- ETV特集 -「白い灰の記憶〜大石又七が歩んだ道〜」(前半)

◎8月9日、11時2分、広島に続いて長崎に原爆が落とされてから76年。昨日は長崎で原爆記念式典がありました。「広島が人類で一番最初の被爆地なら、長崎は最後の被爆地に」という印象的なメッセージが長崎市長の挨拶文の中にありました。今のところ被爆地は長崎が最後ですが、その後も日本では核被害がつづきました。1954年、焼津港を出た第五福竜丸ビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験で被曝の犠牲者をだし、2011年の東北大震災による福島第一原発爆発では広範囲にわたる被曝を受けています。長崎市長に倣って福島が最後の被曝になるよう願いたいと思います。7月に放送された番組の書き起こしをしてみました。

◎7月24日(土)のNHKETV特集はビキニで被曝した大石又七さんを取り上げたものでした。大石さんは今年3月7日、87歳でお亡くなりになりました。「大石又七さん死去」と第五福竜丸と黒沢監督の映画「生きものの記録」 - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)

福島原発事故後の2011年7月、大石さんは大江健三郎氏と夢の島に展示してある第五福竜丸の甲板で対談。NHKのその番組を何回かブログで取り上げたことがありましたが、この番組を見て、その後しばらくして、脳出血を起こしておられたのを知りました。

大石さんが20歳、マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員だった時、ビキニ環礁死の灰を浴びてから67年。大石さんの怒りと、死んだ仲間の分まで語りに語り続け、そしてその思いを受け継ぐ人たち。書き起こして見ました。 

 7月24日放送

「白い灰の記憶〜大石又七が歩んだ道〜」 - ETV特集 - NHK

「白い灰の記憶〜大石又七が歩んだ道〜」

アメリカの水爆実験による「死の灰」で被ばくした第五福竜丸の元乗組員・大石又七さんが3月に亡くなった(享年87)。1954年に起きたこの「ビキニ事件」は、アメリカが日本に「見舞金」を支払うことで政治決着したが、乗組員の多くは事件後口を閉ざしたまま、若くしてがんや肝機能障害などで次々に命を落とした。ただひとり事件について語り続けた大石さんが抱え続けた怒りとは何だったか。家族や関係者の証言を交えて描く。

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大石さんの長女、佳子さん「とっておきのをお見せします。魚拓です。大きいのが釣れると魚拓にして、それが終わると父が魚をさばいてお刺身を食べる。私はおろせないし・・

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(アルバムを見ながら)釣に明け暮れたていた頃の父です。年を重ねるにつれてですけど、変わっていったことが大きくありますね。自分たちの未来の問題として原爆とか原子力のことを考えて欲しいという期待?」

ナレーション(N):海を愛した大石又七さん、若い頃は船乗りだった。

 20歳の時、このマグロ漁船第五福竜丸で人生を変える事件に遭遇していた。

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「ピカッと光ったような光ではなかったね。 遠くで何かが光ったんだな。

なんか白いものが落ちてきたけど、きょろきょろしてましたよ。

死の灰”とかなんとかっていうことは、頭にないからね」

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1954年3月1日、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験。爆心から160㎞離れた大石さんたちは強い放射能を浴びた。いわゆる死の灰が降り注いだ。乗組員の浴びた被曝線量は致死量の半分近くに達していたと推定される。

静岡県の焼津港に戻った大石さんたち乗組員は全員入院。「急性放射能症」と診断された。輸血などの治療が施されたが半年後に1人が亡くなった。広島、長崎に継ぐ第3の被曝としてこのビキニ事件は日本人に衝撃を与えた。

大石「大きい事件が起こっても時間が経てば消えていきますよね。(ビキニ事件が)過去の出来事ではなくて現在も大きく意味を広げて大きくなってきている事件だと私は思っているんですよ」

N:大石又七さん、今年3月、87歳でこの世を去った。

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1992年、50代の頃から大石さんは忘却にあらがうかのように自らの体験を語り続けた。「雪が降る訳ないだろうに何でこんな白いものが降るんだろう。それがこの辺に一杯つくわけですよね、雨と一緒になって、この辺に着いたやつを噛んでみると固いんですよ。砂みたいにじゃりじゃりして」

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2004年、「第五福竜丸は当時私を含めて23人が乗っていました。現在はその半分の12人が亡くなっているんです。それも、ただ普通の病気で亡くなったのではなくて、被爆の後遺症と思われる共通した病気でみんな亡くなっています。私は被曝のために仲間が半分死んだんだってずっと思い続けてきています」

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第五福竜丸展示館学芸員市田真理さん「すごい高いテンションで怒り続けている気がします。語りたくても語れなかった仲間の分も自分は生き続けるんだ、語り続けるんだって・・・」

N :死の灰を浴びたあの日から67年、大石さんは何に怒り、何に希望を見出してきたのか、第五福竜丸の元乗組員大石又七さんの人生をみつめます。

「白い灰の記憶〜大石又七が歩んだ道〜」

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長女の佳子さんは、このマンションで身体の利かない晩年の大石さんと7年間暮らした。

中学校を中退して焼津でカツオ船の漁師になった頃の大石さんはまだ14歳だった。

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佳子さん「船に乗ること自体、好きで乗ったわけでなくて、父の父親が保証人になって家が破産しちゃってお金がなくて、父親も亡くなっちゃったんでしょうがなく長男だし・・・なんで自分の人生こんなんなんだよ~って、で、船に乗ったはいいけど被曝しちゃって、また世間からたたかれちゃって・・・」

N :事件から38年後、58歳の大石さんをとらえた映像(1992年撮影)。

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東京でクリーニング店を営んでいた。この1年前、大石さんは乗組員の中でただ一人、沈黙を破って自らの半生をつづった手記を発表していた、「死の灰を背負ってーー私の人生を変えた第五福竜丸」。

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1992年放送のNHKスペシャル「又七の海」より朗読北村和夫

閃光が見えてから2時間ぐらい。ふと気がつくと、雨の中に白い粉のようなものがついている。何だこりゃ。思ってるうちに粉はだんだん量が多くなった。やがて、雨はやみ、その白い粉だけになった。

みんなゴム長靴にゴムのズボン、上半身は白いシャツ一枚。船も人も風上に向かっての作業なので、粉は目や耳、鼻などに容赦なく入り、まとわりつく。目に入るとチクチクと痛くて目を開けていられない。

灰を被った時点では誰も口には出さなかったが、作業中にめまいがしたり縄を上げる頃には頭痛や吐き気、中には下痢をするものも何人かいた。一週間過ぎたころ、甲板長の川島さんが髪にクシを入れていて毛が抜けて来るのに気がついた。えっ?と手に手に自分の髪の毛を引っ張ってみる。抜ける。ほとんどの者が大なり小なり引っ張ると抜ける。久保山局長は白い灰に危険を感じていたのだ。水で身体を洗えと何度も言った。

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ピストルのお化けみたいなガイガーカウンターを俺たちの身体に近づけるとフライパンで豆でもいるような連続音がして、慌てて先生方は後ろに飛びのいた。

これは映画にでも出て来そうな放射能人間。爪を切られ、体中の毛はそり落とされた。俺たちの小便はアメリカに送られていると聞いた。

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 9月23日、無線局長の久保山愛吉さんが亡くなりました。

「お父ちゃん!」奥さんと三人の子どもたちが呼ぶ声が張り詰めた病室の空気を引き裂くように響いた。

遺体は7時間もかかって解剖された。命を取られた上に八つ裂きにされる。嫌だ。俺は嫌だよ。

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N : 被害は第五福竜丸だけではなかった。

延べ900隻を超える船から汚染が見つかり水産業は大きな打撃を受けた。

ビキニ空爆の半年後にはアメリカに対抗してソビエトが核実験。

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日本に降る雨の中からも放射性物質が検出されると放射能パニックが広がっていく。

(蛙注:懐中電灯のようなものは放射線量を測るガイガーカウンター

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広島、長崎に続く三度目の被曝。

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(蛙注:プラカードにあるMSAとは:1951 年,アメリカが制定した相互安全保障法。共産主義国家に軍事援助を与えることを目的とし,援助を受ける国は自国および自由世界の防衛力強化の義務を負う。)

原水爆禁止の訴えは国民3人の1人が署名する高まりを見せた。

署名運動は翌年、原水爆禁止世界大会へと発展。

ビキニ事件は核兵器反対運動の原点となっていく。

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一方、反米感情の高まりを恐れた日米の政府は解決を急いだ事件から10か月後、アメリカが7億2千万円の見舞金を日本に支払うことで合意。今後アメリカの責任は一切問われないという政治決着だった。

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大石さんたちには一人当たり200万円の見舞金が支払われることになった。

事件から1年2か月、東京の病院を退院、故郷に戻った。

しかし多額の見舞金を受け取ったことで大石さんたちは謂れのない痛みや偏見にさらされた。「お金の一部を拝借したい」「見舞金は寄付すべきだ」(蛙注:という手紙やはがきがたくさん届くように)

大石さんたち乗組員は被害者であるにもかかわらず沈黙を余儀なくされていった。そして、事件は急速に忘れ去られていく。

長女・佳子さん「みんなから白い目で見られて、一人でお金だけもらったって後ろ指差されて、いられなくなって雑踏の東京に紛れるように出てきただけですよね。いいことは何もないですよ。

自分ではどうしようもない自分が選んだ人生ではなくて、どうしようもない形で、あっちに行きこっちに行き、ここまで来ちゃったみたいな・・・

家でビキニ事件の話をしたことないですね。やっぱりそういうの知られると結婚するのも大変だったろうし、出来るとも思ってなかっただろうし。自分一人の問題じゃすまないだろうし、だからあんまり公にしたくなかっとこともあるし・・・」

N: 1959年、信子さんと結婚。

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手記「死の灰を背負って」より、朗読(北村和夫

家の中が明るく賑やかだった。そんな日々の中、お母ちゃんは身ごもった。みんな喜んでくれた。しかし俺の頭の中には忘れかけていた不安が急に蘇ってきた。被曝の影響は本当になくなったのだろうか。

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お産の日が近づき店から1キロぐらいの所にある病院に入院した。朝早く看護婦さんから電話だ。すぐ来るように。慌てて駆け付けた。良かった、子どもは男だろうか、女の子だろうか。

喜びの言葉を期待しながら看護室のドアを開けた。だが応対に出た看護婦さんの顔には笑顔がない。「お気の毒でした、死産です」。緩みかかっていた顔が動かなくなった。身体の中を何か重いものが抜けていった。

ベッドの前にそっと立って黙っていたら、お母ちゃんは分かっていたのか静かに振り向いた。言葉の代わりに掛け布団をそっと引っ張ってかけてやった。異常出産だった。何を考えているのか、ずっと泣いていたのだろう。すまない。頭の中をあれやこれや、また悪い想像が渦巻いた。

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死神は一人、また一人と仲間の命を奪いながら近づいてくる。「〇〇△△(聞き取り不能)居士」露木隆(当て字)さんのあの世での名前だ。俺にはその名前に馴染むことも理解することも納得することも出来ない。

4月29日、とうとう肝臓がんで59歳の生涯を閉じてしまった。「もう終わっちゃったことだけどなぁ~入院中に先生に聞いたことがあったっけよ。会食の席でニイ(漢字不明)さんが話しかけてきた。あの病気は水爆、死の灰とかいうのに関係あるのかね、と聞いたみたいだよ。私の口からそのことを言えない。先生はそう言ったけよ」

 山本正機関長も59歳で結腸がん、肺がん、肝臓がんを併発して皆の後を追った。

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山本さんへの弔辞

「山本さん、何を言ってももう山本さんは返事はしてくれない。一昨年、一番若い松田雄一さんが亡くなったとき、ポツンと山本さんは言った「いろいろと随分悩んだんだろう。誰にも言えない辛いことも沢山あったんだろう、可哀そうになぁ~」と、参列している俺の後ろで小さな声で独り言でつぶやいた言葉がはっきりと耳に残っている。  こうした人の心を思いやる山本さんが自分の死を目の前にして何を考え何を思ったことでしょうか。夜は眠れないと奥さんに言ったそうですね。たくさんたくさん、考えたことでしょう。「切腹を待つ武士の気持ちがわかる」と奥さんに言ったそうです。それなら私は聞きたい。「誰が切腹をしろと言ったのだ。何の罪で切腹をしなければならないのですか」。言い尽くせないままにお別れしなければなりません。

安らかにお眠りください。

                                大石又七

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大石さん「責任を取ってもらいたいとまでは言いませんが、責任があるのかないのか知りたいですその答えだけぐらいは知りたい。

やった側に責任はあるのかないのか。そいうことすら答えとして何も出ていないで来ちゃってますからね。どっちかっていうと無視されているから非常に不満ですよね。

何のための犠牲なのか。その辺のことも知らせてもらいたい

誰かのためになったのか、本当に無駄な犠牲だったのか

何か訳の分からない有耶無耶で消されてしまうような、そんな風に感じますがね

佳子さん「何か理不尽なものと、事件に対する、こう、一緒に乗ってた人たちの悔しい思いと、同僚たちが早く亡くなっていく、その悔しさ、無念さ、怒りと、多分、色んなものが父の中には混じっていたと思いますね。

やっぱり、話をすることで自分の気持ちを吐き出す、表に出すことが出来るようになって、言葉にすることが出来るようになって、少しずつあの事件を改めて捉え直すことが出来るようになったと思うし・・・」

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N :大石さんが自らの体験を公にする直接のきっかけになったのは、ある中学校からの依頼だった。代表の生徒が電話で、ぜひ体験した本人から聞きたいと渋る大石さんを口説き落とした。

手記朗読・北村和夫

俺は時々思う。既成概念にどっぷり浸かって固まってしまっている大人たちはダメ真っ白で生まれてくるこれからの子どもたちに新しい未来を託すしかない。

 約束の日に夢の島の展示館に行くと男女3人ずつの生徒たちが担任の先生と一緒に来ていた。中に一人目の見えない高橋しのぶさんという女子生徒がいた。

後で展示されている船の中に入り、船室、魚巣など俺は指を差しながらいろいろと説明したが、その子も俺の後から手を引いてもらいながらついてきて一生懸命耳を傾けていた。俺はなぜかその子のことが気になった。(つづく)

(番組スタッフ)「高橋さんが書いた感想文です」

高橋しのぶさん「何か書いたと思います。点字なんですけど」

       「よく、よく、ありましたね~40年前です」

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(つづき)

俺はなぜかあの子のことが気になった。俺の言ったことの半分もあの子は分からなかったのではないか。その時、ふとあの子の手の中に入るぐらいの船があれば、話の中の名前や形が分かるかもしれないと思いついた。大して深く考えたわけでもなく俺は船を作り始めた

(高橋さんは自分が40年前に書いた点字の感想文を声を出して読み始める:)

「私は模型船に手で触っているだけだが、新米の私にベテランの乗組員の大石さんが船の中をあちこちと案内しながらいろいろと教えてくれて、これから航海に出ようとしているような楽しい気持ちにちょっとなりかけた」

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「その時この船は”死の灰”を浴びたんだってことを思い出した。心で受け取った小さな第五福竜丸は学校だけじゃなくて私の心にも置いて、大石さんを思い出すようにしたい。」

高橋さん「よくとってありましたね、40年。

大石さんの心の働きが作り出したと思うんです。言われたわけじゃなくて大石さんの心の中で私のために作りたいって思いが実際の行動を生み出して下さったことだと思うんで、心が作った第五福竜丸を心で受け取った。大石さんの心を受け止めるという思いで、こういう風に書いたのかなって思います」

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N :高橋しのぶさんは、(都立久我山青光学園の)特別支援学級の英語教師として教室にいました。

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高橋さん「私が視覚障害があって、まぁ自分の力ではどうにもできないと言った条件を持って生きていて、中身は違うんですけど大石さんと私は一寸共感できるものがあったなぁ…て。人間は一杯いても、その中で自分と重ね合わせられる人がいないことが孤独かな

黙っていればそれで済むかもしれないけれど、黙っていてはいけないって思いがあって、それを実行できたっていうところの強い方というか、心の中に強さを持った方だったんだって思います」

N :語り始めた大石さんは59歳で肝臓がん、その後も肺の腫瘍などの病気に見舞われた。それでも語ることを止めなかった。

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長女の佳子さん「今度は自分がやりたいと思って動いてきた状況です。

講演活動も別にやらなくてもいいけど自分でやろうと思って動くし、そこで又いろんな人とお会いして色んなことに気づかされて、その中で自分が事件に関して知らなかったことを勉強というか、一生懸命調べたりとかお話を聞いたりとか、そいうこともするようになって、その辺の知識を深めて言った部分もあるし、やっぱり人との関り合いのなかで、人嫌いが変わってったことが大きくありますね。柔らかくなった

すごい厳しい人だったんですよ。厳しいっていうのは、人に対してバンバン言うという、そういう厳しさではなくて、(さわ)れないような鋭い部分っていうか、そこからは立ち入れないよね、という、そういうピリピリした部分があって、家に帰っても落ち着けるような場所でなくて、一寸、そういう部分が色んな人との関り合いの中で柔らかくなった

                         前半・終り(後半につづく)

 

 

◎ビキニで死の灰を浴びた船は他にも・・・ 

ビキニ事件 船員たちが62年目に国を訴えた – 全日本民医連 (min-iren.gr.jp)