M君を見送って

◎数日前、元市会議員のU君からM君が亡くなったというお知らせが電話で。4月17日の小学校の同窓会が最後になりました。その後、今年になって小学校の恩師の女先生を施設にお訪ねするとき、声をかけて車で連れて行ってくれたO君から電話があって、4日の千里会館での葬儀に、当日、桜並木、9時半にピックアップということに。

4日、時間通りに車が来て、助手席にはTくんが。「左に回って」と言われて車のドアを開けると後部座席にY君が。運転しているO君は前夜のお通夜の様子を伝えてくれました。「凄い人数でサスガやった」と。御堂筋法律事務所の弁護士で、誕生日が7月だというので、80歳にあと一月の79歳。政界、財界、法曹界・・・と人脈も広く、U君の話ではピンからキリまでの付き合いがあったそうです。

東の方にある自宅で、奥さんが亡くなられる前に一度パーティーのようなものがあって呼ばれたことがあります。そこで、小学校の二クラスの同窓生が10数名一緒になったことがありました。その後一人になられてからも、カナダのSさんが帰国中、何かの折に、またご自宅に10数名集まったことも。15年程前だったか、難病で生死の境を何度か行き来したとのことでした。そういえば、大阪の病院へお見舞いに行ったこともありました。その後は、年に一度の小学校の同窓会で一緒になり、二次会では隣に座っていろいろお話を聞いたりしていました。

千里会館の一番広い会場の前の方に、先に到着していたU君が座っていたので、私達4人もその横に。私は正面に飾ってある遺影に向かって右端に座りました。遺影の写真はついこの間同窓会で会った時のままのお顔で、棺の中のM君はとても安らかなお顔でした。葬儀が進んでお経があげられている間、私は、椅子に座って遺影を見ながら、M君との関りを思い出していました。

小学校の高学年の時の放課後、M君たちは野球、私たちは鉄棒で遊んでいて、男の子がドロップとか、カーブとか、言ってるのが面白くて囃し立てたことがあったっけ。それから中学、高校。そうそう、男女2:2で、それぞれの自宅を訪ねたことがありました。M君宅では、2階に上げてもらって、当時ボランティアで忙しくしておられたお母さんが不在、お寿司をとって、お父さんがお吸い物を出してくださいました。卵が流してあって、それはそれは美味しくって、家に帰って母に、M君のお父さんがね・・・と報告した覚えがあります。今考えると、当時我が家で仕出しを取ったことはなかったのでした。

中学3年生ぐらいの時の期末試験の終わった教室前の廊下でのこと。M君が担任の先生に『悔しい~っ!』と言ってました。聞けば98点。へぇ~90点以上だったら上等なのに、98点であんなに悔しがるんだったら全部百点じゃなきゃ満足じゃないんだと驚きました。卒業後の進学先は、当時、北野高校は校区外だったので、元男子校の豊中高校。私は母の念願だった引っ越し前の岡町にある元十四高女の桜塚高校。もう一人は池田高校でした。4人の持ち回りの集まりは続いていましたので、男性二人の進学した豊中高校の様子を聞いてビックリしました。豊高では、3年間の教科書を2年生までで全部終わって、3年生は大学受験のための勉強。当時、進学塾は無かったので、学校が大学受験勉強を担って競い合っていました。それを聞いていたので、私はそんな学校の受験生と競っても到底無理と一期校失敗でも諦めがつきました。

大学は、M君は京都大学法学部現役合格。私は二期校の神戸市外国語大学。一度、箕面から電車に乗って、石橋駅でM君に会ったことがあります。大学行ったら周りはみんな「民青」ばっかり、共産党ばっかりで日本はどうなんねんと言われました。当時、阪急六甲にあった私が通っていた大学には「民青」も「社青同」もあるけど・・・とか思いながら黙っていました。その後、M君は在学中に司法試験に受かったという話を聞きました。学生でこの試験に受かるのは滅多にないことなんだそうです。やっぱり偉いんや~と。卒業後、私は、当時地下鉄の淀屋橋駅のすぐ近くにあった銀行の外為にいて窓口業務もしていました。お昼休みに、大阪地方裁判所に居たM君の案内で、私と同期の職場仲間と濃い緑の事務服を着たまま法廷見学をさせてもらったことがありました。窃盗犯の裁判だったと思います。傍聴席は私たちも数えて10人足らずの人たちがいただけでした。

私が結婚した頃は、M君は裁判官になって仙台から東京。今の上皇様が皇太子の頃、テニスのお相手を務めたという話も聞きました。そういえば、結婚して数か月後の夏休みの初日、夫を紹介するつもりだったのか、東京から帰省するM君と沼津駅で会うことにしていました。ところが、原に住んでいた義兄が通り魔事件の犠牲になって、どうやって連絡したのか覚えていませんが、会うことは出来なくなってしまいました。

その後、長男を亡くした夫の父親から「二人も静岡に取られるわけにはいかない」と呼び戻されて、加賀市、夫は転職して実家を末の弟に任せて、神戸市を経て、箕面にくることに。後から分かったことですが、M君も親から呼び戻されて30歳で裁判官をやめて大阪で弁護士に。

それからは、小学校の同窓会がある度に会っています。いつの頃か忘れましたが、一度こんなことを言われたことも。旧姓で「○○さん、どないしてんねん? 弱いモンの味方か」と。M君が「自分は強い者の味方だ」と言ったことはなかったと思います。U君に言わせると「Mの付き合いは、それこそピンからキリまで」で、「キリ」にはヤクザも含むということでしたので、社会のピンからキリまで分け隔てなく付き合って、仕事もピンキリで分け隔てなかったのではないか…と想像しています。

私がピアニストのブーニンに夢中だった頃、プレゼントだと言ってショパンのピアノ協奏曲1番のテープを押し付けたことがありましたが「クラシックは分からん」と言われました。ところが、ある時から、東京のサントリーホールと大阪のシンフォニーホールの定期演奏会のシートが取ってあるとか・・・「あの頃は分からんかったけど、今は楽しめてる」とか言われて驚いたことも。

お焼香の順番が回って来て前に出て、遺族席へお辞儀をしました。お茶の先生と長女さん(長男と同い年)と顔が合いました。お見送りで建物の外に出て、遺族の方々が出て来られるのを待っていた時、先生から「びっくりしたでしょ」と声をかけてくださって、この時初めて涙が溢れました。このお茶の先生が、8つ年上の一番上のお姉さん。次のお姉さんと、早世された長男さんと末っ子次男のM君と4人兄弟姉妹で、M君のお母さんは、母より1,2年前に105歳で亡くなられた母の尊敬する大先輩でした。

そういえば、こんなことも。夫が転職して最初の会社の役員会である決定をするのに、法律的なことを誰に聞けばよいか困っていました。弁護士の人を知ってるけど…と言ってM君を紹介しました。普段は立場の違う経営者側の相談に乗っているはずのM君は、何も言わずに夫の相談に乗ってくれました。この頃、「僕と話すると1時間で1万5千円」とか同窓会で聞いていたので、要らないと言われてはいたのですが、お気に入りのニッカウヰスキーをお礼に持って行ったことがありました。

小学校時代から、今まで、その都度、何かと連絡を取ったり、お世話になったりの70年ほどだった、と改めて思いました。いつも、色んなお願いを聞いてもらって優しかったんだなぁ~と遺影を見ながら思いました。棺のお顔は微かに微笑んでいて満足気なお顔でした。難病を抱えておられたので最近は会えばいつも「死ぬ準備は出来ている」と言っておられました。「家は処分して今は自分の家ではなくて借家や、車も手放して、今は自分の車ではなく借り物。いつ死んでも、あと困らんようにしてある」と何年か前の同窓会の後の喫茶店で聞かされました。6月28日、同窓仲間とゴルフに行く予定があっての急死だったそうですが、私は、かねて覚悟の死を迎えられた…と受け止めました。M君、お別れです。有難う。さようなら。

 

(写真は、我が家の庭の花々と最後の二枚は芦原池のクチナシと池から見た箕面の山)