NHKEテレ「橋田壽賀子のラストメッセージ~”おしん”の時代と日本人~」(前半)

(1341) 橋田壽賀子さんのラストメッセージ ~おしんの時代と日本人~ - YouTube

橋田壽賀子さんが「おしん」で描きたかった「昭和」とは? 見逃し番組日記 その107 ② |NHK_PR|NHKオンライン

◎朝の連続テレビ小説おしん」のドラマの場面を繋ぎながら経済評論家の内橋克人さんや今期の大河ドラマ「青天を衝く」の脚本家大森美香さん、「おしん」当時の番組プロデューサーの方が「おしん」について語っています。橋田さんはおしん昭和天皇と同い年の設定にしてまで昭和という時代に拘って描いています。たくさんの手記や取材を通して明治生まれの女たちが懸命に生きた時代を描ききる覚悟と姿勢に脚本家の大森さんは目を潤ませて語ります。内橋さんもおしんは日本の経済発展を描きながら豊かさとは何かを深く問いかける作品だと語ります。

私も、戦後の復興期からあの高度成長の前の時代、そして絶頂期を鮮明に覚えていて、橋田さんが仰っている「危ないな~」という思いも同じでしたので、共感を持って見ました。特に「庶民の戦争責任」というテーマを取り上げている第二章の初めでは橋田さんの出身女学校の先輩与謝野晶子も登場します。「おしん」というドラマをもう一度味わうために文字起こししてみました。(5月15日に放送された番組です)

橋田壽賀子ラストメッセージ〜“おしん”の時代と日本人〜」

橋田壽賀子さんの代表作「おしん」。内容が暗いと反対されても橋田さんがこだわったのは「おしん」が生きた時代をリアルに描くことだった。農村の貧困の実態、戦争責任を感じる庶民の苦悩、高度経済成長期の商売拡大路線とその危うさ…。生前の橋田さんロングインタビューと、プロデューサーや出演者の証言、さらに瀬戸内寂聴さん、内橋克人さん、大森美香さんら識者の考察も交え、ドラマに込められたメッセージをひもとく。

「橋田壽賀子のラストメッセージ〜“おしん”の時代と日本人〜」 - ETV特集 - NHK

◎慌てて録画したので最初の出だしが切れています。語り(ナレーション=N)は中條誠子さん、番組では「です、ます」調の丁寧語です。それでは:

MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM

瀬戸内寂聴「(途中から)非常に、凄い、正義感があると思いますね」

ナレーション(N):橋田壽賀子さんはおしんという人物設定に一つの時代を背負わせようとした。

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橋田壽賀子天皇陛下と同い年なんです、おしんは。それはもう絶対天皇陛下と同い年にするって、昭和という時代を明治から生きてきて、昭和という時代を生きた天皇陛下と同じ世代の女性を書きたい、それは当初から決めていました。

N:橋田壽賀子さんが、おしんに込めたメッセージとそこに秘められた覚悟を辿ります。

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N:静岡県熱海市、橋田さんは1974年にこの地に移り住み、海の見えるこの部屋でほとんどの作品を書いた。取材した2年前も90歳を超え乍ら現役でドラマを書き続けていた。橋田さんがおしんを書いたのは、脚本家として脂が乗り切っていた58歳のとき。

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橋田壽賀子「一生懸命山形弁を覚えましたよ。一番苦労して見えるけど、あまり苦労していない。これ、長い間ずっと温めていましたから、一番苦労しないで書いたのはおしんですね。ケンカしても自分のものを通した方が得だと思ってガンガン書きましたから。ま、ケンカして降りて、普通だったら、次の仕事くれないから生活に困ると思ってプロデューサーの言う事きいちゃったりするんですけど、そういうことしなかった。」

第一章 おしんに託した”母たち”の人生 

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N :7歳のおしん、いかだに乗って奉公に出されるあまりにも有名な別れの場面。実はこの場面、終戦の年、橋田さんが疎開先の山形で実際に聞いたものでした。

橋田「配給も何もなくなって、しょうがなくて叔母のいる山形へいった。昔はここから奉公へ行くのに、馬賃(うまちん)が出るけど親が召し上げちゃうので、いかだに乗って高田へ奉公に出たんだよ。なるほど、子どもがいかだに乗って奉公に出たんだなと思った。その話が印象に残ってて、最上川を下るように女が一人出世して力をつけていくドラマっていいなと考えたりしていた」

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N:まだ何ものでもなかった20歳の橋田さんは、いかだに乗って奉公に出た少女がその後どんな人生を辿るのか想像したという。

 それから30年余り、日本が高度成長を遂げ、まさに豊かさを謳歌し始めた頃、人気脚本家となっていた橋田さんの元に明治生まれの女性の一通の手紙が届く。そこには、疎開先で聞いた話よりもっと貧しい過酷な人生が綴られていた。

かつて、若い頃には

米一俵で何度も奉公に出され、

その後、女郎に売られた・・・

 

やがて、そこから逃げ出し

ミシンを習って自立した・・・

N:橋田さんは、自分の母親の世代でもある明治の女性が歩んできた壮絶な暮らしに愕然とした。豊かさを当たり前だと思い始めている日本人にこうした事実を伝えたい。橋田さんは、当時の実情を詳しく知るため雑誌(「週刊新潮」1997年3月15日号)の掲示板を使って体験談を募った。

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「今のご老人方に身をもって体験して来られた大正、昭和の記録をまとめて残したいのです」。すると日本全国から、自らの壮絶な半生をつづった100通を超える便りが寄せられた。

 「修羅を生きる」― 後の著作で橋田さんは名もなき女性の人生をそう形容している。時には手紙をくれた女性に実際に会って取材した。橋田さんが手紙をくれた女性に聞き取りをする様子を収めたカセットテープが見つかった。

橋田「みんな子守りにやられたとか裸足で学校に行ったとか酷い目にあったとか奉公の酷かったこととか…」

  「私、30円で売られましたもの。お米1俵が5円ですから」

橋田「それで1俵ずつ、6俵ぶん」

  「アワやヒエを混ぜて食べてた」

  「8人兄弟の一番末っ子。私9つの時に売られましたから」

N:明治生まれの女性たちの生身の声を積み重ね、おしんの原型となる人物像を作りあげて行った

実はおしんの企画は当初どのテレビ局に持ち込んでも見向きもされなかった。

橋田「あの暗い色のない世界が嫌われて、なかなか実現しなかった。NHKでも通らなかったですよ」

N:当時の日本はバブル景気直前、人々は競い合うように豊かさを追い求める時代。徹底的に苦労や貧しさを描く橋田さんの企画は時代にそぐわないものと受け止められた。

 それでも橋田さんにはこのドラマは今だからこそ書かねばならないという強い覚悟があった。

橋田「本当にこんな惨めな時代があったんだな~とつくづく思いましたね。いろんな事聞いて、貧しさというのは書いておかなきゃいけないなと。いろんな取材もしてましたから。いつものになるかわからないけど、やっぱりずっと抱いていた。どうせ書くなら自分の想う通り書きたい、相手に言われて書き換えるようじゃ、書かなきゃいいですからね。」

N:最初の手紙を貰って3年後、おしんの企画は日の目を見ることになった。きっかけは大河ドラマおんな太閤記」(1981年)の大ヒットだった。

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橋田「”おんな太閤記”の時に喜んでくだすった。女の視点から時代劇を書きたいと言ってたんですね。今まで男の視点ばっかりだったけど、女の視点からというのは初めてだったんです。非常に視聴率が高かったので何周年記念という時に、まぁ、おしんみたいのも良いだろうと」

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N:それでもおしんのプロデューサーだった小林由紀さんは、橋田さんの書いてくる脚本を読んで、その容赦ない描写に戸惑ったと言います。

小林由紀子(プロデューサー)「あの~上がってくる脚本を読んで、読めば読むほど朝ドラでこんな暗い話、いいの?という凄い不安があった。希望に満ちた女の子が明るく元気に爽やかにっていうのが、まぁ、朝ドラの定番ていうか、決まり事みたいだったから不安だったんですよ。」

N : 橋田さんが特にこだわったのは当時口減らしのために農家の女性が自ら行っていた堕胎。これも実際に聞いた話だった。

橋田「田舎は、子どもを生んだら、口減らしに子どもを下ろすんですよね。下ろし方が分からないので、あゝいうお腹を冷やして降りるかな…と思って冷やすんですよね。子どもを生むってことは重いですよね。で、コントロールの仕方も知らないですしね。勝手に男は遊んどいて、女は可哀そうですよね。」

N:朝のお茶の間でタブーともいえる堕胎のシーンを橋田さんはドラマの序盤にいきなり設定します。そんな橋田の思いを汲み取って母フジ役を演じた女優の泉ピン子さんは・・・

泉ピン子「”おんな太閤記”を書き上げた橋田先生が一寸相談があるっていうから。一つ条件がある。子どもを下ろすために川に入るのをテーマとしてやりたいと。私がその川へ入ることが第一条件になった」

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かあちゃん!」「心配ねえ。すぐ上がるから。誰にも言うなよ。黙ってろよ」

最上川に入ると。えぇ~私、冬って聞いてないんですけど。だって寒いじゃない、この季節に。

だって、暖かかったら、子ども育っちゃておろせませんて言われて、口減らしになりません、って言われて、あゝそうですか。

もう一人、用意してくださって、若い人をね」

N:撮影は酷寒の一月。泉さんは一部代役を立てるという演出陣の申し出を断り、6時間もの間、何度も川の水に浸かるこのシーンを演じ切りました。

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「もう下半身、感覚がないんです。凍傷みたいで。このシーンを条件に引き受けたのでちゃんとやらなきゃ成立しないと思った。

N:現在放送中の大河ドラマ「青天を衝け」そして2015年、幕末から明治の女性の生き様を描いた朝ドラの「あさが来た」(はる主演)、これらの作品を手掛けた脚本家の大森美香さんも、橋田が描く堕胎のシーンに大きな衝撃を受けたという。 

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f:id:cangael:20210523165235j:plain「あさが来た」で第24回橋田賞受賞

脚本家・大森美香「こうやって川にかがんで生まれないようにしてたんだっていう痛い、体が痛くなる思いを見ている気がしますよね。ほんとに我々の祖母とか上の世代が、こうやって生きてたんだなって…ね。今、書いたらやめてくれッと言われるかもしれないと思ったりする。どうしてもやりたいんだっていう気持ちをちゃんと伝えて、やったスタッフもスゴイと思うし、これを言えた橋田さんのやりたいこと、本当にこの時代の女性たちを切り取ろうという思いが明確だったんですよね。だからみんなやれたのはスゴイ」

N:おしんの放送が始まると、NHKは連日視聴者から便りがよせられるようになった。「涙なしでは見ていられません」「私によく似たところがあってびっくりしました」
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小林由紀子プロデューサー「これを放送してくれて凄く良かったと仰った方が、山形から身売りして東京へ来たって方がいて、自分がそういう人生を歩んできたことを実は娘にも孫にも言ってない、言えない。

自分の人生は恥ずかしいことだと、だから言えなかった。それがおしんの放送を見て、あゝ、私も孫に言えるんだっていうお手紙があった。市井のおしん的人たちの人生が詰まっているワケだから、お婆さんたちの人生はこうだったんだと分る。彼女たちの人生に光を与えたんですね」

N:おしんは瞬く間に人気となり、平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%、日本のドラマ史上今も破られない驚異的数字をたたき出した。

奉公先を出て上京したおしんは髪結いの仕事を皮切りに自ら手に職をつけていく。

ドラマの中のおしん「女は大人しく嫁に行くのが一番だよ」「たとえ10年辛抱したっていい、自分の思い通り生きられるようになりたい」

f:id:cangael:20210526141557j:plainおしんを演じた音羽信子・小林綾子・田中裕子

N:明治、大正、昭和を生き抜いた女の一代記。実はおしんの人生を描くにあたって、橋田さんとプロデューサーの小林さんには密かな企みがあった。

小林おしんの物語全体を通して、日本の近代経済の基盤みたいなことをやろうとしていたわけですね。小作人の話から始まって農業の話、これも経済の形。それから女性の働く場をどう設けるかというと東京しかない。しかも当時で言えば看護婦さんか髪結いです。女性が稼げるという場がなかったし、しかも、それが戦争を挟んでです。戦争を挟んだ後、日本はどうなったか。一人の女性の人生を使って日本の背景、時代の動きを描いていくという風になってたはず。」

N:経済評論家の内橋克人さんは、おしんに額に汗して働いてきた日本の在りようを感じたと言います。

経済評論家・内橋克人「貧しくて売られていく子ども。その別れ、船で下っていく。日本人の多くがおしんだったのではないでしょうか。そこに汗をかき、血の汗をかき、涙を流した世代の人々が人間臭く、人間の姿形、魂のままに描いた。それが魅了した。ひきつけた魅力。私は、まぁ、そういう風に熱心に視聴させていただいたんですけど…」

N:橋田さんには、この物語をどうしても見て欲しかった人がいた。おしん明治34年生まれという設定。それは昭和天皇が生まれた年でもある。

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橋田天皇陛下がご覧になるか分かんないけど、それは(昭和)天皇陛下の時代にこういう苦労をして生きてきた女がいるんだよという事を分かってほしかった。天皇陛下と同じ世代の女性が一番苦労したんだということを、それをいっぺん書いておきたかった。そうか、そうだったのかと思ってもらえばいいと思った。それで同い年にしちゃったの。それは最初から決めていました」

N:おしんの舞台はやがて戦争の時代に向かいます。

第二章 庶民の戦争責任

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N:橋田さんがおしんを描く上での大きなテーマ、それが庶民の戦争責任でした。女学校に通っていた16歳の時に太平洋戦争がはじまると、橋田さんは日本の勝利を信じて軍需工場でも働いた。

橋田 「やっぱり書きたい一つの部分でした。『戦争責任はどこまであるか』っていう。私だって戦争責任、あるんですよ。軍国少女でしたから。それはやっぱり、だったためにひどい目に遭いましたよね。報いを受けて貧乏しましたね。だから戦争責任を感じない人には腹が立ちましたね。」

                           つづく