「AbeOut1019」と「ネトウヨの主力は…」と「第一回韓国国民栄誉賞の受賞者『38度線のマリア 望月カズ』」

◎朝食時に母が、昨日、国会で小泉進次郎議員が辻元さんにやり込められていた。何にも言い返せなかったと。私は見ていなかったのですが、国連での発言(というより絶句して答えられなかったこと)やステーキパフォーマンスのことだったのかな・・・朝日新聞によると、そうでもないらしい。「政府の色々な問題をごまかすための清涼剤、消臭剤の役割」を果たしているんじゃないかと迫ったらしい。国会についてのツィートをひとつ:

内田樹 Retweeted
Dr.ナイフ @knife9000 Oct 7

はいはい

国会始まると、まとめの更新が大変

・年金を最後の一人まで支払うと言った事実はない

・トリクルダウンと言った事実はない

拉致被害者を私が解決すると言った事実はない

北方領土解決すると言った事実はない

・トウモロコシ購入。約束・合意した事実ない←最新

(抜けてました)

・TPP反対と言った事実はない

・国会で強行採決した事実はない

◎三連休を控えて大型台風19号の接近。わが地区でも早々と敬老会の催しが中止になりました。東京の長男はテレビ局に昨日から三連泊とか、9月の中頃から東京のマンスリーマンション住まいの沖縄の次男、講習で上京、受けるのかと思ったら講師役とか、相手がおっさんばっかりで難儀しているとか、食料買い込んで研修準備と読書の予定とメールが。テレビのニュースで狩野川台風並みという言葉が。新婚時代、大阪万博の前年から3年間を過ごした沼津にいたころ、しきりに狩野川台風の時はこの橋のこの辺りまで水が押し寄せたとか、会社の同僚や上司の口からよく聞いた台風の名前でした。1958年9月26日ということは、当時、10年少し前の1200人もの犠牲者を出した台風のこと、皆さん記憶がまだまだ生々しかった頃だったのですね。15号台風が先日の千葉を襲った傷がまだ癒えないこの時期に・・・進路が本土をそれてくれることを願うばかりです。

恒例の金曜デモは、「特別な1日」さんによりますと、台風のため中止、代わりに案内が紹介されていました。コピーの写真が文字とサカサマになりましたが、このままで:

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★「東久留米日記」さんで知ったペシャワール会中村哲医師のアフガン名誉国民のニュース。SPYBPYさんも取り上げておられました。かねてから、日本人で一番ノーベル平和賞に近い人物は中村氏と思っていました。もっと大きく取り上げられて良いことだと思います。西日本新聞から:
★「特別な1日」さんの今回の記事全体がとても面白いので、やはりブログごと紹介です。ぜひ全文を:

★タイトルになっている「ネトウヨ」について、主力が高年齢の男性というのには驚きました。暇を持て余している世代が嫌韓本やSNSで一方的な情報に飲み込まれて・・・というのはあり得ることかも:

さて、復活したあいちトリエンナーレの『表現の不自由展』、復活したのは良かったですが、相変わらず『反日』とか言ってクレーム電話をかけてくるバカがいるそうです。

 バカどもの殆どが60~70代のジジイ。電話口で30分以上も自説を主張し続ける、かといって『自分では展示は見ていない』そうです(笑)。自分でプラカードを配ってヘイト団体と一緒に数分だけ座り込み?をした市長の河村も同類(笑)

 ●現在 ネトウヨの主力は定年後のジジイ連中という話はよく聞きます。定年後誰にも相手にされなくなって、ハマるらしい。

 とにかく、一番気を付けなければいけないのは、自分がそうならないようにすること。誰でも齢を取ります。鈴木大介氏は『老いたる者が共通して抱える喪失感を巧みに利用するコンテンツや、認知と思考の衰えにつけ入る安易で卑俗な言説』が自分の父がネトウヨ化した背景にある、と書いています。

★最後にもう一つ「特別な1日」さんから写真をお借りします:

武田砂鉄
@takedasatetsu

週刊ポスト」広告。これでいいのか、と疑問視する人は、編集部にいないのだろうか。

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8:41 AM - Sep 2, 2019
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この「週刊ポスト」の「韓国なんていらない」の広告については「俳愚人」さんもブログで取り上げておられます:

ちょうど私の体調が悪い時でしばらくブログを訪ねていないときの記事を遡って読んでいて、8月のブログがこれでした:
◎この記事で「俳愚人」さんが言いたいことは「日本の植民地化が招いた結果だから、発言すべき資格がない」と言って沈黙する「日本の左翼原理主義、ソフトスターリニズム」に対しても「ダメなものはダメというべき」だというものです。たしかにリベラル派にも嫌韓や韓国ヘイトを批判しても韓国のナショナリズムに対しては黙ってしまうという傾向があるかもしれません。

ところで、私がここでぜひ紹介したいのは、エピソードとして語られている話です。「日本人なんか偉い奴は一人もいない」と言われたから、ナショナリズムに沈黙してしまう人に対して、俳愚人さんはこう言います。
「それはお前の無知にすぎない。韓国国民栄誉賞の第一回光復賞は誰だ?沈黙だ、お粗末な連中だ。望月カズを知らないのだ。」
◎私もお粗末ながら望月カズさんのことは知らなかった。文末に、この望月カズさんの紹介記事のURLを載せておられます:koryaii.web.fc2.com/history/kankei/jap/mochizukikazu.html 

◎ここを訪ねてみました。初めて知る日韓のはざまで生きた数奇な運命と日本人としての誇りと郷愁、それをかなえてあげた人たちの存在。素晴らしい内容に驚きました。全文コピーです:

 韓国に尽くした日本人 望月 カズ -知れば知るほど日韓が好きになる- 

 38度線のマリア 望月 カズ

 

   富士山が正面に望める静岡県富士市瑞林寺の墓碑に『日韓の孤児百三十余人を養育 三十八度線のマリアと呼ばれた望月(永松)カズ。1927年8月3日出生 1983年11月12日没。富士山の見えるところに眠りたいとの遺志をかなえてここに眠る』と刻まれた人物をご紹介します。 


  満州でたった一人

 

 カズは昭和2年(1927)に東京の杉並高円寺で生まれました。
 父親の記憶はありません。母親は望月近衛(ちかえ)と言いました。
 昭和6年(1931)、4歳で母と満洲へ渡りました。
 開拓団が入植していた滴道という小さな町に移住したのです。

  二人が渡った翌年に満州国が建国されます。

 満州国とは、現在の中国東北部内モンゴル自治区の半分にあたる、日本の約3倍の110万㎢の面積を持ち、人口は約3500万人が暮らしていました。
 ここに満鉄(満州鉄道)が建設され、その警備のために日本の軍人たち、関東軍が駐屯していました。
 カズの母は、親族の軍人に進められて、この関東軍相手の物品納入という商売のために、満州に来たのでした。                     母の商売は成功し、カズは「お嬢様」と呼ばれるほどだったそうです。

  昭和8年(1933)、カズが小学校に入る直前、大変なことが起こりました。
  母親が突然亡くなったのです。原因不明の不審死でした。
  この少し前に、親族の軍人が人事異動で満州を離れた後のことです。

  一説によると、使用人による毒殺とも言われています。
 何故かというと、使用人は財産すべてを持ち出し、6歳のカズを農家に農奴として売り払ったからです。

 こうして6歳にして、天涯孤独となり、通えるはずの学校にも行けないまま、満州農奴として生きて行かなければならなくなったのです。
 農奴として他の農家に転売されたり、アヘン窟で働かされたりもしたそうです。
 また、主人たちに日本語を使うことを禁じられました。
 それでも幼いカズは、寝る前に「自分の名前、母の名前、日本と富士山と日の丸、東京高円寺」という大事な言葉だけは、忘れないように復唱していたそうです。

 何度も逃亡を図りましたが、その度に捕えられ連れ戻されましたが、昭和13年(1938)の冬、ついに脱出に成功したのです。
 たどり着いた所は関東軍の駐屯地でした。そこで、掃除、洗濯、などの仕事をしました。
 また、それらの仕事の合間に、軍人に算数や国語などの基本的な教育を受けました。
 すでに、カズは11歳になっていましたが、ここで知識をしっかりと身に付けたのでした。
  

  愛の理髪師

 

 戸籍のなかったカズは偽の戸籍を買っていましたが、17才の時、城津(성진現北朝鮮)で出会った日本人、永松夫妻の援助により、形だけの養女となり、日本国籍を得ることができました。
 カズは、大手の保険会社の外交員として働き、その時に、大連の理髪店の知り合いの手伝いをしました。
 この時に覚えた見よう見まねの技術が、後のカズと孤児たちの生活を支えることになるとは、カズ自身も想像もしていなかったと思います。

 やがて昭和20年(1945)8月15日の終戦と共に、密航をして日本へ帰国しました。
 東京に戻っても身を寄せる所もなく、空襲で焦土と化し、混乱の中にあった祖国日本に対して絶望し、
 満洲に眠る母の墓を探して、そこで死のうと考え、再び密航して釜山に行き、満州を目指しました。

 しかし、朝鮮半島の38度線を突破できず、結局、どうしようもなくソウルに留まることになったのでした。そこで運命を決定づけることになる「朝鮮戦争」に巻き込まれてしまったのです。

 その戦争の渦中、目前で銃弾に倒れた韓国人女性の胸に抱かれていた血まみれの男児を救ったのです。
 この出来事が、後に「孤児達の母」として生きてゆく契機となったのです。

 カズ自身も孤児でした。天涯孤独で辛苦の人生を歩んできたカズにとって彼ら孤児たちに何を感じ、何を見たのでしょうか。そして、何を心に決めたのでしょうか。この時、カズは23歳でした。

 その当時、一人で生きて行くことさえ困難であった過酷な環境の中にありました。
 昭和26年(1951)、カズも避難民として釜山に向かいました。釜山に向かいながら自分を助けてくれる多くの人に出会いました。また、その途中で数人の孤児を引き受けて行きました。
 釜山に着いてバラックを建て、港湾で荷揚げ作業をしなが、さらに青空床屋を始めて生活しました。
   
 昭和28年(1953)、4年ほど居た釜山からソウルに戻ることになりました。孤児の数は16人でした。
 誰からの援助もない中で、女性でありながら肉体労働を重ね、 露店での理髪業や軍手製造、豆炭売り、
 時には体の血を売りながら、まさに身を粉にして働きながら子供達を育てて行っカズでした。

 昭和30年(1960)4月に、ソウル市の仁寺洞(인사동)に土地を手に入れ、「永松理髪」の看板を掲げました。ところが、その2年後、カズは、理容師資格と身元が問われ、警察に連れていかれます。学校や職場から帰ってきた子どもたちは、オンマが警察に連れていかれたことを知って、警察所に押し寄せ「オンマ(母ちゃん)を帰せ」と泣きわめき、そのとき32人いた子供たちは、そのまま警察署の前で一夜を明かしたそうです。

 それで、警察もやむをえず釈放したのです。

 この連行の一件が世間の関心を引きました。
 報道によってカズを知った人やカズの姿に心打たれた人々によって、援助の手がのびるようになりました。
 カズは、孤児のみならず日本に忘れ去られつつあった在韓日本人の力にもなって行ったのです。その人々のほとんどが不法滞在者であり、苦しい生活の中で帰国を夢見ていたのです。

 昭和38年(1963)、カズは理髪師資格を取り、その頃から「愛の理髪師」と呼ばれ始めます。


  カズとはどんな人なのか

 

 「私たちは知っていますよ。温室の花のようには育てず、どんな強い嵐に遭っても、耐え抜ける根の深い木に成長させようとして下さった、あなたの深い愛を。」
 これはカズの死後、残された子供達の中の一人が葬儀の時に朗読した「母に捧げる手紙」の一節です。

 カズは子供達に深い愛情を注ぎました。
 育て方は傍から見て、どこか乱暴なところもあったようですが、何よりも卑屈な生き方を嫌い、決して甘えを許さないという、厳しい一面もあったようです。
 住んでいた家の壁には、カズ自身が描いたダルマの親子の墨絵がかけられていて、いつも子供達に、「転んでもダルマの如く立ち上がれ」と教えていたそうです。

 また、カズの伝記『オンマの世紀』を著わした麗羅氏は、「カズが嫌悪の念を押し隠しながら、日帝の罪悪を償う動機で韓国の孤児を育てたという人もいるが、私にはそうは思えない。彼女はきわめて直感直情行動型の人物で、物事を計算しながら行動するタイプではない。」と語っています。
 また、カズの困窮した生活を見かねて孤児院を国の公認の施設にするよう勧めた人もありましたがカズは断じて聞き入れませんでした。それを麗羅氏は、「公認の施設になったら『オンマ』ではなく園長先生になるわけだ。カズは子供達から『オンマ』と呼ばれたかったのだと思う。『オンマ』とは、 韓国語でいう『母ちゃん』である。
 カズを呼ぶのにこれほどぴったりする言葉はない。」とも語っています。

 

  孤児たちと共に

 

 昭和39年(1964)、ソウル名誉市民賞を授与されました。
 翌年には、カズの書いた『この子らを見捨てられない』が出版され大きな反響を呼びました。これが原作となって、韓国映画『이 땅에 저 별빛을(この地にあの星の光を)』が制作、公開されました。(右の画像が当時の映画のポスター)
 この映画は日本でも上映(邦題は『愛は国境を越えて』) され、多くの人々に深い感動を与えました。

 昭和42年(1967)、韓国の独立記念日に当る光復節に、カズに日本人として異例の、第一回光復賞が授与されました。

 昭和43年はカズにとって、受難の年でした。
 当時40余人の子供達と暮らしていた鍾路区の仁寺洞の家が区画整理のため強制撤去されたのです。
 ガレキの山の前にカズは愕然となり子供達を身に引き寄せました。テント生活を送った後、同区の楽園洞の建物に移ることになりましたが、それはカズを「日韓親善の懸け橋」と呼び、協力を惜しまなかった日韓の支援者の力によるものでした。日本に於いては「永松カズさんを励ます会」が発足して、募金活動を行ない、何千という人々の善意を得て、カズと子供達は離散の危機を脱することができたのです。 

 昭和46年(1971)、朴大統領から韓国名誉勲章・冬柏章が贈られました。

 (左の画像は、孤児たちと共に受賞を受けるカズ[当時44歳]。)

 昭和51年(1976)には祖国日本で吉川英治文化賞を受賞しました

 韓国での叙勲式の時のことですが、何とカズは、いつもの普段着に下駄履き姿で現れました。ビックリした大統領府の人々が、せめて靴だけでも履き替えるように頼むと、カズは「私は他に何も持っていません。これで駄目なら帰ります。」と不機嫌になったので、仕方なくそのまま通したという話が残っているそうです。

 

  カズが残してくれたもの

 カズは人生の大半を韓国で生きました。

 しかし、祖国である日本を慕い、日本人であることの誇りを決して失いませんでした。

 カズはいつも和服にモンべ姿で通し、端午の節句には鯉のぼりを揚げていました。

 日本の支援者からもらった日の丸の小旗を見て、涙をこらえきれず泣いたそうです。

 カズの願いは、いつかは祖国へ帰ることでした。

 しかし現実に、韓国には自分をオンマと慕い求める子供達がいる。また、『38度線のマリア』という美名を贈られ生きてきた自分がそこにあったのです。

 そのような中で、自分にはあと僅かしか余命がないと悟ったとき、抑えがたい願いが溢れました。

 その一つは、自分の本当の戸籍を得ることでした。

 満洲で非業の死を遂げた母の姓「望月」になることでした。

 この願いは、法律的に非常に困難な内容でしたが、日本の支援団体の協力と支援によって叶えられました。

 そして、もう一つは「富士山の見えるところで眠りたい」という願いでした。

 昭和58年(1983)11月12日カズはソウル市内の自宅で脳内出血のため倒 れ、56才で亡くなりました。

 11月14日、多くの関係者の見守る中、カズの葬儀が行なわれ、ソウル市郊外の一山公園内の基督教墓地に分骨が埋葬されました。

 同年、天皇陛下から、カズに勲五等宝冠章が授与されました。

 昭和60年(1985)4月7日、多くの支援者の尽力により、静岡県富士市瑞林寺墓地の、富士山を正面に望む所にカズの墓が建立され、分骨埋葬式が行なわれました。

 当日は、日韓の支援者やカズの遺児達を含めた関係者百五十人が参列しました。

 参加者は皆、口々にカズの偉業を讚えました。

 韓国在住の遺児達はカズが生前よく言っていたという言葉「韓国に望月カズという日本女性がいて自分と同じ境遇の子供達と韓国に暮らしていたことを残したい」を紹介し「そのオンマの気持ちを実現してゆきたい」と語りました。

 富士山を望む墓に眠る望月カズ、日韓の交流・共鳴の歴史に大きな足跡を残し、今も私たちに希望と感動を与え続けています。