纏向遺跡の謎の解明?

ブログの11月15日と18日に纏向遺跡について書きました。
18日のブログ「逆説の日本史1」では「纏向遺跡の建物群の中心軸が東西なのは謎」と書いたのですが、
12月17日の讀賣新聞夕刊の文化欄にはどうやら解明?されたような記事が載っていました。
書き手は千田稔という1942年、奈良県生まれの歴史地理学者さん。
奈良県立図書情報館長で、国際日本文化研究センター名誉教授。
全文紹介したいところですが、端折って部分的に・・・

「日本で天皇という称号が正式に使われるようになったのは飛鳥時代になってから。
中国の宇宙の最高神である「天皇大帝」に由来し、天上の帝王という存在で、北極星をそのシンボルとする。
そのため、北を起点として南に向かう方位が東西の方位よりも優位になり、この原理による都城の軸線は南北方向であって、
平城京などの朱雀法事が中心軸として設定されるのもこの理由による。

では、それ以前はどうだったのか? それ以前の時代、中心軸は東西だった。それはなぜ?

おそらく、それは、太陽が東に昇り、西に沈むという、相対的な太陽運行方向を主要な軸線とした宇宙の見方、すなわち宇宙観によるものであろう。
日本書紀」の成務天皇5年条に、東西を「日縦(ヒノタタシ)」南北を「日横(ヒノヨコシ)」とあって、太陽の相対的な運行を基準とした場合、東西を「タテ」南北を「ヨコ」とすると記している。
太陽を中心とした宇宙観にしたがい、天皇という称号が定まる前の大王、大君は「日の御子」とよばれた。

「タテ」「ヨコ」に関しては、<宇宙観によって主要な軸線、つまり優位な方位を「タテ」とし劣位は「ヨコ」と呼ばれてきた。例えば、ヨコミチ(横道)、ヨコシマ(邪悪)など、「ヨコ」は道理に合わないことを意味し、「タテ」に対して正道でないとされてきた。>
<このようにみると、わが国の本来の宇宙観の主軸は東西方向であったのが、中国文化の導入によって、
南北軸が主軸になるように転換したことになる。>

ひるがえって、「ヒミコ」という名について考えるときに、「日の御子」あるいは、「日の巫女」と解釈できる可能性がある。
そして纏向遺跡の周辺が、卑弥呼の宮殿のあったところとする可能性が、高まったと、いってよいであろう。

纏向遺跡の建物群の「中心軸線が東西」であったのは、南北縦線に対する横線ではなくて、飛鳥時代以前は、
逆に、”主要”を意味する「タテ」線であったということが「日本書紀」の表記でわかるというのは素晴らしいですね!! 
南北線が主軸=タテ」というのは中国の考えが入ってきた飛鳥時代からで、天皇という称号も中国式の考え方だったとは!!
そうすると、出雲大社大国主命が西向きに祀ってあるのも何か関係ある?(11/18のブログ「逆説の日本史1」)