の作った野戦病院しかない。でもそこは止血しかできなくて、ほとんど死んでしまうんです。それはひどい状態でした。
街の9割くらいの人は避難していて、もういないんですよ。でも、残っている家族はいて、小さい子どももいる。可愛かったですよね、子どもは。今までそんなに可愛いと思わなかったんですけど。取材から居候先に戻ってくると、近所の子が100メートル向こうからでもこっちに気づいて、ダーッと走ってくる。友達もいないし暇なんでしょう。あんなところに見たこともない外国人が住み着いて、珍しかったんでしょう」
「毎日死体になっているのは、子どもが多いですからね。爆弾って、落ちてから炸裂するんです。その炸裂した破片を見ると、ナイフみたいになっていたり、ねじれたドリルみたいになっている。破壊力を高めるために、わざとそういうふうに作っているわけです。爆弾が落ちると、そういうものが周りにピュンピュン飛んでくる。
子どもたちはそんな破片で死ぬんです。同じ大きさの破片が当たった大人は平気でも、子どもはすぐに死んでしまう。そういうのを見ると、子どもがちゃんと生きているってことがどれだけ貴重なのかと、本当に思いました。後藤さんが『子どもたちが』とあれだけ言っていたのが、今は理解できますね」
志半ばで奪われた、後藤さんの命。その悲劇を目の当たりにしても、決して取材をやめず、シリアへ向かった安田さん。ジャーナリストが戦場へ行く理由。それは、ここまでの彼の言葉を読めばわかるはずだ。
安田さんは、同書のインタビューで、最後にこんなことを言っている。
「とにかく想像することだと思います。一見関係ないように思える遠い国で、今も死んでいる人がいる。楽しく暮らしていたはずの生活が突然壊れて、爆弾がどんどん飛んでくる。もし、自分だったら、と考えてほしい。そうなったら自分が持っているすべてを失うといったことをイメージして、まずは不安になるだけでもいいんです。ニュースを見て、『自分だったら』と想像するような習慣をつけてほしい。そうすることで、人のことを考えられるようになると思うんですよね」
想像と共感。それは、おそらく戦争を回避するための第一歩だ。
安田さんが囚われたシリアでは、15年のインタビュー当時20万人だった死者は、35万人までに膨れ上がっている。また、国外に逃れた難民と国内避難民は合わせて1200万人にも上る。
内戦下の現実を伝えるためにシリアに赴いた安田純平さんに、私は最大限の敬意を払いたい。ジャーナリストは、時にたった一人で世界を変えることがあるのだから。
とにかく、生きて帰って、本当によかった! 今はゆっくり、休んでほしい。
*
安田純平さんの『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』、ぜひ多くの人に読んでほしいです。また、『14歳からの戦争のリアル』もぜひ。安田さんインタビューは第5章「月収13万、料理人、派遣先・イラク ジャーナリスト 安田純平さんに聞く戦場出稼ぎ労働のリアル」。
◎写真は唐池公園。
今回初めて丘の上のモニュメントに言葉が添えられていたことを知りました。
愛 父母子の像
三つの岩が 一つのたいせつなものを だきかかえている
そのどれひとつがかけても くづれてしまうであろうものを・・・
1974.12.5彫刻とことば 栄 利秋