故郷の味の羊羹と母の死に支度

◎母の葬儀を終え、昨日は母が入居していたホームへ出かけて衣類や布団、小さな家具類を引き取ってきました。その時は分からなかった母の想いを母が亡くなった今思い返してみるとそういう事だったの…ということが解ってきます。その事を記してみたいと思います。

あれは5月の29日(月)のことでした。この日のことは6月2日のブログに書いていましたので、読み返しながら思い出しました。午前中にケアマネージャーのSさんから電話があり、血中酸素濃度が80とか70で酸素マスクをしているという連絡があり、午後、車でホームの母を見舞いました。

母は酸素マスクをつけて、苦しそうでしたが、私たち二人が視野に入ると、「二人には本当にお世話になってありがとう」と言いながら、手を合わせて拝みました。突然の思いがけない仕草に、私たちはビックリして戸惑ってしまいました。でも、今から考えてみると、私たち二人に残した言葉はこれが最後でした。真実、二人には世話になったというお礼の最後の言葉だったのでした。

それ以後の母のこの世で果たすべき課題はお世話になった方々への感謝とお礼をどう伝えるかという事だったようです。大正10年生まれの母は大正デモクラシーの申し子のような女性だったと思います。自立した女性であることが母のモットーであり、自分のことは自分で、というのが母の教えだったと思います。だから、自分のことが自分で出来なくなって、誰かのお世話になったときは、ひたすら感謝する、ということになるのだと思います。

母の最後のお別れに来てくださった方で、こんな話をして下さった方がいました。「お風呂に入れなくなってから毎日背中を拭いてあげると『若い方にこんなお婆ちゃんの背中を拭かせて悪いわね~』と言って、拭き終わるとありがとうと手を合わせて下さるんですよ」と。母らしいなと思って聞きました。

ところで、手を合わせて拝まれた私たちに、その日、母からのリクエストがありました。ふるさとの味、山代(温泉)の羊羹を取り寄せてほしい。自分も食べたいけれど、お世話になっているスタッフの皆さんに味わって欲しいということでした。そして、ブログには書かなかったのですが、この時渡された俳句、母はこれが『最後の俳句』と言いました。その時は『最後』とは思えず、その言葉を省いてブログに記しました。その時の最初の句に「薄らぬ記憶」という言葉があって、言葉遣いを一寸確かめたいと思いつつそのままになってしまいました。

この日、手を合わされたのがショックで、とにかく急がないといけないと思って、以前から頼まれていた箕面に住んでいる甥(私の従弟)の孫の誕生祝いの積み木を帰りに千里阪急に寄って買って、翌日届けました。羊羹の方は、その日、夫の実家の義弟に頼んで31日には受け取りましたので翌日6月1日ホームへ持って行きました。母は酸素マスクが離せない状態ですが意識はシッカリしています。平たい板羊羹の「夜の梅」と「夜の梅」の半分くらいの大きさで細長くて上品な黒砂糖の味の「錬(れん)の羊羹」の2種類を送ってもらいました。独特の味の「錬の羊羹」を開けて爪楊枝でひとかけ削って母の口元へ。「懐かしい味」と言いながらおいしそうに3,4回分を口にしました。翌日ケアマネさんから夜少し戻されましたと報告があり、原因は羊羹だと思いましたが、あれで良かったと。

さて、スタッフの皆さんへのかなり重い羊羹、いかにして渡すかが問題です。お菓子類のお礼はお断りしますと注意書きに書いたものを入所時に貰っています。母にそのことを伝えると、「そうなの、困ったね、じゃ、いつも親切にしてもらってる方がいるのでその人に」と言ってると、その方が来られて母が渡しました。私たちも、じゃ、今日は帰るねと外に出ました。

エレベーター手前の受付のところで、その方が待っておられました。「受け取れないのでお気持ちだけ…」と紙袋ごと返されました。迷惑をかけてもいけないので受け取って、さぁ、どうしようと思いながら、エレベーターを降りて、渡されているカードで鍵を解除してホールに出ると、お一人、ケアマネのSさんがおられました。ラッキー!

「母がスタッフの皆さんに故郷の味を是非味わってほしいと言って取り寄せた羊羹なんです。是非皆さんで・・・」と言いました。「お母さまがそんなに仰っておられるんでしたら、皆でいただかせていただきます」と言われ、受け取ってもらえました。嬉しかったです!

翌日、ホームの母を訪ねたとき、受付から母の部屋までの間、会う人ごとに、羊羹、美味しかったです、ありがとうと言われました。中には、故郷って箕面じゃなかったんですね、と言われたり。部屋を訪ねると、母も皆さんからお礼を言われて羊羹が皆さんに届いたことが分かり喜んでいました。

6月11日、市の合唱祭の日、夫のサークルの出番も終え、遅い昼食も終えて、4時過ぎ、ケアマネさんから電話がありました。母が家族に…と口ごもっておられるので「会いたいと言ってるのですか?」とこちらから聞くと「そうだ」ということで駆け付けました。母の用件は、あれからずっとベッドの上で寝たきりでお世話になっている、このホームの全部と言えるほど沢山のスタッフの方々に何から何までお世話になっているので家族の者からしっかりお礼を言ってほしいということでした。

丁度夕食時になって、私は初めて母の食事の介助をすることに。お粥とおつゆとおかずをスプーンで口元に持って行きましたが、それぞれ3分の1ほど食べ、後はデザートの刻んだキーウィが美味しいとお皿を持って自分で食べたのが最後でした。それからは食べなくなったと聞いています。帰り際に、羊羹を手配してくれた山代の義弟にお礼にメロンを送ってほしいと言われ、翌日コーヒー豆を買うついでに千里阪急から送ることに。

11日のこの日、最後に家族に伝えたいことがあるのだろうと思って電話で呼んで下さったのですが、受付で「しっかりお礼を言うように」と言われたことをお話したら、「えーっ、そんな、それは悪かったですねー」と言われました。その時、「未だ未だだわ」と漏らされた言葉は、「そろそろ近いけれど」とも受け取れます。確かに、その時、私はそんな風に受け止めながら、いやいや母のことだから又奇跡が起こって、あの時は…ということになる、きっとそうなると思いたかったのでしょう。

この日が母と言葉を交わした最後になりました。これで母は思い残すことが無くなったようでした。29日に既に死を覚悟して私たちにありがとうを伝え、会いたい人は?と訊ねても「もういい」ということでしたので、残された時間を一番お世話になった方たちへ、私たち夫婦の力を借りて、感謝とお礼を伝えるのに力を尽くし切ったようでした。

この日以降、死を迎える15日まで、ケアマネさんから毎日母の様子の報告があり、それを毎日妹に伝えていました。呼びかけには反応していたようですが、言葉は無かったようです。振り返って見れば、29日、私たちと視線を合わせて、二人には本当にお世話になってありがとうと言いながら手を合わせてくれたのが最後。それから亡くなる15日まで、母は死ぬための準備、死に支度をしていたのだと思います。皆さんにお礼を言って、それが伝わったことを知って安心して逝くことが出来たのだと思います。私は母が心残りのないようにという一心でしたが、そうやっているうちに私自身母の死を受け止める準備、支度が出来ていたのだと今になって気づきました。