八ヶ岳高原音楽堂と「幸せな田中さん」と老人の遺言「憲法前文」

◎我が家の米騒動、金曜日の生協の集配日、前回の注文書の控えを残していなかったのですが、5キロ入りの米袋、それも高知の新米が届きました。今回又5キロ注文していますので来週もう5キロが手に入ります。その前に、水曜日、京都で会った甥夫婦のお土産の静岡のお菓子と缶入りの煎茶のおすそ分けを翌日コロナのお見舞いがてらSさん宅に届けに行った時、ウチは1日お米1合しか炊かないからとビニール袋入れた6キロのお米を頂きました。我が家は3人で1日2合炊いています。お米は頂くわけにいかないから買わせてと言ったのですが、物々交換でいいからと、お土産と交換で戴いてきました。これで我が家のお米の心配は解消です。

23日金曜日の朝日新聞の夕刊、大竹しのぶさんが「まあ いいか」と題するコラムで「八ヶ岳の美しい音楽堂で」という記事を書いておられます。

大竹さんはピアニスト、スタニスラフ・ブーニンさんが10年の空白後のリハビリを経て再起のコンサートを再開したことを取り上げたNHKのドキュメンタリー番組でこの音楽堂を知り、「彼の音や想いをすべて受け入れるそれは、まるで神さまが宿る教会のようだった。そう思ったら矢も盾もたまらず連絡を取る。」

そして、大竹さんは「先日、なんと、そこでコンサートを開いたのです。夢は叶うものなんだ!」「あっという間の90分が過ぎ、夢のような時間が終わる。」「錚々たる楽家が観客を幸せにした音楽堂。…私の心はまっさらになり、明日へのエネルギーをチャージすることができた。そう、ブーニンのように、前に進もう。」とコラムの記事を結んでいます。

下の写真は、ブーニンの音楽堂でのリサイタルを取り上げたNHKの番組から。

ここの音楽堂で、私もブーニンのピアノを聴いたことがあります。建物自体が楽器のような感じがする小さな建物。舞台奥もガラスで外の景色が見えるようになっています。フロアは平らなので、後ろの席になると舞台は少し見えにくくなります。大阪からは一泊しないといけないので、ブーニン亡命の年に知り合ったブーニンと同い年のIさんと同行でした。1990年代、今から30年ほど前のことです。

八ヶ岳ブーニンと言えば、思い出すのは武満徹さんのエッセイです。作曲家の武満徹さんも八ヶ岳ブーニンを聴いておられて、当時のブームを嘆いた文章を残しておられますが、ピアノの演奏についての表現は、やはりすばらしいです:

 ブーニンの演奏は、私たちの聞き方の因習を壊しはしたが、けっして型破りというようなものではないショパンの音楽の、あるが儘(まま)の、元の無垢な素顔を、傑(すぐ)れた彫刻家がするように、私たちに提示して見せたにすぎない。物語的に粉飾されたショパンを享受することに慣らされた耳は、そのことに狼狽したのだ。
 類型を持たないという点で、ブーニンショパンはきわめて独創的な演奏解釈といえようが、だがそれがショパンの音楽とは全く別ものであるなどと断定することは、誰にもできまい。むしろ、独創的であるが故に真実である、とも言える。ピアニスト、ブーニンが惹き起こした狂躁は、その底にブーニンの独創性に対するひとびとのさまざまの反応を隠しもっていたにせよ、もはやそれは、ブーニンの音楽とは懸け離れた現象と見るべきだろう。ジャーナリズムやマスコミを通じて喧伝される実体の無い虚像だけが、ひたすら、膨れて行った。ブランド商品を追い需めるように、ひとびとは、音楽とは関係ない、ブーニン現象を追っているのだ。

ジューンベリー実って…ブーニン余話(武満徹の「ブーニン現象について」) - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)

ブーニンさんのピアノは、胴体の長いイタリア製のFAZIOLI(ファツィオリ)。
◎夫が大竹しのぶさんの記事を読んで八ヶ岳高原音楽堂へ行きたいと言い出しました。その内、実現しないといけないようです。

15日に放送されたNHKの特集ドラマ「昔は おれと同い年だった田中さんとの友情」の田中さんは、80歳で11歳の拓人くんと神社の境内で知り合って、戦争で亡くした家族(父と兄は戦死、母と妹は空襲で)のことや家族を奪った戦争への思いを子どもたちや父兄に語り掛ける場を得て、戦争反対の思いを語りつくし、翌年、亡くなっています。

原作の小説を読んでいませんし、フィクションか実話なのかもわからないのですが、田中さんは幸せな人生だったと思います。私は敗戦の1年前に生まれていますので、ことし80歳です。残りの人生、どんなに生きても20年と先が見える歳になりました。

戦後の時代、戦後民主主義の時代と言ってもいいかもしれませんが、その戦後を生きて来た私たち世代が人生を終わる前に思うことは、戦争は二度としないでほしいということです。その願いを大勢の人たちの前で語りつくし、その願いを託す人たちに巡り合えた田中さんはとても幸せ者です。

私は戦中世代と違って、戦争そのものの体験の記憶は全くありませんが、戦争時代を思い起こさせるものたち(者と物)には生の記憶のある世代です。白衣の傷痍軍人たちが松葉杖をついたり、片手で募金箱を手に駅前に立っているのを見ましたし、その人たちに聞こえよがしに「働けよ」と声を掛ける大人たちがいたことも覚えています。たまにデパートへ連れて行ってもらった時など、大阪の阪急梅田から国鉄大阪駅へと続く地下道の壁の隅っこに衣服も顔も黒くなって横たわっている子どもたちがいました。

小学校時代は、戦争の反省からの平和教育の時代だったと思いますが、戦後も10年経つと朝鮮戦争警察予備隊自衛隊になってしまって、それから、あれよあれよという間にアメリカの言いなりの国になってしまいました。鬼畜米英がどうしてこうもすんなりアメリカ一辺倒の国になってしまうのか、不思議です。

あの戦争による自国300万、アジア2000万人の命と引き換えに手にした新しい日本の憲法をこれから先も大事にしてほしいと心から願っています。

映画『誰がために憲法はある』と井上淳一監督のトークとパンフレットから - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)

日本国憲法前文より

(前略)

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。