「沖縄が選んだ中村哲さん(ペシャワール会)」と「少年時代から繊細でスケールの大きかった中村君」

◎一度決めたら撤回できない。一度歩き出したら止まれない、引き戻せない。その結果、どうなったか・・・日本人なら第2次世界大戦を思い出します。東京のコロナ感染者数の増加と政府の対策を見ていて心配になります。相手は新型コロナウィルス、忖度とか賄賂とか情実が通用する相手ではありませんが:

内田樹さんがリツイート

岩田健太郎 Kentaro Iwata

@georgebest1969 7月10日

東京は完全に第二波突入です。できれば第二波の発生は回避したかったのだが、、、

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 ◎もたもたしているうちに7月も中旬を迎えています。6月23日の沖縄慰霊の日の玉木デニー沖縄県知事の挨拶の中にこんな一説がありました。

県民の平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に発信し、国際平和の創造に貢献することを目的として2001年に創設した沖縄平和賞の第1回受賞者であるペシャワール会中村哲医師が、昨年の末、アフガニスタンで凶弾に倒れるという突然の悲報がありました。中村先生は人の幸せを「三度のご飯が食べられ、家族が一緒に穏やかに暮らせること」と説き、現地の人々が生きるために河を引き、干からびた大地を緑に変え、武器を農具に持ち換える喜びを身をもって示されました。私たちは、中村先生の「非暴力と無私の奉仕」に共鳴し、その姿から人々が平和に生きることとは何かを学ばせていただきました。

【全文】平和宣言 玉城デニー知事(2020年慰霊の日) - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 ◎ペシャワール会中村哲さんが「2001年に創設した沖縄平和賞の第1回受賞者である」ことを初めて知りました。それで少し調べてみました。 2001年は仲井眞知事の時代です。20年前、選考委員の中にはNHKの会長の名前もあります。受賞者は中村哲さん個人ではなくてペシャワール会になっています。

(引用元:第1回沖縄平和賞受賞者/沖縄県

【贈賞理由】
中村哲を支援するペシャワール会(以下「ペシャワール会」という。)は、中村哲医師のパキスタンアフガニスタンでの医療活動を支援するために1983年に設立され、その活動は現在までに18年余にも及ぶ。内戦・社会不安など言語に絶する厳しい環境の中、誰も行かないところに行く、他人のやりたがらないことをやるという信念をもって、非暴力を旨として幾多の困難を乗り越えて無私の奉仕を続けている。

(中略)

沖縄平和賞選考委員会は、ペシャワール会のこれまでの実績を高く評価した。沖縄はかつて、琉球王国時代、「万国津梁」いわゆるアジアの国々をつなぐ懸け橋として活躍した時代があり、また、多様なものを受け入れる寛容さや相互扶助の精神、未来を創造するたくましい県民性があるペシャワール会の活動は、沖縄県の持つ歴史的、文化的特性等を反映して恒久平和の創造に貢献するものとして創造された沖縄平和賞の趣旨に通ずるものである。

よって、戦前戦後の困難な時代を経て発展してきた沖縄県から、今後の活動を支援していくために、第1回沖縄平和賞をペシャワール会に贈ることを決定した。

沖縄平和賞選考委員会

江崎玲於奈芝浦工業大学学長)委員長

尚弘子(放送大学沖縄学習センター所長)

森田孟進(琉球大学学長)

海老沢勝二日本放送協会会長)

グレゴリー・クラーク(多摩大学名誉学長)

武者小路公秀(中部高等学術研究所所長)

猪口邦子軍縮会議日本政府代表部特命全権大使

肩書は当時

 ◎沖縄と中村哲さんの意外?な繋がりでした。手元に届いたペシャワール会会報から若かりし頃の中村哲さんの思い出を書いておられる記事を書き移しました。身体は小柄ですが豪胆!という中村哲さんの高校の入学試験当日のエピソードが凄いです:

ペシャワール会報」第143号」より

少年時代から繊細でスケールの大きかった中村君

   香住丘協会名誉牧師/ペシャワール会名誉理事 藤井健児 

  

  最初の受洗者となった中村君

 中村哲君が初めて教会にやってきたのは一九六一年(昭和三六)の初夏ごろだったと思います。ですからもう六〇年の付き合いになります。中村君は当時、西南学院中学の三年生。フェナー先生という、アメリカから来日したばかりの宣教師に連れられ、数名の級友とともにやってきたのでした。

 私は幼いころ自転車にひかれて片目の視力を失い、盲学校の教師になるため上京していたのですが、二〇歳のころ残った左目の視力も失いました。絶望した時期もありましたが、目白ヶ丘教会の牧師をしておられた熊野(ゆや)清樹(きよき)先生との出会いがきっかけとなり、伝道の道を志すことになりました。西南学院大学の神学部を卒業したのは二六歳のころ。香住ケ丘教会は前年に開堂したばかりで、私はまだ三〇歳の新米牧師でした。

 中村君の逝去後よく質問されるのは、彼がなぜクリスチャンになったのかということ。中村君は、宗教というものが、「どう生きるべきか」という問題にヒントを与えてくれるのでは、と期待していたのではないでしょうか。

 最初のころ中村君は、伯父の火野葦平さんの影響か、「物書きになろうと思っとります」と言っておりました。

 中村君はその年の十二月に洗礼を受けました。当教会初の受洗者の一人です。しばらくすると、「物書きは他の仕事をしながらでもできます。人の助けになるような仕事がしたいので医学の道に進もうと思います」と言うようになりました。

 高校時代までは、礼拝の日以外にも、学校帰りなどにふらりと訪ねてくるのでいろいろな話をしました。折々に「先生は目がお悪いのに、どうして…」と言って、私が歩んできた道についても尋ねてきました。

 それから中村君は県立福岡高校に進むのですが、思い出深いのは受験日の朝のこと。教会の表を掃除しておりますと、下駄を履いた中村君がやってきたのです。「今日は入試じゃないのか?」と尋ねますと「忘れとりました。終わったらまた来ますので聖書を預かっておいて下さい」と言い残して試験に行きました。

 

 宗派・教派にとらわれず 

 中村君は繊細でありながらスケールの大きな人柄でした。医者でありながら井戸や用水路を掘り、キリスト教徒でありながら現地にモスクまで建てるというのはなかなかできるものではありません。彼は「無教会主義」を唱えた内村鑑三を尊敬していましたが、やはり教派や教義の違いといった形にとらわれ、排他的になってしまうことに違和感を感じていたのだと思います。

 九大医学部時代は、ちょうどアメリカ空母の寄港をめぐる反対闘争があったころで、のめりこんでいたようでした。最初は「先生、キリスト教徒はふうたんぬるか(ここでは現実の問題に対して即効性がないという意)」と言っていたのですが、学生運動内ゲバへと発展する中で、じっくり考えることの大切さに気づいたようでした。またそのころ、「今の医学は人の心を見ていない。どの科に進むかは別にして、精神科の勉強もしておきたい」とも言っていました。実際に中村君は卒業後、医局に入らず、精神科で有名な国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)に勤め、それから大牟田労災病院に移りました。そこで看護師をしていたのが尚子夫人です。

 

 「約束を果たせて良かった」

 中村君は八四年(昭和五九)、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)からペシャワール・ミッション病院に派遣されます。私は少年時代からの彼の志望を知っておりましたので、かねてからJOCSに対して「有望な青年がいるから」と話していました。派遣が決まったとき、中村君の活動を主に資金面から支えるために結成されたのがペシャワール会ですが、彼の山仲間や同窓生、教会関係者達が賛同し、ネパールで長く活動された岩村昇先生も大喜びで発会式にも出席してくださいました。その後中村君は、現地で必要とされる知識を得るためリバプールの熱帯医学校に留学し、感染症ハンセン病について懸命に勉強したようです。

 中村君が活動を始めてから教会に来る機会は減りましたが、よく電話をもらいました。私が彼の健康を気にかけていると、「向こうは楽しかですよ。日本に帰ってきたときの方が 気忙しくて疲れます」とこぼしていました。

 二年前、視覚障害をもつキリスト教関係者を対象に、福岡市内で講演してもらいました。中村君も「先生との約束を果たせて良かった」と言ってくれました。最後に教会に来たのは五年ほど前。付属幼稚園児向けに話をしてくれた時でした。

 中村君が聖書からよく引いていたのは、裏切られても裏切り返さないこと、信じることの大切さを説いた教え、あるいは、たとえ一匹でも迷った羊がいたら助けなければならないという教えなどでした。

 また、武器を農具に変えて平和を実現するという聖句があるのですが、その教えが後の彼の活動に結実したような気がしています。

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(↑カマ郡住民がカマ第二取水口の横に中村哲医師記念碑を建設中/2019年12月31日)