友あり、遠方より来る、また楽しからずや

昨日の月曜日は、山口のWさんを我が家にお迎えしました。

きっかけは、母が郵送した一冊の句集です。

俳句の先生の伊丹三樹彦氏が、来年百歳を迎えられるというので、百寿記念の句集の準備が始まっていました。そんな中、今年9月、先生は99歳で亡くなられました。

記念の合同句集「東西心景」20冊が2週間ほど前、母のもとに届きました。「青群」の「2019年冬」号の見開きで編集発行人で伊丹三樹彦氏のご長女の伊丹啓子さんが「ご報告」。「亡くなる三日前まで句を書き続けた」という句の中から絶句として挙げられている三句をここに:

   顧みて 何はともあれ 一俳人

   一身を 投げ打つばかり 天地澄む

   誰とでも話したかった この世を去る 

母は、数十年前に父の写真を添えた写俳集「秋日和」を出しています。その時もらっていただいた方や、親戚や娘たちに新しい合同句集の「東西心景」を次々と送って、届いた方たちから感想を書いたお手紙も届いています。母の俳句を:

   生かされて仰げる今日の沙羅双樹

   迷うこと一つもなくて西瓜切る

その中のお一人が、子供会の世話役以来の私の友人で4つ先輩のWさんです。山口県の山の中で、今はお母様も見送ってお独り住まい。先々週だったか電話をいただきました。句集の中の母の句を読んでいると母に会いたくなってという電話でしたので、思い切って来てよ、母と会うんなら早い方が…と私。

その日のうちに蛍池(大阪空港のある阪急電車の駅)にあるホテルを予約。私は翌日、Sさんに連絡。16日を空けてもらうことに。お昼前、チャイムが鳴って外へ出るとお二人そろって。最近、この近辺、更地になったかと思うと新しい家が立ち上がり、以前とは景観が違って見える。少し迷っているWさんの姿をSさんが見て声をかけて一緒にということだったとか。まずは良かった~でした。

途中でお弁当かお寿司を買ってくるという話になっていたSさん、家で散らし寿司を作ったからと正方形のタッパーに詰めて持ってきてくださいました。それじゃと、豆腐とワカメにミョウガを刻んでお味噌汁を作りました。

そろったところで頂きます。しばし積もる話をして、おやつに私の冬の定番、薄切りリンゴのバター焼き。蜜入りリンゴだったのでシナモンシュガーはカット。4人分作って隣の母を呼びに。紅茶と合わせて飲みながらいろんな話をしましたが、母がお二人に聞いてほしいと話し出したのが、ここ1,2か月の母の決断。

私が2か月ダウンしたとき、娘が後期高齢者で若くないと気づいた母は、頼っていてはいけないと思い直したようです。それに輪をかけたのが、服用している大量の薬のせいか毎日悩まされている全身の痒み。脊柱管狭窄症で入院していた病院を退院してから今までずっと痒みが続いて収まらない。つい最近、訴えても、患者は当面の痛みとか痒みを問題にするが大事なのは糖尿とか腎不全とかの大きな病気だと言われました。

この言葉、母の訴えを真正面から否定しています。母は痒くてたまらない、頭の中も体中、それも四六時中、夜中も。半年以上も続くこの痒さを何とかしてほしいと思っているのに、医者は、そっちの方は大事じゃないという。最初は、私も皮膚科の先生が言っていたように「薬のせいかもしれないけれど飲まないわけにはいかない薬だから」と思っていましたが、そうではないかも?と思い直しました。 

糖尿病というのは、あと3,40年、あるいは2,30年も生きる人のための治療では、強い薬や注射を続けることも大いに意味があると思いますが、98歳の母の場合は違います。日々、痛みや痒みから解放されて一日一日を穏やかに生きられればいい。薬を止めた結果、寝たきりになっても構わないという覚悟もしていてます。

それで、11月中頃すぎだったか、母が最期は施設に入って迎えたいと言い出しました。私は、父と同じようにと思っていたのですが、そもそも若いころの両親の描く最期は違いました。私たち三姉妹を結婚させて姓が変わった時点で50代の母は、娘たちに頼らない老後をイメージして、お墓や仏壇のことをまず片付けました。そして父は、質素に暮らして老後資金を残してきました。60代の母の胆のう摘出手術がきっかけで私たちが隣に住むようになり、昨年母が入院した時、娘の私が父の食事の世話をしてその後2週間の入院で父は亡くなりました。

母は父が生前、お前には施設に入れるだけのものを残してあるからと言っていたので、これ以上娘の世話にはならずに施設に入り、一度薬を全部やめて痒みが取れるか、試してみたい。そのせいで寝たきりになっても本望と思い決めたようです。私も、今の訪問医の先生の考え方を変えてもらったとして、父の時のことを考えると在宅の看取りは無理。若いころから何事も自分で決めてきた母のことですから、最期は自分の思いどおりが一番良いと私も心を決めました。

何年か前、カナダのSさんが我が家によられたとき、一緒にお茶をのんでいると、彼女のお母さんが、弟さんが世話をして入所したという豊中の施設の居心地がとても良いというお話や、訪ねて行った時の良い印象の話をされていました。それを聞いていた母が施設の名前と電話番号をメモしていました。その施設をネットで調べて12月に入ってすぐ夫と見学にも行ってきました。落ち着いた感じで個室が120以上。規模も大きいので元気な高齢者も多くて楽しいグループ活動もあり、屋上では野菜も作っていて、収穫した大根が干してありました。よさそうです。

母は、その決断を、お二人に聞いてもらおうと話し出しました。Sさんはすぐ「いいと思います、決めるのにちょうどよい時期だと思います」と賛成。Wさんも「お金があれば私もそうしたいです」と後押し。ほっとした母が引き上げた後、お二人からは来年の3月と思っても、そのころ丁度空きがあるかわからないから今から予約しておいた方がいいんじゃない。すぐ動いた方がいいと言われました。

母の切実で長いお話を聞いてもらうことになってしまいましたが、山口のお土産をいただいたり、Sさん得意の針仕事で絽の着物地をマットにしたのをそれぞれ頂き楽しい交換会になったり。4時過ぎ、Sさんが先に帰って、そのあと、Wさんも荷物を片付け始められるのを見て、そうそうエピナールのクッキーを持って帰ってと渡したり。蛍池のホテルに帰るというWさんと外に出てしばらく一緒に歩くことに。

我が家の周辺はいよいよ昭和が消えていきます。すぐ角の本格的な日本建築のお屋敷も取り壊されて更地。住む人が亡くなり、古い家が取り壊されて新築中の家もあれば、いわゆる昭和の『文化』住宅も無くなっています。4軒長屋の2階建てアパートが取り壊されて新しく5軒分の敷地を造成しているところを案内しながらパン屋のマーヴェックのあたりでお別れしました。

前日と一夜明けた今日は、伊丹の長女さんと過ごされると聞いています。山口まで新幹線で2時間。徳山からバスで1時間の山の中の大きな田舎家に住んでおられるWさんですが、誰よりも都会っ子でお洒落。神楽坂にいる次女の娘さんには3人の息子さんがいて、お花見時は毎年のように東京。母が、素敵なセーターと言って褒めたのも、東京で買ったと聞いて、みんなで『そうなの、東京!』。大阪の田舎住まいの私たちとは違う…と大笑い。Wさんも『元気もらった』と言ってお別れできたのが良かったです。

Wさん、12月初めに79歳になられたばかり、父が二回り上の辰年、SさんがWさんの一回りしたの辰年です。スマホのピカチューで歩くようになったとか、ラインで千葉のFさんともやりとりなさっているので、今回、ふりふりとかでラインにWさんのスマホとつなげてもらって、その時、Fさんとも。使いこなせるか分かりませんが、久しぶり(初めて!)Fさんともラインでご挨拶を交わしました。

とっても前向きな明るいWさんの来訪、友遠方より来る、楽しからずやでした。