ケイトウ咲いて、母の退院そして入所の日に

メープルホールの北側の空いたところが何年か前から花壇になっています。ケイトウが植えられて、たいまつの炎のような花が赤や朱色や黄色に咲いています。ケイトウって鶏頭と書いて鶏のトサカに見立てた名前なのでしょうね。

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私は昔、編んだ赤い毛糸のセーターを解いて玉にして両手を開いて一本の糸で束にして洗うと毛糸がチリチリして本当にまるでケイトウの花みたいになるので、ケイトウはこの毛糸から来ているのかと思っていたことがありました。メープルホール前の鶏頭。

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18日の金曜日、雨の予報でしたが何とか降らずに済んだ1日でした。

前日の夕方、そうそう3か月以上もお世話になった看護師さんたちに何かお礼にと思って駅構内にあるお菓子屋さんへ自転車を走らせました。皆さんに行き渡るといいなと思って22枚入りの巨大ソバぼうろの形をしたしっとりクッキーを選び「お礼」と書いて包装してもらいました。

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朝9時半病院着。支払いを済ませて受付の方へまわると、施設の方が押す車椅子に座って母が1階へ降りてきました。付き添ってくださっている看護師さんは退院に際して何回か電話でやり取りした方で手に持っておられた大きな袋を三つ受けとりました。代わりに「長い間お世話になったのでこれを皆さんで、ぜひ、受け取って」と言ってお菓子の袋を差し出しました。固辞しておられましたが、何とか渡せて良かったです。この方に退院時の私服を持ってくるように言われたのでした。紺地に白い水玉模様の七分袖のブラウスがハンガーにかかっていたのでそれを用意して引き出しを開けると赤いケースに入った母のお気に入りの小さな指輪があったのでそれも入れておきました。母の手を見るとあの指輪をはめていました。けし粒みたいな4つの石が十文字に並んだ指輪です。

施設の車の後ろから車椅子に乗ったまま車の中に納まるのを見た後、私たちは夫の運転する車で別に施設へ行くことに。久しぶりに見る母は痩せて老婆という感じでした。ところが、お昼御飯が運ばれて、お皿にきれいに並べられた昼食はラーメンライス。黒ゴマの小さなおにぎりと、豚と人参とキャベツの入ったラーメン、トマトとブロッコリーと卵のサラダ、それに小さなシューマイが4個。母は3か月ぶりのご飯に大喜び。ずっとお粥、3食お粥だったと。病院は年齢を見て決めているのか誤嚥を恐れてなのか…なんでお粥なのか不思議でしたが結局何も言えずでした。

 持ち込んでいたデジタルの時計の調子が悪いので一度帰って電池を入れ替えたり、別の時計も持って行くことにしたり、頼まれた化粧水と乳液の入った袋を探したりして3時過ぎにもう一度施設の母の部屋へ。母は籐椅子に座ってテレビを見ていました。夫が顔を見るなり、お母さん顔色が良くなって元気になったよと。本当にやっといつもの母の顔になりました。お昼のご飯が良かったのねと私が言えば、夫は栄養失調だったんだろうと。母が、さっき4か月ぶりにコーヒーを飲んだと嬉しそう。小さなお饅頭とコーヒーを持ってきてくださったそうです。コロナの所為で母は1週間自室から出ないで生活することになっています。面会はこの部屋のみで、逆に1週間後は私たちも部屋には入れず面会は1階のロビーでと言うことになっています。

母が、入院先では昭和10年ごろ生まれの若い?人でも認知症になっている人がいる、かわいそうだった。あんたたちも気を付けてねと言われました。8月に亡くなった末の妹の話も。母がA子が可哀そう、私が代わってやれれば良かったのに・・・でも、考えようでは良かったかもしれない。長生きしてもいろんなことがあるからねと…私も耳元で「そう思うよ」と言いました。

病院から持ってきた袋に手のひらに入ってしまうほど小さな茶色の封筒がありました。読んでみると、母へのメッセージでした。名前を見ると母を担当してくださっていた看護師さんのOさんです。施設のケアマネさんやリハビリ担当の方たちと合同会議を仕切ってくださった方です。

 

9/18  退院おめでとうございます。

右手を骨折しても いつも笑顔で

感謝を伝えているOOさんをみていて

素敵な方だなと思っていました。

施設でもOOさんらしく過ごせる

ことを願っています。 O○△△

 

別に手でちぎった白い紙片に母の字でこんな句が:

「やさしさは 彼女の一声 秋夕日   貞子」とあり、

左端に「O様、ありがとう」と書かれています。

 

母の話では、渡そうと思ったけれど一人だけ特別扱いみたいになると他の人たちに悪いような気がして結局渡さなかったと。他にも、母の担当じゃないのに毎日病室を覗いてあいさつに来てくれる人がいたり、どうもこちらでも母には若い娘さんファンがいたようです。母は娘の私から言うのもなんですが、明るいし楽しいし若い人たちが好きだし話は面白いしで結構世話をしてくださる看護師さんやヘルパーさんの人気があります。家に来て下さるクリニックの看護師さんにもカラカラに干したミカンの皮を木綿の布巾で作った袋に入れて湯船に浮かばせるミカン風呂を教えてあげたり、お料理を教えたりとすっかり仲良しになっていました。最初からお世話になっていたケアマネさんは母が元気なのはヨガのお陰と聞いてヨガ教室に通い始めたと仰って入院先までお見舞いに来てくださったり、今度も退院して施設に移ったら知らせてほしいと言われていたのを今思い出しました。明日にでも連絡です。やっと母を終の棲家に送り届けることが出来ました。

大正10年生まれの母を一言でいうなら”自立の人”。自分のことは自分でがモットーの人ですし娘たちに求めたのもこれだけでした。人に迷惑を掛けず自分のことは自分で。ですから自分のことを自分でできなくなった時の感謝の念は人一倍です。自分以外の他者には娘の私も入っています。娘だからしてもらって当然(そう思って甘えてくれればいいのにと思ったこともありましたが)と言う気持ちは微塵もなく、手を合わせて有難うと言ってくれます。拝まれるといたたまれなくなります。それは病院でも若い人に対しても施設の方たちに対しても全く同じ。何かしてもらうたびに手を合わせて有難うと言っています。母から学ぶことはまだまだありそうです。