「もう一つの七夕・盧溝橋事件から77年」と久しぶりの唐池公園

七夕の日の盧溝橋事件を取り上げたブログは「天天日記」さんです。「もう一つの七夕・盧溝橋事件から77周年」と題する集いに参加された様子を記事にしておられます。写真もコピーさせていただきました。

 今日は七夕。タナボタでいいことが落ちてこないか、などと不埒なことを考えていないで、77年前のこの日は日中戦争の引き金になった盧溝橋事件が起きた日であることくらい認識しなくては。



 

 仕事が終わってから市ヶ谷で開かれた日中友好協会の「もうひとつの七夕」・盧溝橋事件77周年−合唱と講演のつどい−というのに行って見た。


 第1部の合唱は、「再生の大地」撫順戦犯管理所という題で、色々な歌がうたわれた。写真の通りおじさんおばさん合唱団で、悪いけど大きな期待はしないでいた。ところがどっこい、語りをまじえて40分に及ぶ熱唱に眼がしらがウルウルして困った。


 撫順戦犯管理所というのは、敗戦後にシベリアからここに送られた1000人の日本兵が、ここで中国の施設の職員の人達との交わりを通じて自分たちのしたことを反省し、また中国側の人達は肉親を殺した憎い日本兵を許していくという実話があった場所だ。その様子が切々とした詩となり、唄われている。


 唄っているのは高齢者とはいえ、その現場にいたはずはないだろう。そこまでの年ではないはずだが、見事に演じきっていた。どういう人たちなんだろうと思っていたら、前列の一人は中央大学の名誉教授で姫田さんという人だった。77歳で、盧溝橋事件の申し子のような人だと紹介されていた。皆さん元気だった。

◎引用元は「天天日記」さんの7日の記事のコチラ「歴史認識」(http://d.hatena.ne.jp/mm3493/20140707#1404745193
◎「もうすぐ北風が強くなる」さんが全文を引用されていた7月7日の桜井ジャーナルの記事も盧溝橋事件を取り上げたもの。
「北風」さんのタイトルは「琉球処分から中国侵略戦へ、そして今」(http://bator.blog14.fc2.com/blog-entry-2359.html)、
桜井ジャーナルの記事のタイトルは「77年前に起こった盧溝橋事件は琉球処分から続く日本の戦略の中で必然的に起こり、今も継続中だ 」です。6月に沖縄に行ってきた私としては、『琉球処分』が中国侵略につながる?というこの記事には興味を惹かれました。

 今から77年前の7月7日、中国の北京(南京を首都と定めた国民政府は北平に改名)郊外の盧溝橋で日本軍と国民革命軍(国民政府の軍隊)と軍事衝突、全面戦争に突入した。この事件を記念する式典が中国で開かれ、習近平国家主席が出席して演説、中国への侵略行為を批判したという。

 盧溝橋事件は中国側の銃撃が引き金になったとされているが、銃弾は上空へ向けて発射されているので攻撃でないことは明らかだった。銃弾の発射には迷子になった日本兵が関係しているとする証言もあるが、そうした事情よりも重要なことは、日本軍が中国に駐留し、軍事的な緊張が高まっていたことにある。

 この事件を考えるには、少なくとも「琉球処分」までさかのぼる必要がある。言うまでもなく、琉球王国を潰して「沖縄県」を設置した「処分」だ。


 徳川体制を倒した薩摩藩長州藩を中心とする勢力は新政府を樹立、強い自治権を持っていた「藩」を廃止、中央政府が派遣する知事によって支配される「県」を置くことにする。
 これが1871年7月に行われた「廃藩置県」だが、その翌年に「琉球藩」を設置している。

 廃藩置県の3カ月後に宮古島の漁民が難破して台湾に漂着、何人かが殺されるのだが、この事件を利用して台湾を軍事制圧しようと考えた人物が明治政府の中にいたようで、宮古島を日本領だという形を作ろうとする。
 そして琉球王国を潰して琉球藩を設置したということだ。

 こうした事情があるため、第2次世界大戦後、ダグラス・マッカーサーは記者団に対して「沖縄人は日本人ではない」と発言し、昭和天皇アメリカによる沖縄の軍事占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクション」のもとでおこなわれることを求めるという内容のメッセージを出しているのだろう。


 (※ 北風:天皇メッセージ(沖縄県公文書館)(http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html) 


内容は概ね以下の通り。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。

メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしている。)


 第2次世界大戦の終盤、一般民衆約50万人を巻き込む激しい地上戦が戦われた沖縄は、日本が「独立」した後もアメリカ軍に支配され、軍事訓練、兵站基地、出撃拠点などのために利用されてきた。
 

(以下省略:全文はコチラ:http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201407070000/)

昭和天皇の沖縄についての見解をまとめたメモが、アメリカの国立公文書館で見つかったのが1979年、公開されたのが2009年。 「 同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモ」です。
内容の受け止め方はいろいろあるようですが、昭和天皇にとって、琉球処分で新たに日本の支配下にはいった琉球王国はやはりまだ日本ではなかったのか…と思ったりします。でも、その沖縄では徹底した天皇制の洗脳教育がされて、戦争中は天皇陛下のために命をなげうって戦ったり、日本兵の犠牲になったり、本土から来た太田實海軍中将はその有様を見て「戦後格別のご高配を」という遺言のような電文を打ちました。6月の沖縄旅行で、その全文の石碑を見てきました。その凄惨な沖縄住民の戦いぶりに特別の配慮をお願いしたにもかかわらず、昭和天皇のこの『仕打ち』(どう受け止めても沖縄差別に変わりはないような)は、本当に気の毒で申し訳ない気持ちがします。
◎昨日は2か月ぶりに水中歩行に出かけました。途中、通った唐池公園。大きな木々は緑も濃くなって、花壇にはブルーのアガパンサスが満開。オレンジの檜扇スイセンアジサイも今が盛りです。田圃は水が張られて・・・帰りには当対池公園を通り抜けて。