古稀記念合同同窓会を終えて


お天気続きの快晴の日曜日、いよいよ一年以上も前に持ち上がった一中・二中合同同窓会の当日です。前日、2時、萱野小出身のMさんが車で我が家の前に。翌日の同窓会の二次会で持ち込むおつまみ類の買い出しです。車で乗り付けて買うようなお店を私は知らないので、Mさんにお任せで、最初に山麓線沿いの酒店で袋に入ったおかき類やのしイカとか柿の種などをごっそり。次に国道の171沿いのお店へ。ここでは、個包装のケーキやお菓子類をゴッソリ、でも2袋で460円とか…安い! これで7,80人分、行けるでしょう。
帰り、送ってもらったついでに、「入って、コーヒーでも」と家の中へ。MさんはカナダのSさんが大阪に帰って来られた時の宿を提供しておられます。そういえば、私たち3人はクラスは一緒にならなかったけど、高校は一緒でした。Mさんとも、今度の同窓会の世話役を通して初めて親しくお話をすることに。長女さんで、ご両親はすでになく、敷地内に弟さんが家を建て、妹さんたちも近くに住んでおられるとか。独り暮らしでもすぐ近くに身内がいるので安心ということでした。

丁度、梅田のデパートから帰った母が、「家の前に車が止めてあったので・・・」と、お菓子を持ってやってきました。朝コーヒータイムで報告してあったので「娘がお世話になっております」とご挨拶です。車の中で、来週は両親と一緒に新幹線で東京近くまで行くと話していましたので、Mさんが、「聞きましたよ〜東京まで、お元気ですね〜」と。「そうなのよ、99歳のお爺さんを連れて行くんですよ〜」と母も。
Mさんは、家に帰ったら、翌日先生を乗せることになるかもしれないので、車を洗って田圃へ出ると。畑で野菜を育てているそうです。両親お二人ガンだったので、身体のために食事は気を付けて、自分で作った野菜をたっぷり食べるようにしているとか。「じゃ、明日!」と私。「明日が終わったら一寸ほっとするね〜」とMさんも言いながら、4時少し前帰られました。
夫は前日の土曜日、代表で母の実家の法事に出かけて、帰りには夫の実家により、翌日、両親の分骨をもらって帰ることになっています。そのついでに、親友と荒島岳に一泊の予定です。喪服を着て、山の荷物の用意をして車で出かけました。息子は、本やCDやレコードを段ボール箱5つほどに詰めて着払いで土曜日着で沖縄へ送ってほしいと言って、私が出る前に家を出ました。難波でお土産を買って関空からピーチで沖縄、明日からまた仕事です。

さて、同窓会は12時スタートですが、11時集合なので10時半ごろ自転車で出かけました。卒業の時のアルバム2冊が結構重い。観光ホテル(スパーガーデン・大江戸温泉物語)の2階会場前ではすでに10時半から受付を始める一中さんたちが受付を始めていました。スタート前にお風呂のサービスを利用できるという案内を同窓会のお知らせに入れておられたからです。二中は印刷に間に合わず、終わってからの案内になりました。(写真は建物のある高台まで一気に登る2台のエレベーター塔とその麓に至る元河鹿荘向い)

受付で、若々しい先生に、お名前は?どこのクラス?と問いかけて、大笑いになりました。先生と我々で年齢差10〜14歳ほど。健康状態や暮らし方で60過ぎると年齢差はどんどん縮んだり開いたりです。55年ぶりに会う方でも、名前を聞いてしばらく話しているうちに面影が甦ってきます。これも不思議。中学時代、クラスも一緒になったことなく全く知らなかったはずの人でも同窓ということで今の趣味や病気の話で盛り上がったり?これも不思議。

担任を持たずに社会科を教えて下さった先生は、83歳と言われましたが、受付で同窓生と間違った先生です。挨拶の中で、今は奥さんの介護と主夫業で忙しくしているけれど、77歳でハローワークで仕事を探した話をしてくださいました。年齢でまず撥ねられる、面接まで行くことがなかなかない。それでもくじけず探していると、面接のチャンスが巡って来て、年齢ではなく本当に面接で選ぶところがあった。それがガラシャ病院。賄い・皿洗いの仕事を5年ほど続けて、辞めないでほしいとも言われたけれど・・・奥さんのこともあって。70歳や71歳はまだまだ若い、というお話でした。
もう一人の先生は、君たちは1944年と1945年の生まれ。戦後史がそのまま君たちの人生。色々あっただろう、と。この先生も85歳ですが若々しくてお元気そう。最後に少し遅刻してこられて皆で心配した先生が一番若くて81歳、ちょうど10歳年上の若い英語の先生でした。豊野町から出て来られて、エレベーターが開かないのでジグザグのだらだら坂を汗をかきながら少し不自由な脚で歩いてきたとのこと。畑仕事もされていますが、聞いてみると村起こしに精を出されているご様子です。お元気だから顔を出して戴けるのですが、さすが、先生、私たちの先を生きて、とても良いお手本です。


同じクラスのテーブルで横に座った、尚ちゃんと呼んでいたSくんには、「もうちょっと早くしてほしかったな〜」と言われました。私も、戻ってくる葉書が体調の不良とか耳が聞こえなくなった足が悪くてというのを読んで、「確かに、10年前、還暦の時にやれば良かったと思ったわ」と。彼は、もうすぐ仕事を辞めるつもりだけど趣味がないのでやることを探しているというので、「ネットで一中さんのホームページ見たって言ってたから、二中のHPを作ってよ」と言ってみました。
二次会に移ってからは、K君と話しました。K君からも、自分らばっかりで忙しい思いをしたらアカンで、何でも言ってや、出来るから」「私、ワープロは出来るけどエクセルが出来ないので、じゃ、名簿造りやいろいろ次回は当てにするからね。」と、有難いことです。このK君は、北小学校で2年生まで一緒で、その後、地域ごと生徒たちが箕面小学校に移って4年、二中でまた一緒になりました。自分でも言ってましたが有名ないたずらっ子のいじめっ子でした。女の子はみんな被害者だったと思います。それが、55年経って優しいことを言ってくれたり、知識を活かして隣町のどこぞの週3日の仕事をしてお小遣いを稼いで、年金他収入は全部奥さんまかせの悠々自適、ゴルフ仲間とゴルフをしたり、あのゴンタさんがね〜です。
「親泣かせやった」と自分でも認めるくらいで、55年ぶりに会った小学校の女性たちから、いじめられた〜と又言われたとか。それが、”人の話はウンウンと聞いてやらなあかんねん”なんて言うんですから、それに、「俺らの時代は、まだ先生は聖職で尊敬されてた、今はアカン、親がすぐ訴えたりして先生も気の毒や」なんて…ビックリです。左横の陶芸をやってるFさんが、「あの頃先生によう叩かれた。一度何人も並ばされて順番にビンタされたことがあった」「僕は悪いことは集団でやったりせえへん。要領がええから叩かれたことない。単独行動しかせえへん」とSくん。「確かにハシカイ子やった」と私。「はしかい」というのは「気が利く」とか「悪知恵が働く」という意味ですが、方言かな。


自由に座って好き勝手に話し合う二次会もお開きに。支払いの話になって、立ったまま話していてもという事で、一度打ち合わせで使ったことのあるフリールームへ移ることに。二中分のお支払いを何とか済ませて、”一中さんが声を掛けて下さったので二中の同窓会が出来ました。先生やたくさんの方に喜んでもらえて本当に良かったです”とお礼を言いました。11月末に決まった合同反省会の前に、二中の幹事だけで、集まろうという事に。一中さんのやり方では赤字になることは判っていましたが、今回は、こちらの言い分を通すことは無理なので、幹事の負担は覚悟していました。次回は、二中だけで赤字にならないように出来ますので、今なら負担も大丈夫でしょう。これからまだ写真代と送料が出て、負担額が決まります。写真が出来たころ集まることに。
東京や千葉からも出席されていました。待ってたのに、なかなか声がかからず、本当に嬉しかったと何人もの方から言われました。手伝うよと言ってくれている人もいます。高齢者になって、子育て孫守りも終わり親も見送って、これから淋しくなるという人もいますので、同窓会はこれからが本番という考え方もできるのでは…と思いました。

「出席」のお返事を真っ先に戴いたのに、間際に、今回はドクターストップでやむなく欠席というお葉書を下さった先生もおられます。次回が決まったら是非その時というお返事も出してあります。この分では、どうも続けて良さそうな雰囲気。今度世話役で集まった時には、赤字だけど次回もやろうという話になりそうです。
85歳のN先生。「どうや元気にしてるか」と、「先生、この間2年生の通知表が出てきて、コメント欄に先生がびっしり書いてくださっていて…母が、他の先生は書いてはらへんのに偉いね〜と感心してました。」「お母さん、元気!?」「はい、父も99歳ですけど、二人元気にしてます」「へ〜そうかいな〜、負けてられへんな〜、一度会いたいな〜」「是非!!」と。この先生は3年間ソフトボールの監督先生で、大阪府下、創部3年でベスト8、日生球場まで連れて行っていただいたので、私にも特別の先生です。先生もあいさつの中で、「当時30歳でやることはやった」と仰っていました。クラブ指導のこととは別のことだと思いますが、立派な先生でした。当時のピッチャー、キャッチャー、サード、ショートの私の4人がそれぞれ個別にいろいろ話したのですが、先生を囲んで写真を撮れば良かったと今頃。


もうお一人、77歳のハローワークのお話をされた先生が、二次会に移るとき、集合写真を撮った後だったかに、「〇〇(旧姓)さんが言ったことで覚えてることがある。宮本先生、角ばった立派な字を書いてはったやろ。そのあと、僕が字を書いたとき、君が言った言葉。こう言うたんや、”先生の字見たらホッとする”と…」「そんな事、私が言ったんですか? 覚えてない、へぇ〜そうだったんですか」。担任の先生ではなかったし、そんなことがあったとは全く覚えていないことでした。そんなことが先生の記憶に残っているなんて…不思議です。他のテーブルの方でお話しできなかった方もいますので、何年か先の次回の同窓会が今から楽しみです。