◎前半のつづき、後半です。前半はこちら:
NHKEテレ「橋田壽賀子のラストメッセージ~”おしん”の時代と日本人~」(前半) - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)
ナレーション(中條誠子):橋田さんより3歳年上の作家、瀬戸内寂聴さん。生前二人には交流がありました。
瀬戸内寂聴「橋田さんも私も、いわゆる優等生で真面目でね、戦争のときは頑張らないといけないと思ったしね、そういう教育されて、そういうのが優等生だったでしょ。却ってそれが嫌だったし腹が立った。
敢えて、そういうおしんとか戦争のこととかを書くって言うことはね、やっぱり非常に強いものがあるんじゃないですか」
N:橋田さんは少女時代のおしんに、ある象徴的な体験をさせました。
おしんが奉公先の辛さに耐えきれず飛び出して山の中をさまよった時、日露戦争から逃げ出した一人の脱走兵に助けられる。その脱走兵はおしんに一篇の詩を読み聞かせるのです。
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
「この詩はな、与謝野晶子という偉い詩人が日露戦争のとき旅順港を包囲する軍隊にいる弟のことを悲しんで作った詩だ。
戦争だから人を殺したり殺されたり、いつ弟も戦死するか分からない。
そんな愚かなことをするために親は可愛がって弟を育てたわけじゃない。
家では結婚したばかりの新妻も泣きながら待っている。
弟は大事な人だ、どんなことがあっても死んではいけない。
戦争の勝ち負けなんてどうだっていい無事に帰ってきて来てくれ…
そういうことだ、分かるか」
N:歌人が書いた「君死にたまふことなかれ」は日露戦争の最中に発表され、厳しい批判にさらされた。
瀬戸内「与謝野晶子は、あの時代に、
いちばん戦争反対ね。
行くな、戦争に、戦争なんか行くな、
と詩に書いたのね。
その詩がとってもいいんですね。
当時、ね、大変だった、そんなことするのは」
N:実は橋田さんと与謝野晶子はある縁で結ばれている。橋田さんが通っていた堺高等女学校(現泉陽高等学校)は与謝野晶子の母校。当時学校に飾ってあったのが「君死にたまふことなかれ」(自作の詩を書き各所に配った「百首屏風」)。その屏風を毎日のように目にしていた。
橋田「私は与謝野晶子さんの出た女学校で、君死にたまふことなかれの詩を毎日見ていて、ライターになってから、いつかドラマに書こうと思っていました。それであれを作ったんですよね」
N:そして時代は大正から昭和へ。結婚して幸せな家庭を築いたおしんの暮らしにも戦争の足音が近づいてくる。
その年の暮れ、日本軍は南京を占領し勝利に酔いしれた国民はちょうちん行列でこの戦争を祝った。家族みんな何の疑いもなく提灯行列に加わった。この時おしんは勝利を喜ぶ日本人の一人になっていた。
橋田壽賀子「人生ムダなことはひとつもなかった 私の履歴書」(大和書房)より:
「この提灯行列の中に私はいた。政府や軍部や大人を疑うことを知らない軍国少女だった私は「バンザーイ、バンザーイ」と声をからして叫び続けた」
橋田「とにかくお国のために全部、何もかも捧げようと全く疑いもなく捧げていたわけですよね。銃後の大和なでしこも兵隊さんのために何かしなきゃいけない。勉強なんかしてる時じゃないんだよと言われて「あゝ、そうですか」と言われる通り工場に行って、一つでもたくさん配電盤を作ろうとか、そういう競争して働いていましたもんね」
瀬戸内「私だって勝たなきゃいけないと思って、国家の思想とかじゃなくてね、とにかく戦争で負けちゃ大変だと、勝たなきゃいけないと思ってましたもの。
それが本当は負けてるのにね、勝った、勝ったと報告があると町内、提灯行列とか旗行列があるんですよ。必ず行ったもの、ほんと」
おしん「戦争に泣かされるより、戦争を利用するぐらいじゃなきゃ」
夫の龍三は日本軍への納入業者となり、おしんの家族は羽振りの良い暮らしをてにすることになり・・・
おしん「ただね、母さん、軍に取り入るのは嫌なんだけど・・・」
N:日本全土への空襲が激しくなった戦争末期、橋田さんが海軍の経理部で働くことになり、そこで橋田さんが出撃を控えた同世代の特攻隊員らの世話をしていた。
橋田「みんな死ぬんですよ。特攻隊に入って、あの人も亡くなった、この人も亡くなったというと自分が生きているのが不思議でしょうがなかった」
N:ドラマの中でもおしんは戦争で大切なものを失うことになる。長男の戦死。
1945年(昭和20年)8月15日。耐え難きを耐え、忍び難きを・・・そして敗戦。
橋田「終戦の日に集まってきて変だなと思ったんですが、天皇陛下のラジオ放送。それが、私たちは泣きましたけど、なんか淡々と受け入れる。この人たち、また新しい時代が来るみたいな顔してましたもんね。私なんかも負けたときに平家の人たちが海に飛び込んだみたいに海に飛び込んで死ななきゃいけないんだと思ってました。だから、みんな戦争責任なんか感じていないわけですよ。それが私は頭に来ていたから。たとえ満蒙に送っただけで自分は戦争しなくても、でも戦争責任を感じる人もいるのよ」
龍三「日本が負けるなんて夢にも思っていなかった。私の生き方、間違っていた。私は軍と手を結んで仕事をして来た。隣組の組長として戦争への協力を押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊へ入った人もいる。その中でも帰ってない人もいる。戦争に協力して罪もない人を不幸に陥れてしまった罪は消えやしないんだ」
N:龍三は戦争に加担してきたことを悔やみ自分を責め続け、そして短刀で自らを突き、自ら命を絶つ。龍三、あるいはその死を受け止めたおしん、橋田さんは自らの半生を2分を超えるおしんの長台詞に託しました。
私は龍三を立派だと思っています。戦争が終わって、戦争中は自分も黙っていたくせに自分ひとりは戦争に反対してきたみたいに、バカな戦争だった、間違った戦争だったと偉そうなことを言って。
私もそうでした。暮らしが豊かになるためだったらと龍三の仕事にも目をつぶってきました。戦争のお陰で自分だってぬくぬく暮らして来たくせに、今になって戦争を憎んでいる。(長男の)ひとしを奪った戦争を恨んでいる。
そんな人間に比べたら龍三はどんなに立派か。自分の信念を通して生きて、それが崩れたとき、その節を曲げないで自分の生き方にけじめをつけました。私はそんな龍三が好きです、大好きです。
大河ドラマ「青天を衝く」、2015年の朝ドラ「あさが来た」で第24回橋田賞受賞の脚本家・大森美香「やっぱり嘘がないんですよね。その時に生きている人の心情にウソが無いっていうのは・・・私もそれは凄く憧れるところがあります。
一つ一つ戦争に対して感じていることにしても、こういうことなんだっていうことが本当にリアルに感じられる作品というのは本当にすごいな…と。
戦争しろ、応援しろって言われていたのに、終わったら、あれ、こんな風に置いて行かれちゃうの、何もなかったみたいに・・・って納得いかなかったっていうことをおしんの中でやっていくというのは、凄く共感しましたね。そこが田中さんのセリフになって」
N:橋田さんが著書におしんに託したメッセージや思いについてこう記している:
「戦争は過ぎたことだからというのではなく、国民ひとりひとりにも責任があるという事だけは、どうしても書かねばならないと思ったのです。それは、あの戦争で私が、体が震えるくらいに感じたことでした。だからおしんにも戦争責任があるという設定にしました。おしんはその『罰』として、かけがえのない夫と長男を失います。」
戦後、おしんは四人の子どもを抱えて女手一つで育てていきます。
「母さん、これから一生懸命働いてお金をもうけるわ。その戦争で失くしてしまったものをきっと取り返してやる。母さんの腕一本で取り返して見せるわ」
第三章 身の丈を越えた日本人
N:戦後日本の奇跡の復興と呼ばれる発展を遂げようとしていた。やがて高度経済成長の時代をむかえ、街には沢山のものが溢れ始めた。
その頃、おしんは子どもたちと一緒に小さな商店を開店。店は安売りが評判を呼び繁盛店となっていく。ある日商店主らに「お宅では随分値引きをしてらっしゃる」と詰め寄られて、音羽信子演じる商店主のおしん「食うか食われるか。どんなものを幾らで売ろうが、お互い自由。きれいごとなんか言ってはいられない。商売は食うか食われるかなんだよ」
視聴者からこんなおしんは見たくないという投書が相次いだ。
「おしん」のプロデューサー・小林由紀子「儲けよう、儲けようという形でスーパーマーケットをどんどん大きくしていく。あんなに辛抱していたおしんが何で最後あゝなるの、と言われた。でも人間って変わっていくんですよね。いろんな形で変わるわけですよ。」
大森「主人公をカッコよく見せたい、女性であれば美しく見せたがる、けど人を描くのに、そういう面はないです。だからリアルだし・・・おしんちゃんも、あ~ぁ.ってところ一杯あるんじゃないですか。健気に頑張ってるだけじゃなくて人間だし、やっぱり人間をとらえてたなって気がしますね。」
N:橋田さんはドラマのために、ダイエーの創業者中内功氏や、ヤオハンの和田勝氏を直接取材したという。
「流通革命」「価格破壊」を合言葉に消費者の支持を集め急成長を遂げた総合スーパー。ダイエーは多店舗化で規模を拡大し、おしんが放送された80年代には売上高が業界初の1兆円を突破、青果店からスタートしたヤオハンは百貨店として世界10数か国に進出を果たした。
橋田「日本で一番金持ちだが、世界で一番伸びている。身の丈を越えた成長の仕方をしている。それが、凄い不安でした、ヤオハンなんか見てて。それもあって書こうと思ってた。」
N: 経済評論家の内橋克人さんはダイエーの中内氏を度々取材。NHKスペシャル「経営者中内功」(1999年放送)でも、戦地から引き揚げ流通業界の革命児として一時代を築いた手腕を高く評価しながらも、その拡大戦略に警鐘を鳴らし続けてきた。
内橋「最初の第一号店をおつくりになった、そのとき仰ったのは「天井を見てください」。天井を見るとね、天井はぐっとしなっているんです。「あれは商品です、モノです」。安くまとめて買ってきたものを全部2階に上げている。2階がしなって「いつ落ちるかわからない」と脅されたことがあります。
戦後のスーパー、あの頃は最も新しい業態でしたから、膨張大量販売、膨張生産、膨張消費、その間に膨張大量販売。これがね、あの当時の日本人の欲望だったのではないですか。」
N :おしんが始めた小さな店も高度経済成長の波に乗りスーパーマーケットに発展、三重県内に16店舗を構えるまでになった。しかし、橋田さんがおしんの姿をビジネスの成功者として描いたわけではなかった。息子が社長となり拡大路線を推し進め新たな出店計画を立てた時のこと、その近くにはおしんの恩人の家族が営む食料品店があったのだ。
おしん「スーパーを建てたら並木食料品店なんてたちまち潰れてしまうよ」
息子「商売は食うか食われるかなんですよ」。
おしんがかつて自分が口にしたと同じ言葉を今度は息子から突き付けられ言葉を失う。結局おしんの反対も押し切り息子は巨額の資金を投じて駅前に17号店を開業させた。ところが一年後、別の大手が駅前に進出し、”たのくら”は経営難に陥る。
「うちは閑古鳥がないていたわ」「母さん、申し訳ありません」
橋田「おしんの最後はやっぱり身の丈に生きよう、身の丈の暮らしをしましょう。それだけね。
貧乏のどん底から這い上がった人だから身の丈を大事にしようと思う。
そういう、その当時の高度成長への皮肉をやっている。私はそう思いましたね。ほんと危ないと思って。そしたら予言しちゃったものね」
N:おしんの放送が始まったのが1983年、その後バブル経済が崩壊し、急拡大を続けたヤオハンは1997年に経営破綻、ダイエーも売り上げが落ち込み、急速に経営が悪化、2004年には50を超える店舗が閉店に追い込まれます。
内橋「おしんは多店舗展開を自分の事業の発展とは思っていない。数を増やすことを発展とは思っていない。
あの母親と娘の別れ、最上川を下っていく別れ。それとスーパーを展開して流通産業、当時としては先端だったでしょうね、そこで生きる糧を求めることが出来た、おしんは。
そうですね~どんな人生だったでしょうかね。幸せだったんでしょうかね。
おしんの作家の橋田さんはね、心の奥で、本当に冷やりとした冷たい何かの存在として、お腹の奥、或いは胸の奥底にね、持っておられたんじゃないですか。」
N:いかだの別れの場面から始まった一人の少女の物語。
橋田さんは全297話、一年をかけて、明治・大正・昭和と激動の時代を生き抜いた女の生涯を描ききりました。
瀬戸内「大切な存在。いや、もう、ほとんど私と同じ時代だけどね。橋田さんがあの世界であれだけの脚本を書かれて、あれだけ有名になられて、あれだけのお金を持ってね、晩年ね、とてもいいと思うわね。
同性としては有難い人じゃないかしら。女だってやればここまで出来るってことわね」
悲劇でも喜劇でもない、単なる人生ものでもない、立身出世物語でもない。
おしんを見た人は身につまされたと思う。
それは過去の自分を思っただけでなく自分たちの行く末を見たんです。」
大森「一生懸命生きるということ、そういう生き方があったことを思い出させてくれる作品のような気がする。明日は今日より良くなってほしいと願って前へ一歩進んで頑張ってみる気持ちになれる。
今、なりにくくて、何か今日より良いのかどうかわからないという感じがあると私は思ってるんですね。よくぞやってくださったという気持ちがありますね。
なんか、それぐらいの覚悟を持って書きたい、作りたいな―という気持ちは凄くあるから、よくぞやってくださった、カッコイイなと思う」
N:橋田さんが自身の集大成と語った「おしん」。その後、何度も再放送され、そのたびに新しいファンを獲得、世代を超えて愛され続けている。
橋田「なんか、これが当たるかしらとか全然思ってなかったです。
書かしていただける場ができたっていうんで、すごい乗ってたのは覚えていますね。書かせてもらえるっていう。
おしんの名前は早くから考えていたんですよ。辛抱の「しん」、神様の「しん」、心も「しん」で、身体も「しん」で、いっぱい「しん」の字があるんですよ。それらを込めて「おしん」って、最初から決めてあったんですよ」。
終