🔲昨日12日の「東久留米日記 (hatenablog.com)さんが紹介されていたツィッターから仁坂和歌山県知事のメッセージです。大阪府の隣県として大阪のコロナ対策の欠点もよくわかって指摘されています。大阪府知事、大阪市長必読の提言です。一部引用してみますが、ぜひ全文をお読みください:
知事からのメッセージ 令和2年12月10日 | 和歌山県 (wakayama.lg.jp)
新型コロナウィルス感染症対策(その44)
‐大阪が危ない。日本も危ない。
(前略)
このようにコロナ問題を考える大事なパーツは、国民一般の行動をどうするか、どのくらい制限するかということと、医療現場の崩壊をどうして防ぐかということに加えて、コロナ患者が発見された時、この人をいかに上手く隔離し、入院等アレンジをし、この人の行動履歴から感染している可能性のある人をあぶり出して検査をし、陽性者はまた入院のアレンジなどをするということであります。
このような保健医療行政の機能強化こそ、この危機に際して最も問われるべき事だと、現場の苦労を見て、心を痛めている私は思います。
しかし、世の中の動きは全く違います。この事を吹っ飛ばして、医療現場が逼迫したら、とたんに国民の行動を制約せよという議論に短絡してしまっています。保健医療行政と言えど行政ですから、県知事が直接指揮し、工夫も出来るところであります。県知事は、こういう組織の長であるわけですから、まずはここを機能全開になるように強化する責任があると思います。国民一般に行動の変容を迫る前にやることがあるのではないでしょうか。そしてその機能が不十分であるというのなら、それは、100%その行政の最高責任者である知事の責任です。
そんなことを言っても、もう爆発が起こってしまったものは言ってもしようがないという意見もあるでしょう。しかし陽性者の取り扱いを一人ひとり丁寧にやっていくことによって、少しずつ少しずつ事態は好転していくと私は信じます。さらにこの保健医療行政の再建強化をしていることを条件として、感染爆発の大混乱の時だけは国民一般に行動の自粛をお願いするのも考慮に値します。しかし、そちらを放置していては、国民がいくら自粛しても、中々感染は収まりません。
ではどう改善したら良いのでしょうか。爆発している県も上手くやっている県も拠るべき法律や使うべき組織は同じです。それなら、運用を対比させてみて、上手くいっている所と爆発している所はどこが違うのか調べてみるのが一番早いのではないでしょうか。
私がこれまで見てきた限り、感染が爆発している地域の対応と和歌山県の対応とでは次のような点が明らかに違うと感じます。
1.陽性判明者の行動履歴を徹底的に調べているか。
2.そこから判明した濃厚接触者全員のPCR検査をしっかり実施しているか。
3.陽性判明者の入院、ホテル入所など十分な隔離の面倒をきちんと見ているか。
4.感染拡大に備えて、病院拡大、人員の手配、ホテルのリクルートなどを専門的見地から慎重かつ着実に進めているか。
5.陽性者と言えど、たいていの場合その行動範囲は、保健所の管轄を越えているから、別の保健所管内にいるこの人の濃厚接触者の検査を命令できる保健所の統合システムを持っているか。保健所がバラバラに動いていないか。
(後略)
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◎先々週のこと、グリーンホールでカメラの査定会があり、夫が父の残したフィルムカメラや望遠レンズを入れたケースを持って出かけました。私がヨーガから帰ってお昼の支度をしてもなかなか帰ってきません。やっと帰ってきて聞いたら全部で一万円とか。理由も全部丁寧に説明してくれて納得して後は引き取ってもらったとか。古いカメラは骨董価値があると言われたそうですが、コダックのカメラとケースは家で飾りますと言ったら、それが一番いいですと言われたそう。
それがこのカメラ。今は父の空っぽになった書棚に飾っています。
◎「大橋也寸」という名前を知ったのは今から32年も前のこと。忘れていたその名前を思い出したのはshohojiさんが取り上げておられた記事の中にその名前を見つけたからです。
shohojiさんのブログ(2020-11-29から1日間の記事一覧 - ちびころおばさん備忘録 (hatenablog.com)
◎大橋也寸さんの名前を何故忘れられないかというと、1988年、ピアニストのスタニスラフブーニンさんがペレストロイカのソ連から「亡命」、行きたい国は日本と言ったことから日本のマスコミが大反発、甘えているだのマザコンだのと22歳の青年を袋叩き。西側の国がソ連のゴルバチョフを『過大評価』した結果、そのソ連を批判して国を捨てたブーニンさんを一斉に攻撃しだしたのです。
1988年の朝日新聞
◎1988年6月24日付朝日新聞文化覧に京大教授・政治学の肩書で矢野氏の記事が出た後、7月13日の論壇というコラムに大橋也寸さんの次の記事が掲載されました。矢野氏の記事とバランスを取ったのかもしれません。
◎あの時点でマスコミに対してこういう批判的な記事は唯一でした。それほど日本でもゴルバチョフのソ連は民主化されたと受け止められていました。そうではないということをブーニンさんは自分で「カーテンコールのあとで」という手記のような本を出して自分で克明に亡命に至るまでと車での脱出とその後を書いています。大橋さんの記事が出た秋、音楽評論家の吉田秀和氏が音楽誌に冷静なマスコミ批判の記事を書いています。
当時の日本で、あの時点で、なぜただ一人大橋也寸という方が批判的な文章が書けたのかが分かる記事をこの2年後の1990年、ローカル紙で見つけました。それまで、年齢も性別(長髪なので女性かな?)も分からない謎の人でしたが、これにはプロフィールが載っていて大阪生まれの演出家であり、イタリアのローマ、フランスのパリへの留学経験があり、1974年から10年間ドイツのベルリンとパリで暮らしておられたことが書かれていて、これらの経験で「生き方は変わってしまったと思います」と書いておられます。
「むつみ 1990年(平成2年)12月4日 (毎月第1火曜日発行) 第282号」
なるほど納得と思ったのと同時に残念な思いも。やはり海外体験がないとマスコミに対峙して個人の意見を発表する人はいないのかというより、大勢に逆らって個人の意思を貫くを良しとする気概は持てないのかと残念な思いがありました。
◎今回、shohojiさんがブログで取り上げられていた『太平洋食堂』の記事に、「中上の小説『千年の愉楽』が原作で、岸田今日子さんが主演した(大橋也寸演出)」というところに、その懐かしい「大橋也寸」の名前を見つけたのでした。「むつみ」の記事の5年後のことですね。
2016年に↓この方が大橋さんのことを書いています。1935年生まれということは生きておられれば85歳かな・・・
「恩師・大橋也寸さん」の本が間もなく発売されます。 | 森田雄三語録ブログ (jugem.jp)
大橋さんの本は「私の演劇」と副題がついた「ヨコからタテへ」という題名だ。フランス風の平等の社会から、日本の上下関係を重視する「タテ社会」への葛藤の伝記でもある。
「個人の自覚した意思」の西洋と「協調や調和」の日本の対立でもある。大橋さんの理解者である安部公房が大きく大橋さんに影響を与えている。大橋さんと安部さんの芝居に対する「細かい遣り取り」が書かれている。超有名人である「安部公房」の本を読み、演劇にも崇高の念を抱いていた僕は、「大橋さんを通して」安部公房に興味を持ち、理解したのだろう。きっと安部公房も大橋さんを手助けすることにより、演劇観が変化したに違いないと思う。
◎ やはり、西洋と日本との葛藤を体験しておられたのですね。あれから30年以上ですが内向きで「長いものに巻かれろ」や「個人より組織、村」という風潮はあまり変わっていないのかもしれません。でも、若い世代はそういう重苦しさに「同調圧力」という名前を付けて自覚するようになっていますから進歩しているのかもしれません。マスコミの言いなりではなくて、多様性、個人がいろんな意見を持って当たり前、その意見を述べあって議論する楽しさとか、民主主義を身に着ける努力を怠ってほしくありませんね。