小学校の恩師を施設に訪ねて・・・

(ヨーガの帰り道。菜の花畑の向こうの田畑が更地になって工事が始まりそう)

◎月初め、桜通りに自宅がある小学校の同窓生のT君から電話があり、施設に入所されている先生を訪ねるので一緒に行かないか、26日1時半、O君の車でピックアップするとのこと。入所の話も知らなかったので、驚きました。

寒い月曜日の1時半、支度をして玄関で待っていましたが電話が鳴って、「あたりをうろうろしている、たどり着けないで桜並木へ引き返している、どこ?」とのこと。

「じゃ、私が桜並木まで出ますね」と返事して速足で急ぎました。真っ白な新車を運転するO君。10年ほど前まで、西光寺の天狗祭りのときは、羽織袴で一団を率いてお札を配り、お布施を受け取る大役を務めていました。そのO君でも道に迷う?と言ったら、目印がないからと。

そうなんです、目印の桜が切り倒されてから、我が家へ来る親戚の者たちも何度も筋を間違ってたどりつけないとSOSの電話がかかってきました。一筋間違うと同じような住宅街なので、南北の縦に走る桜並木に戻らないといけません。戻ったところで、東西に交差する筋道が8本ほどあるので、なかなかです。そうか、目印の桜が無くなった所為か・・・とわかったところで、先生のことです。

T君の話では、男友達7,8人、ドクターストップでお酒を飲めなくなったM君を囲んでモンキーヒルでお茶会をしているそうです。そのメンバーでゴルフに行ったり。そのM君が、先生と電話や手紙で連絡を取っているとか。先生が豊中市服部緑地の高齢者施設に入所されているので、お見舞いに行ってあげて欲しいということになり、女性で市内に住んでいる同窓生は私しかいないというので・・・ということらしい。

(枝垂れ梅も未だ何とか咲き残りが…)

ナビの案内でクネクネとどこを走っているか分からないほど入り組んだ路地道を辿って着いた所は、中学校の前にある介護付き老人ホームでした。二人が用意されていたプレゼントの袋を持って車を降り、3人で受付を済ませました。

長い廊下の一番奥に先生の名前がある部屋があって、中へ。奥に車椅子の先生が。どかどか3人で入って、小さい体の私が最後になって、先生と目が合って、先生が両手を挙げられたので、思わずハイ・タッチで応じました。お久しぶり~お元気ですか~!

コロナの前の同窓会以来なので、6,7年は会っていないかも。部屋にはパイプの丸椅子が3客用意してあり、それに座りながらのお話です。その前にお茶会男子メンバーが用意したプレゼントをお二人から。O君の奥さんが見立てたというスカーフとハンカチ2枚。そして、イカリスーパーで買ったという「あまおう」の苺パック2ケース入りの段ボールが2箱。ベッドの上で私が開封して、スカーフとハンカチは先生に、イチゴはお見せして冷蔵庫に。包装紙や段ボールは、ベッドの横に置いてあった空袋の一つを戴いて、帰りに持ち帰れるよう畳んで片付けてしまいました。

さて、先生とのお話です。先生は私たちが4年生から3年間持ち上がりの担任でした。当時、池田に大阪学芸大学の教育学部があって、女性は4年制に進む人は少なく、先生も学芸大の短大を出て、初めて学校の先生になって担任されたのが、私達ろ組の50人ほどの生徒でした。い組の男先生(先生の一回り上の年齢で母と同い年、シベリア=抑留=帰りでした)と一緒に3年間ろ組の担任ということは、小学校生活の半分を先生のお世話になって過ごしたことになります。

(角のKさんの垣根のツルバラ)

4人で小学校時代の思い出話がスタート。新任先生だった先生の思い出話は、当時、子どもだった私たちの知らないこともあって、初めて聞く話がありました。新任の先生が5,6年の高学年を担任することは異例で、T君とM君のお母さんが、校長先生に会って直談判で頼んで実現したのだとか。「普通は、担任をベテランに変えてくれと言いに行くところなのに」と先生が。そんなことがあったの…と初めて聞く話でした。

雪が降ったら体操の時間は校庭に出て雪合戦。裏の山に登りに行ったり、秋になったら、滝道を滝まで歩いて、サクラやモミジ、イチョウの落葉を拾いながら帰って、次は図画工作の時間だから、落葉を使って作品を作ろう・・・だったり。今だったら新聞沙汰になるような授業をしていたと先生も。

(我が家の北側のツルバラにも花が…)

私の忘れられない授業は、田圃の稲の花や稲刈りや脱穀機を見に行った課外授業でした。農繁期は農家の子どもは手伝いがあるからと、新稲(にいな)の人たちは学校をお休みしても良いことになっていました。

給食はまだ始まっていなくて、お昼はお弁当。低学年の頃、黄色いたくあんを卵だと言われて、お弁当箱の蓋を開けられなくなって隠しながら食べたこともあったっけ。冬の暖房は石炭ストーブ。金網で覆ってあって、これは6年生の頃のこと、お昼前の4時間目は金網の上にお弁当箱を置いて温めるため、いろんな匂いが混ざって漂うこともありました。DDTも検便もBCGも脱脂粉乳もありました。昭和19年、20年生まれの10歳から12歳までのこと。戦後10年前後のことでした。

先生が車椅子生活になる切っ掛けの病気のことや、手の震えのことなど、お聞きして、30分のところ40分ほどして、いよいよ引き上げることに。T君が、電話番号の入った名簿のコピーを先生に渡して、記念写真をスマホで撮り合って、いよいよ退出することに。玄関まで見送るからと先生も一緒に。寒い日でしたので、ここでと言うのに、先生はドアのすぐ近くまで来て、私達も手を振ってお別れしました。

今回は、男同士の喫茶店でのお茶飲み会で決まったお見舞いの企画に、近場在住の私を呼んでいただいて、先生に会わせて頂いた良き日でした。帰りの車の中で、あの人、この人の近況を聞いて、いいお話も悪いお話もあって、ひしひしと年齢を自覚させられました。

(新しい芽も出はじめています)

今朝は、ヨーガで、小学校の同窓仲間のメンバーのMさんに、報告したのですが、神奈川に住んでいるHiちゃんが認知症だというのを聞いて、あんなにしっかりした方が~とビックリでした。コロナの影響で高齢者に認知症が増えたと老人会のお世話をしているNさんが言っていましたが、コロナの所為で、毎年集まっていた小学校の同窓会も、ここ数年なくて、今年、4月17日開催の案内がつい先日届いたところでした。

どんなに生きても、あと20年といよいよ限られてきました。だからといって、どうすることもないのですが、1日1日を今まで通り、大切に、楽しく明るく過ごせたらいいな~と思い直しています。