「新元号について」と「比較敗戦論のために」(内田樹)

元号について、今回の安倍政権のような政治利用には反対ですが、元号そのものについては、私は、あってもよいと思っています。この問題を考えるとき、思い出すのは司馬遼太郎さんの「文明と文化」についてです。小説の中で触れておられたのか記憶は定かではありませんが、こんな意味でした。文明というのはどこにも通用する便利で合理的なもの。文化はその地域、そこの人たちの間でしか意味をなさない物や事。不合理極まりないものでも何か意味があって人々が捨てずに残している物や事。で、日本の大化以来続いている元号文化財の一つでは…と思っています。不便だけど、使っている日本人には、ある共通の慕わしいものがある・・・のではないかと思って。いずれは、必要なしとする人たちが多数を占めて、使われなくなる日が来るでしょうけど。

内田樹氏がそのあたりのことを分かり易く書いておられます。この文章、ロシアでは全文が紹介されたそうです。ロシア人には、21世紀になっても未だに元号を使う日本が不思議で興味津々だったのでしょうか。一部、引用:

文化的多様性を重んじる立場から、私自身は日本が固有の時間の度量衡を持っていることを端的に「よいこと」だと思っている。元号は645年の「大化」から始まって、2019年の「令和」まで連綿と続く伝統的な紀年法であり、明治からの一世一元制も発祥は明の洪武帝に遡るやはり歴史のある制度である。ひさしく受け継がれてきた文化的伝統は当代のものが目先の利便性を理由に廃すべきではない。

その上で新元号についての所見を述べる。

◎少し前に読んだ内田氏のブログの記事に「比較敗戦論のために」という記事がありました。「敗戦論」はなじみがありますが、「比較敗戦論」は初耳です。読んでみました。私はこのブログを始める数年前、今から10数年前、加藤典洋氏の「敗戦後論」を読んだり、ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」を読んでいました。まさに、敗戦の反省を比較して日本にガッカリしていた一人です。

内田氏の「比較敗戦論」のきっかけは、『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんとの対談だと書いておられます。そこから、では日本以外の他の敗戦国は、自国の敗戦の反省がしっかりできているのかと、フランス(!?)、イタリア、ドイツを取り上げます。「恥ずべき過去をどこも否認しているではないか」、これはショックでした。 

恥ずべき過去も含んだタフな物語
 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。
 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。 

◎とても長い記事(講演の記録)ですが、こちらです:

 比較敗戦論のために

http:// blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

◆メモ代わりに気になる個所をコピーです:アメリカの強さカウンターカルチャーの存在を挙げておられます。これはなるほど、納得でした。私もアメリカ映画について書かれているところ、青年たちとベトナム戦争(帰還兵)を描いた「ディア・ハンター」を見て同じようなことを感じていました:

カウンターカルチャーアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでしたところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まったつい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです

カウンターカルチャーアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えているホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。この人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができるハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありませんクリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。

◆では、日本は? 司馬遼太郎について書かれているくだり。かつて幕末物を読み漁っていたころがありますので、「近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとした」と言える、言えると思って読みました。司馬さんは、維新の推進者も幕府方について歴史の歩みを数年遅らせたという新撰組も等しく取り上げて書いています。「祟(たた)る 」とか「祟り」についても・・・

淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵は、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保するその考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです
 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古児玉源太郎大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四~九五年)で村上春樹ノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はないアメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

◆【Q&A】では姜さんが発言:

 <今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね

◆内田氏は、「こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです」「僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う」と話して、"もしあの時"を語ります: 

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。


空襲が始まる前に停戦していれば
日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう満州朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができたなぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。

 

金曜デモと原発関連ニュースあれこれ

昨日は4月最初の金曜日でした。桜咲く季節の再稼働反対の官邸前抗議の様子をいつものように「特別な1日」さんのブログを通して。今回のタイトルは:

まず、ご近所の桜並木の写真が満開で素晴らしい!

そしてタイトルの一つ目、『人手不足の真実』について、グラフを使っての説明がとても分かり易いので、ぜひ、ブログを訪ねてください。結論部分のみ引用です:

 求人は多いが元々待遇が良くないことが多い小規模企業、リストラをやっている超大企業、どちらも雇用環境が厳しくなっていることは変わりがありません。これが結論。安倍晋三がいう様に雇用環境が改善している、なんて全くあり得ないんです。

 良く最低賃金を引き上げると雇用が悪化すると言われます。そんなことはありません。雇用環境を改善するためにこそ、最低賃金を引き上げなければならない、と思います。

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 いずれにしても厳しい世の中です。しかも悪政を乗り越えなくてサバイバルを図っていかなければいけない。共同体や組合など中間組織が劣化した現在、剥き出しになった個人が大した防御手段もないまま、資本主義と相対しなくてはならない。

★政府がアベノミクスと言っている間に、日本の大多数はとても貧しくなってしまったということですが、その割には政治に対する批判も不満もあまり表に出ていないように見えます。政府のメディア管理が行き届いているせい?かもしれません。

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ということで、今週も官邸前へ #金曜官邸前抗議

週末になり、やっと春らしくなってきました。午後6時の気温は18度。良い陽気です。参加者は330人

★ここで取り上げられているのが、東電のずさんな管理体制:「東電の不祥事にはめっきり慣れっこになってしまいましたが、今週もまたこんなニュースがありました。福島第1、福島第2、柏崎刈羽、各原発が本社に送ったトラブルを予防するための情報を過去3年にわたって計33件放置したというのです」

★★★ぜひ、こちらのブログを訪ねて全文を読んでみてください:

『人手不足の真実(笑)』と『0405再稼働反対!首相官邸前抗議』 - 特別な1日

 

原発ついでに、追加です。経団連が何を世迷事!

 ◎もう一つは、トヨタのニュース:

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 この発表の前に、「shuueiのメモ」さんで、この ↓記事を読んでいましたので、なるほど再生エネルギー(電気自動車)との競争で負けてはならじと特許の無償提供にふみきったのですね。新聞記事の真ん中のグラフを見ると、10~15年後は電気自動車の伸び率がダントツですからね。

◎↓の記事では、日本は水素に走ったのが失敗だったとか・・・


「在沖海兵隊、年100日超は海外、訓練内容知らせず」他あれこれ

(「期日前投票とお花見」に次いで2つ目です)

山崎 雅弘さんがリツイート

伊波 洋一 (いは よういち)

@ihayoichi 4月4日

3月31日、朝日新聞が「第31海兵遠征部隊」31MEUの部隊年報を情報公開し、31MEUが年100日以上も沖縄を離れて海外で訓練を繰り返していることを米公文書で裏付けた部隊が訪問、展開した国は少なくとも15カ国に及ぶ。抑止力として沖縄に置く必然性はないことが明らかに。

◆↑伊波洋一氏、ツィッターの自己紹介から:沖縄県宜野湾市出身、普天間高校、琉球大学理工学部卒。沖縄県議2期、宜野湾市長2期を経て、2016年7月から参議院議員沖縄の風座右の銘:基地のない平和な沖縄/著書「普天間基地はあなたの隣にある。だから一緒になくしたい。」「対論・普天間基地はなくせる」「沖縄とヤマト」(かもがわ出版)等

 ◆安倍内閣の支持率が10%近くアップしたそうです。50%を超えたということですね。あれだけ露出すれば「やってる感」アップで? 支持する人たち、どこを見てるの?と言いたくなりますが、民意なんて、そんなものなの?

想田和弘さんがリツイート

深田晃司 Koji Fukada

@fukada80 4月3日

元号が変わっただけで現政権の支持率が10パーセント近くも上がった

この軽薄さこそが今の社会の本質であると考えると絶望的な気持ちになるし勢い余って民主主義までも嫌いになりそうだけどぐっとこらえる。

 ◆メディアが『中立』を装って権力を批判しなくなったり、断定を避けてあいまいに逃げるような風潮の中で、東京新聞は事実を事実として報道する勇気を示しました。当然のこととはいえ、朝日ですら他人事報道が横行するなか、英断です。

 山崎 雅弘さんがリツイート

ころから

@korocolor 4月4日

本日(4/4)の東京新聞

3/26付け同紙における「(関東大震災の中で)多数の朝鮮半島出身者が殺害されたとされる」について、「『とされる』は削除します」との訂正記事。

たった4文字ですが、とても大きな決断です。東京新聞の姿勢に敬意を! 

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◆安倍首相がかばい続けられなくなって、というより、火の粉がわが身に!で、今朝、国交副大臣、とうとう辞任です。昨日の共産党の質問が効いたのかも: 

山崎 雅弘さんがリツイート

きむらとも

@kimuratomo 4月3日

●首相とか副総理が言えないので私が忖度した

●これは首相と副総理の地元の事業だよ(と言われた)。私は物分かりがいい。すぐ忖度する。分かりましたと応じた

これが事実と異なるなら、国交副大臣はソッコー更迭だよね。もしクビ切らないなら、事実いい仕事したからだよね。

 

内田樹さんがリツイート

 yoshita07

@Harunchan123  4月4日

共産党の質問力は凄い、 仁比聡平平成28年3月、関門会が石井国交大臣に下関北九州道路の早期実現に向けた要望書を提出。なんと、その筆頭に安倍晋三の名が。塚田副大臣はまさにその要望に応えただけ。

シンゾー真っ青「知らなかった、総理ではなく関門会の会員として名前があった、むにゃむにゃ」

◆ゴーンさんが悪くないとは思わないですが、検察のやり方は異様に力が入りすぎている感じはあります。本当なら、捕まっているべき人が野放し?なのに: 

内田樹さんがリツイート

俵 才記

@nogutiya 4月4日

東京地検特捜部がカルロス・ゴーンを再逮捕。

保釈されたばかりで厳しい条件がついているゴーンの身柄を拘束せずとも追起訴すればいいじゃないか。

甘利明下村博文片山さつき、森友・加計問題の関係者など逮捕すべき悪党はいっぱいいるだろ。

早くこいつらを逮捕して取り調べろ

 

内田樹さんがリツイート

はな

@hanakija38  4月4日

ゴーンが流用してるのは日産の資金安倍政権が流用してるのは我々の血税私は30年以上、滞りなく納税をして今後も続く。だから、後者の行方か、百倍気になるこんな政権に、2度も消費税増税を許す日本国民の寛容さに呆れるわ。他者に対する寛容度は低いけど、国に対する寛容度は、先進国No.1だな。

◆大阪ローカルのニュースで取り上げられていましたが、日本ではありえないと思いながら聞いていました。韓国の警察と軍が弾圧の犠牲者に対して謝罪、追悼、供花という珍しい出来事です。

山崎 雅弘さんがリツイート

伊地知紀子

@chejusaran 4月3日

済州4・3から71年が経ち、昨年慰霊碑を建立した大阪天王寺の統国寺にて追念の集いを開催初めて、民団と総連双方からの供花が並ぶ歴史的集いとなりました。大阪韓国総領事も参列され供花も大阪だからこそできる集いを続けます。済州KBSは生放送。日本のメディア取材はなかったので、ここで報道。

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山崎雅弘

@mas__yamazaki 4月4日

韓国軍と警察が「済州4・3事件」71年ぶりに遺憾と謝罪を表明(ハンギョレ

(link: http://japan.hani.co.kr/arti/politics/33159.html)

ミン・ガプリョン警察庁長官「無辜の犠牲になった方々に明確に謝罪」

現在の韓国社会にも問題はあるだろうが、こういうところが日本と大きく違うと思う。軍や警察の権威や面子を過剰に守らない

japan.hani.co.kr/arti/politics/33159.html

韓国軍と警察が「済州4・3事件」71年ぶりに遺憾と謝罪を表明

国防部「鎮圧過程で犠牲になった済州道民に深刻な遺憾と哀悼」 ソ・ジュソク国防次官、光化門広場を訪れ献花し頭を垂れる ミン・カムリョン警察庁長官「無辜の犠牲になった方々に明確に謝罪」

japan.hani.co.kr

 

山崎雅弘

@mas__yamazaki

日本の警察は、特高警察による拷問や獄中死についても、関東大震災後の朝鮮人虐殺への関与についても、自国民に遺憾や謝罪を行っていないそれどころか、今の東京都知事は後者を歴史的事実と認めることすら止めようとしている。曖昧にして、両論併記でごまかそうとしている。

 

期日前投票とお花見

内田樹さんがリツイート

松本創

@MatsumotohaJimu 4月3日

・「府庁をぶっ潰す」と言って入ってきた橋下氏と、守るべき府民生活や府の行政の間で、苦しい役回りの連続だったと思う。JRの取材でも強く感じたが、官僚組織にもヒラメばかりじゃなく、良心と気骨ある人物はいる。だが、熱狂する民意と報道の中で、それは見えなくなる。官僚=悪と単純化されてしまう。

・訂正。「大阪府は破産会社」「机を蹴り飛ばす勢いで変える」などでした。で、当初は市町村に権限を移し、府を解消して道州制を目指すと言っていた。それが2010年1月に突然、大阪市を廃止して府に一本化するという、真逆の「都構想」を言い出した。以降、「大阪市をぶっ潰す」と叫び始めたのでした。

↑小西ただかず氏のことですね。橋下氏が府知事のとき、またその後の松井府知事のときも副知事として維新の府政を身近に見てきた方です。

 木曜日、母のリクエストで午後から市役所へ。箕面市は府会議員は無投票当選が決まっているので府知事選のみの期日前投票に出かけることにしていました。車を出して、桜並木を南に下り、市役所別館6階で投票を済ませて、そのまま6階の北側の窓辺へ。箕面の山が見渡せます。中腹あたりに霞んだようなピンクの半円がたくさん見えます。山にあるソメイヨシノが咲いています。年々増えている?ようで、そこだけ吉野山みたいに見えます。母が箕面の山が見えるね~と喜んでいました。五月山まで続いているのよね~と言うので、西の方を覗いてみましたが、あれが五月山かな・・・?

エレベーターを降りて、夫が車を駐車場から出してくるのを待って二人で乗り込みました。良い機会だからどこかドライブしようと夫が。じゃ、市立病院のリハビリ病棟前の桜の木のところへ行って、と私。去年の9月まで、毎日のように車で通った市立病院でした。北側の駐車場から入って坂を上って病院前へ。母が「懐かしい、一年前、車椅子を押して、あの桜の木の下へ看護師さんが連れて行って下さって…」と。

その桜の木が見えてきました。病院は少し高台にあるので、そのせいか、数日来の冷え込みもあって、花は桜並木と比べて遅く、2,3分咲きくらい。「そう、そう、この木の下で、一句詠んだのよ。去年と違って花がまだ咲いてないね~」「あれから、一年、経ったのね~~」と私も。

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結局、近所のあの桜並木が一番ということで、病院の外周を一回りして帰路に。自宅についてから、私はカメラを手にお花見に出かけました。

何とかトンネルに見える場所を探して写してみました。

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道路幅の広い団地の桜の木の勢いが違います。

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白い花はいつも桜と同じ時期に咲き出す利休梅。赤い椿の花。

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車で通った時、満開だったので、中小学校前の枝垂れ桜を見に。

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唐池公園へ向かう住宅街の中の小さな公園の枝垂れ桜。

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から池公園近くのお宅の紅白の枝垂れ梅

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春休みの公園は子供たちがいっぱい。

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入口の山桜は葉桜になっていました。

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宮古島・実は『弾薬庫』、国交副大臣の『忖度宣言』と新元号について

昨日はヨーガの日。お昼前に帰宅すると夫が八百屋さんが廃業のあいさつに来たので隣りの玄関へ案内したとのこと。火曜日の朝9時半ごろになると、軽トラが家の前に止ってチャイムが鳴って店開き。母の注文と我が家三人分の野菜と果物を私が門前の路上で調達していました。

箕面新市場。現在、市営駐車場の西、正井病院の北側にある高層マンションは、以前、市場があった場所です。何十年か前、そこが火事で焼けました。時代はスーパーマーケットに移行していて、火事の後、市場の再建は、ならず、個人商店がバラバラに活路を探してという時期、八百屋に勤めていた方が独立して軽トラで野菜を仕入れてお客さんの戸口で行商販売を始めました。

母がずっとその方の野菜を買っていました。昨年3月の母の入院以来、私が引き継いで、毎週火曜日、3人家族の1週間分の野菜を買っていました。大根や白菜、ネギ、カボチャ、レモン、ミカン、ニンジンなどは、確かに味が良いものばかりでした。カゴに入れるとチラシの裏を利用した計算用紙に品名と値段を書いて暗算が始まります。合計金額が出ると、それを計算機で確認です。この間、私は寒いので上着を取りに戻ったり、重い野菜類を先に玄関まで運んだりしています。

母が退院してからも、ずっと私が応対していました。それが、この火曜日、珍しくいつもの時間になっても来られないので、10時から介護認定の見直しで市役所の方が来られて私も同席を求められていたので、母が書いていたメモを夫に渡していました。翌日の昨日は、八朔をもってわざわざご挨拶に来てくださったのにヨーガで留守。私は先週が最後となりました。夫の機転で母が長年のお礼を言えてよかったです。

私と同い年ですから、今年、後期高齢者仕入れで西宮まで早朝に出かけて、一軒一軒車で回る仕事。昨日の母の話では、お客さんもほとんど一人暮らしで、はける量も少ない、危ない思いも何度かしたし、もう十分働いたからということです。夫も72歳まででしたから、それより2,3年も長いお勤めです。ご苦労様でした。

桜の季節、周りでも去る人が。夕食のとき、今度は植木屋さんがいつ退職されるか、それまでに大きな木は切ってもらおうと母が。私の庭はなんとか植木屋さんのお世話にならずに済む落葉樹がメイン。隣りの母の庭は、松と檜と槙が放っておくと大変です。そろそろ考える時期かも・・・

◆もう本当にウソ平気、だますの平気。バレても安倍政権が守ってくれる・・・とんでもない国に成り下がってしまいました。宮古島で住民に保管庫とウソの説明をして、実際には弾薬庫・・・

◆いよいよ自衛官の海外派遣、それも国会を通さずに

内田樹 Retweeted

盛田隆二

@product1954 

シナイ自衛官派遣 閣議決定

安保法は「自衛隊の部隊等」が行う平和維持活動は「国会の承認を得なければならない」と定めているのに国会承認は不要」と政府その理由は、司令部要員は「部隊等」に該当しないと。なるほどな。安保法に「」をつけた狙いはそれだったのか。

◆こちらは、堂々「忖度宣言」。国土交通副大臣が1日、北九州市自民党の集会で、地元ではで“安倍・麻生道路”とも呼ばれる”下北道路 ”は「私が忖度」と発言:

内田樹 Retweeted
小田嶋隆
@tako_ashi
「政権のメンバーがどんな不祥事を犯しても決して処分しないことで、権の正当性をアピールする」という裏技を思いついた人間は天才だな
「安倍・麻生氏の意向忖度」 下関北九州道で国交副大臣、利益誘導認める(西日本新聞) - Yahoo!ニュース


◇◇今朝、「くろねこの短語」さんが「忖度発言の詳細」を引用されていましたが」、読んでみると,まぁ、露骨! こんなことを身内といえども大勢の人の前で平気で言えるということは、森友・加計問題で忖度が認められているからですね:

◆新元号について、「東久留米日記」さんが紹介されていたツィートがとても的を得た内容です。万葉集について自慢げに語る人…信用できないですね~ 。それに、外務省、1日には西暦に統一の方針だったのに、2日には官邸と自民党からの圧力でトーンダウンとか。

宮内洋
@Hiroshi_Miyauch
私は国文学科教員ですが、ついこの前まで「文学部なんて要らない」、「文学なんて大学でわざわざ教えなくても構わない」、「そもそも文学なんて要らない」というご意見が飛び交っていた状況がまるでウソのような、上代文学一色の2019年4月1日。
https://mobile.twitter.com/Hiroshi_Miyauch/status/1112557902013693952 

◆これはヒドイ。それも池上氏の番組!? 『女性』でひとくくりにされる? 

想田和弘さんがリツイート

弁護士 太田啓子

@katepanda2 4月2日

·屈辱的だよね。

引用ツイート

桂大介

@dkatsura_bot 4月2日

すごいなこれ。女性は「女性」なのね専門性とか経験とか無視されてしまうのね。

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◆新元号発表の日NHKをさけていましたが、翌日の「クローズアップ現代+」は、違っていたんですね。これは見逃して失敗でした。 

山崎雅弘さんがリツィート

@mas__yamazaki 4月3日

昨晩の「クロ現」はたまたま見ていたが、同じNHKでもニュース番組とは全然違う、本質に踏み込む内容だったと思う
時の権力者が、元号という制度を通じて時間と空間を恣意的に権威付けし、下々の民を物理的にも精神的にも支配するそれを今後も続けるかどうかという話。

 

「新元号決定の舞台裏」
平成に代わる新たな元号が「令和」に決定。これまで247すべての元号は、中国の古典が出典とされるが、今回は日本最古の歌集「万葉集」が出典となった。新元号は、いったい誰が、どんな思いで考案したのか?そして初めて日本の古典から引用された背景に何があるのか?政府が徹底した情報管理体制を敷く中、番組では、謎に包まれる元号選定作業の一端を明らかにするため、関係者を徹底取材。「令和」決定の舞台裏に迫る。
出演者
所功さん (京都産業大学名誉教授)
NHK記者
武田真一 (キャスター)

◆見逃した内容をツィターでフォローです:

山崎 雅弘さんがリツイート

 YAF @yagainstfascism 

クロ現+。「かつて、権力者による『支配の象徴』として用いられてきた元号。それを今の日本で使い続ける意味はなんなんのかとナレーション。

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 元号について根本的な議論がされないまま、なんとなくまた新元号を使うことになりそうだが、ものの考え方としてそれでよいのか……と、興膳宏氏。

 

・クロ現+。元号について、中国古典に精通する興膳宏京大名誉教授のストレートな発言。「個人としては、元号はなくてもいいと思っております」。

中国で時空を支配する王の象徴として制定された元号天皇統治という前提でできている元号が、日本国憲法との整合性で「ちょっとおかしくなってくる」。 

 

・クロ現+。元号を国書からという安倍晋三さんの支持基盤である保守層の期待について、国文学の重鎮(和歌を研究されてる方)は「漢籍の重さを考えたら、そう簡単に『国書から』とは言えません。それは古来中国文化の影響力を無視した考えです」と。専門家でなくても、普通はこう思いますよね。笑

 

・クロ現+。安倍晋三さんの支持基盤である保守層は、国書から新元号を……と強く期待するが、そうした政府の意向を新元号の考案を頼まれた専門家が汲み取るかどうかについて、国文学の重鎮は、改元政府主導でしょ。政治的な問題には関わりたくありません」と。笑

 

 

桜の花と「作詞家・松本隆氏が語る昭和と平成と新時代」(日刊ゲンダイ)

内田樹氏のツィッターで上西氏のツィートです: NHKは安倍番の岩田氏が出ていましたので、私は避けて民放のニュース番組を見ていましたが・・・

上西充子

@mu0283 4月2日

統一地方選の最中でありフェアでない元号のような文化的な制度にこのように露骨に政治的な策略を絡めたことについては、私は元号擁護論者として強い不快感を覚えている」 

 ◎春の選抜高校野球が今日決勝戦を迎えます。最近は2時間近くもテレビの前に座って野球を観戦するなんてことができなくて、プロ・アマ問わず野球から遠のいています。昔は高校野球は見てたのに・・・

 先日、高校の同窓会の会場が、阪急豊中駅から少し歩いたところのホテル・アイボリーでした。そこに「歓迎・(大分)明豊高校様」という看板が出ていました。「高校野球の宿舎になってるのね」というと、豊中在住の同窓生の方が「この高校は毎回決まってこのホテルみたい」と。 勝ち進んで火曜日には準決勝。習志野に敗れましたが、ベスト4です。少し身近に感じました。

ところで、4月に入って荒れ模様のお天気、おまけに寒い。午後から桜を見がてら買い物に出ました。 近くの桜のトンネルは、古木と若木染井吉野とボタン桜がちぐはぐに植わっていますので、もうトンネルとしての値打ちはありません。古木も台風の影響で枝が折れて惨めなありさま。 並木のリニューアルをバラバラにしたのでは並木の再生はできないということを市の担当者は分かっていなかったと残念です。諸行無常ですが、小さいころから桜のトンネルを愛でてきた者としては、諦めきれない思いです。写真はアップで写したもので部分の美しさで我慢です。

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◆同じく内田氏のツィッターから町山氏が松本隆氏のインタビュー記事の紹介です:

町山智浩

@TomoMachi 4月2日

松本隆:昔だったら内閣が吹っ飛ぶような嘘が100個ぐらいあるんじゃないですか。100個もあるとそれが当たり前になっちゃうし、誤ったことでも100回も押し付けられると「しょうがない」と諦めてしまったり、「そういうもんか」と染まってしまう。

日刊ゲンダイの書き出し部分は:「俳人中村草田男は昭和6(1931)年に「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだが、新元号に変われば、程なく、「昭和は遠くなりにけり」となるのだろうか? 昭和世代には寂しいだろうが、たとえ時代は遠くなっても、この人の詞はみずみずしい。希代のヒットメーカーである松本隆氏に、昭和と平成、次の時代を語ってもらった。」

◆先に松本隆氏の紹介文を: 

▽まつもと・たかし 1949年、東京都港区の青山生まれ。慶大商学部入学。細野晴臣大瀧詠一鈴木茂とロックバンド「はっぴいえんど」を結成、ドラムと作詞を担当。解散後は作詞家として活躍。81年、寺尾聰ルビーの指環」が第23回日本レコード大賞松田聖子の24曲連続オリコン1位中、17曲の作詞を手掛ける。97(平成9)年、KinKi Kids「硝子の少年」で自己最大のミリオンヒットを記録。2017年、紫綬褒章を受章。

◎私が知っているのは他に、スニーカーぶる〜す近藤真彦)、ハイスクールララバイイモ欽トリオ)、そして何よりも太田裕美さんが歌った1975年、高度成長期の地方から都会へ就職する青年と地方に残る娘との別れをドラマチックに描いた木綿のハンカチーフです。インタビューでは、昭和と平成を語り、また最近は神戸市民でもあって、東京と地方も語っておられます。一部を引用して:

  ――これから迎える新元号、どんな時代になると思いますか。

 社会的にも文化的にも、かなりいろんなことが壊れていますね。修復しないといけないし、して欲しい。やっぱり年をとると日本に住みたいから、住める環境を整えて欲しい。僕は、東京を離れて神戸に暮らして7年になるけど、もっとも痛切に感じるのは、こんなに大きな街なのに発信するもの、目玉がない“もったいなさ”です。あまりにも東京が1強主義で頑張り過ぎた部分と、地方もそれに甘えている部分があるからだと思います。しかも、その東京はすごくロボット的です。道を歩いている人たちに表情がない。みんな同じ顔をして満員電車に乗っている。気味悪いところがある。

  ――個の復活と言うか多様性の活気を回復しなければいけませんね。そうすれば地方も活気づく。

 もっとわがままを言ったほうがいいよね。母校慶応の福沢諭吉も「皆一緒じゃなくていい」と言っていた。嫌なことは嫌だって言った方がいい。そういう教育が非常に大切ですけれど、今は逆行しているような気がしますね。

間違った同調主義が多様性を失わせている

   ――洗脳とは教育?

 日本人って同調圧力がすごく強くてね。間違った同調の結果が今の状態じゃないですか皆が選択肢というものが1つしかないと思っちゃっている。多様性が失われている。今の音楽業界がまさしくそうですね。

  ――同調圧力はどんどん強まっている気がします。

 そういうふうに締め付けないと人々をコントロールできないんでしょうね。政治も経済も本当に余裕がなくなっているだから、立ち止まって考えるのではなく、皆がその場しのぎの嘘をついて、ごまかしてしまう昔だったら内閣が吹っ飛ぶような嘘が100個ぐらいあるんじゃないですか。100個もあるとそれが当たり前になっちゃうし、誤ったことでも100回も押し付けられると「しょうがない」と諦めてしまったり、「そういうもんか」と染まってしまう。

  ――昭和は多彩な色鉛筆の時代だったのに。

 崩壊状態ですよ僕は全ての基本が倫理だと思っている。善いことと悪いことがハッキリしていないと、人間は正しい生き方ができないと思う強い者が弱い者を守るのは当たり前だけど、今の世の中はそういう簡単なことすら分かんなくなっているんじゃないですか。この間、ユーチューブを見ていたら、ライオンが食べようとしていたシカを、途中からいとおしくなったのか、かわいがり始めた。動物でさえこうなのだから、人間同士はもっといたわり合っていいはずですよ

新元号とオスプレイ、そして津田大介氏「あいちトリエンナーレ」でジェンダー平等を実現!

◎昨日は母が心待ちにしていた元号発表の日。前日から“明日は10時台に訪問医の診察があって、そのあと11時半から発表だし忙しい日になる”と楽しみにしていました。母は大正・昭和・平成と5月からの新時代と4つを跨いで生きることになります。

ところで、昨秋、父の死去に伴って沢山の書類に記入するとき、西暦と元号とで大変でした。年数の計算もややこしいので、役所関係の書類は西暦に統一してほしいと思いました。今朝知ったのですが、外務省は西暦に統一とか。

元号そのものは、独特の時間のくくり方で時代感覚を共有できるメリットもあると思いますが、強制は困ります。

(写真は、お昼すぎ、沖縄普天間基地所属のオスプレイが山口の岩国基地から神奈川の厚木基地へ向かう途中、大阪空港で緊急着陸したことを伝えるテレビ画面)

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元号が変わっても日本が抱える重大政治課題を象徴するようなオスプレイの伊丹(いたみ)不時着でした>

◆フジテレビの安藤キャスターのお昼の番組で、ゲストコメンテーターの言語学者金田一秀穂氏が「万葉集といっても元があって、漢籍から来ています。ま、日本と言ってもいいですけど…」と。当時の教養も元をたどれば漢文は当然。漢字を使う限りは根っこは漢文。だから、余計に日本古来の出典にこだわりたくなるのも無理ないし・・・「安倍政権の支持基盤である保守派の間には国書由来を期待する声があった(朝日)」

内田樹さんがリツイート

 保立道久

@zxd01342 4月1日

「仲春の令月、時和し気清らかなり」(張衡「帰田賦」『文選15)が原型。漢文からとらず「日本の古典」からとったと主張するは奇妙な話である。文選は八世紀の政治家には基本教養。いまは期すべくもないが、実は私も『老子』を読むので初めて一部に目を通した。新刊の岩波文庫が売れるとよい。

 

佐藤賢一の中の人

@ke_1sato 4月1日
「令和」の典拠とされる『万葉集』が更に参照していたのは後漢の張衡の賦だろうが、この張衡という人、古代中国科学史では天文学の観測器具「渾天儀」を最初に作ったり、地震計を作った人としても知られている。巡り巡って、日本の年号の出典となってしまったというのは、何というか面白い。

◆お隣の中国も韓国も新元号は『脱中国』と報じています

 ◆お祝いムードのなか、敢えて、別のとらえ方を:

山崎 雅弘さんがリツイート

薛 珠麗 Shurei Sit

@_shurei_ 4月1日

一方で、このスレッドが指摘するようなことを思ったのも確か。第一印象は「響きがかっこよくてモダン」で、次に思ったのは「【命令】の【令】かぁ‥‥命令に従ってりゃ【和】でいられるって言いたい?」だった。

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山崎 雅弘

@mas__yamazaki

・「令」とは「命令」「いいつけ」等を意味する字で、実社会でも「命令」「指令」「訓令」「法令」など、上位者が下位者を従わせるという権威主義の支配・被支配関係を一文字に凝縮した言葉でもある。下位者は上位者が達する「令」に刃向かうことは許されない。黙って従うだけ。2019年の日本を象徴する。

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では「和」はどうか。一見すると「和気藹々」など穏やかなイメージがあるが、その一方で「和を乱すな」という使われ方が示すように、集団への無批判服従と同化を強制する恫喝としても機能する。「皆が服従する『和』を乱すなという『令』」をお上が下々の民に下達し、下々の民が従順にそれに沿う構図。

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1937年に文部省が刊行した『国体の本義』では「和の精神」を「個人主義」の対立概念と位置づけ、後者を否定して前者を称揚するという形で、国民を時の国家体制に絶対服従させる思想誘導を行った安倍首相は記者会見で「国柄(国体)」という、日本会議系人士以外はほとんど使わない言葉を使っていた。

◆「安っぽくなくて良かった」が『安倍さんの「安」の字が入ってなくてよかった』というジョークとは! 外国人記者さんたちの感想は、辛辣でストレートなのが小気味よい:(安倍さんの談話、珍しく原稿なし?ですらすら、これは有識者会議以前から決まってた?みたい)

山崎 雅弘さんがリツイート

 但馬問屋

@wanpakutenshi 4月1日

·【新元号】外国人記者「安っぽくなくて良かった」(田中龍作)

日本在住30年に及ぶ米国人記者、さすがは日本会議の安倍政権。令和とは平和を命じるという意味。治安維持法だと長いので縮めて令和。これひどい名前。命令を守れば和は保てるということ…

blogos.com

★『言うは易し行うは難し』、だからこそ、やれる立場にある者が率先してやるべきと津田大介年に1度の現代アートの祭典「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督としてジェンダー平等を実現‼ 今年8月1日に開かれる国際芸術祭ですが、珍しく、参加アーティストの半数が女性です! (ハフポストの記事から一部引用)

想田和弘

@KazuhiroSoda 3月31日

津田さん、凄いなまずは自分のところからっていうのが凄い。社会ってそうやって変わっていくのだと思う。→あいちトリエンナーレ2019」でジェンダー平等が実現 芸術監督の津田大介さんのこだわりの理由とは

国内外の芸術祭を視察し、決めたテーマは「情の時代」。

「情」という一文字には、「感情」「情報」「情け」という三つの意味がある。

アメリカではトランプ政権が誕生し、イギリスでは欧州連合離脱を巡り喧々諤々していた時期だった。

「常々、いまは感情的な時代だなぁと思っていたんです。どうして政治も外交も、国民感情もこんなに感情的になってしまったのだろう……と考えてみると、情報が溢れているからなんだな、と。情報に触れることで感情が爆発する。でもそんな感情的な部分を抑え込むのは、人間が本能的に持つ『情け』なんじゃないか、と」

そんな中で、2018年8月、東京医科大が入試で女性が不利になるように点数操作をしていた問題が報じられた。

この国には荒療治が必要だ

「先進国のはずの日本で、平成が終わろうとしている時に、実力主義のはずの入試でこんなことが起こるなんて……」

津田さんは衝撃を受けた。さらにショックだったのは、医療の現場から点数操作を擁護する声が上がったことだった。

男性優位は、医療もメディアも美術業界も…

調べ始めると、美術業界も構図は同じだった。

全体を見れば女性が多い業界なのに、ヒエラルキーの上に立つのは男性ばかり。

この構図は、業界の入り口にあたる教育機関でも同じだった。

津田さんは言う。

『差別をなくそう』というのは簡単だが、それだけでは世の中は変わらない。具体的に行動を起こすことが大事で、今の自分はその決定権を握る立場にある。ジャーナリストでアートの門外漢である自分だからこそできること、業界にしがらみのない人間でなければできないことがあるんじゃないかと考えた」

ジェンダーギャップの問題は女性の問題ではなく構造を支配している男性の問題です男性が変わらなければ変わらない。だから、変えるんです」