シリーズ日本と朝鮮半島 第5回「日韓関係はこうして築かれた」

8月1日(日)放送の第5回をまとめようと思っていましたが、戦争に関する放送が続いて、こちらは後回し、その内、10日(火)、菅総理の「日韓併合100年 首相談話」が発表されました。順序としては第5回で頭の整理をしてからということで、メモから書き起こしをしてみます。
今回扱われる年代は1951から1965年までの14年間。
国民所得が日本の5分の1で世界の最貧国に数えられていた韓国が日本からの協力金(賠償金?)で経済発展を遂げますが、パク・チョンヒと岸信介満州時代からの関係が日韓基本条約に至る過程とその後の発展においても濃厚です。二人が個人的に関係があったということではなく、植民地時代からの共通した利害と理念が一致したことが、新たな日韓関係にとって良かったのか悪かったのかが評価の分かれるところです。岸信介首相時代から日韓会談がスタート、その弟の佐藤栄作総理時代に日韓基本条約が締結、70年には岸氏はパク大統領から両国友好と発展に協力したとして勲章を授かっています。そして一族の安倍晋三氏の今、です。まずは、私なりに番組の内容にしたがって・・・(またまた長いので番組を見た方、興味のない方はどうぞスルーして下さい)

1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約調印
         日韓会談始まる
1952年      岸信介首相
1960年(昭和35年日米安保条約改定  (発効後岸首相辞任)
1961年      韓国軍事クーデター(パク・チョンヒ)
1965年(昭和40年)日韓基本条約
1979年(昭和54年)パク・チョンヒ暗殺

内容は第1に植民地下の被害補償について
   第2に韓国併合の法的正当性
   第3に竹島の領有権      いずれも歴史認識問題の原点 (番組では第1点に大半がかけられます)


1.被害補償について
1951年9月のSF条約調印では韓国は交戦国ではないと理由で席につけず。翌月からアメリカの仲介で国交正常化を目的とした日韓予備会談がもたれたが、「請求権につては日本は韓国に残した財産と相殺」という久保田発言で決裂。久保田は「日本は迷惑と被害ももたらしたが良い事もした。日本が植民地化しなくても中国とロシアがしただろう」と発言。当時のイ・スンマン(李承晩)大統領は海上李承晩ラインを引いて日韓関係を悪化させる問題となっていた。


日本では、山口県の漁民が釜山に連れて行かれるので、地元出身の岸信介がこの問題に熱心であった。1952年2月に首相になった岸信介は積極的にアジア外交を進め東南アジアとの賠償交渉を行った(南ベトナムのゴジンジェム、インドネシアスカルノ)。韓国には特使を送っている。これはアイゼンハワーの反共防衛体制を築き、日本の国際的地位を高めて自由主義経済の基盤を固めるという戦略と合致。


一方、韓国・ソウルではデモが相次ぎ国内は混乱。12年間君臨したイスンマンは辞任、ハワイに亡命。陸軍少将の43歳のリーダーパク・チョンヒ(朴 正煕)が「絶望と飢餓線上で喘ぐ民生苦を至急解決し、国家自主経済再建に力を注ぐ」と革命公約を準備。当時韓国は一人当たり所得は日本の5分の1、世界の最貧国に数えられていた。
1961年5月16日、軍事クーデター。3000人以上の兵士でソウル市内を制圧。「国家再建最高会議」の議長にパク・チョンヒが就任。1962年1月1日、陸軍大将朴が「経済開発5カ年計画」発表、外資(=日本からの資金)導入が前提。6日後、日韓会談の再開を打ち出し、いち早く応じたのはアジア外交に力を入れていた岸であった。密使を送り協力の意を伝え、1961年、パクは岸への返信で「国交正常化交渉に深い理解と好意」を感謝「経済・軍事・民情などを仔細に報告・説明致します」と水面下で岸と接触。当時、36歳のチュ・ヨンテクは駐日韓国代表部参事官で、中央情報局の一員として「あの方に会って協力を仰ぎなさい、首相ではないが政界の影響力は大きい」と密命を受けていた。


1961年11月、パク自ら訪日・交渉池田勇人首相の「請求権というとどうしても相殺思想がでてくる」に対して「請求権」と言うことばは適当でいいと答えている。岸は「パクは非常に謙虚で救国の念は明治維新の志士を思わせる」と回想。チュの証言では「パクは岸の政治理念や影響力の大きさを尊敬し、反共政策や日米関係の考え方が一致すると共感を抱いていた」。日本でパクは元満州国陸軍官学校校長南雲親一郎を招いた。「先生のご指導と推薦のお陰で陸軍士官学校を出てここまでこられた。韓国代表としてお目にかかれたことを感謝致します。」と大統領が恩師に酒をそそぐや、池田首相をはじめ全員拍手となった。


岸とパクの二人の満州時代。1931年(昭和6年満州事変、岸は商工省官僚として統制経済を行い、満州産業開発5ヵ年計画を実施、製鉄など重工業の開発を進めていた。一方、韓国で軍人となり、朝鮮戦争で頭角を現したパクの課題は北のキム・イルソン(金日成)との対決であった。日本の満州時代の人脈や陸軍士官学校出身者を政権の中枢に置いた。パクは岸の満州で行った統制経済とその運営方法を評価、「関東軍による素早い国家建設・戦時下の社会動員体制」を韓国での国家運営モデルにしようとしていた。それが、北の金日成との競争で勝ち残る為の最適の方法と考えていた。


当時の韓国中央情報部局長のチュ・ヨンテクによると「戦前満州で活躍した人物との接触を図った。自民党の官僚派にも党人派にもパイプがあった児玉誉士夫先生に協力をお願いした。 彼は戦前、上海に本部を置いて日本の情報機関を仕切っていた。接触した時は既に私のことは知っていた。野心があったので積極的だった。請求権問題に必死で率直に話し合った。」


1962年3月、日韓交渉は金額交渉に入る。このとき、韓国は7億ドル、日本は7千万ドルで、決裂。アメリカが苛立つ。
JFケネディ大統領はキューバ危機でカストロと対決、軍事支援を中南米に振り向ける必要があり、韓国支援を日本に肩代わりさせるつもりであった。駐韓米大使書記官は、キューバのミサイル危機が深刻で、本気で日韓会談の早期解決を望み、時間を取られたくないので、双方の金額を足して2で割った数字、38,500万ドルを提示。パクはナンバー2のキム・ジョンピル(中央情報局長)を請求権交渉に当たらせた。相手は大平正芳外相。
1962年9月、大平外相訪米、ラスク国務長官と会い、3億ドルなら可能。
   10月、キム・大平会談。米から出た3億ドルは韓国と相談済みと考えて3億ドルを提示。韓国は6億に近づけるよう要求。
   11月、キム・大平会談。有償3億、無償2億。独立のお祝い金として、経済協力の方式で、同意。


1964年3月、韓国学生、抗議。植民地支配をあいまいにした屈辱外交と非難。3月24日、帝国主義者と民族反逆者の火刑式を行い、キムと大平の人形を焼く。一言でいい「悪かった、すまなかった」といってほしいのに誰も言わなかったと騒ぐ学生たちを呼び「キム・大平メモ廃棄」を要求する学生に「政府としては仕方ない。現実を理解して欲しい」と直接説得。「しかし、学生デモはエスカレートし、一般市民も加わる。独立以来、反日思想が強調されてきただけに、親日外交に対しての反発が出る覚悟はしていた」と当局は。
1964年6月3日午後8時。「非常戒厳令布告」。パク政権はデモ鎮圧に踏み切る。国民の反対を力で抑えても日韓会談を妥結させようとした。
日本の立場は、被害補償でなく経済協力であり、日本ペースでの決着であった。
これで日本は「請求権問題は完全かつ最終的に解決された。個人補償は韓国政府が担う。」とした。


2.韓国併合の法的正当性について
1964年11月、佐藤栄作岸信介の弟)首相就任。1965年2月、椎名悦三郎外相満州時代の岸の部下)が訪韓歴史認識について閣僚として初めて声明、「両国の長い歴史の中で不幸な期間があったことはまことに遺憾な次第でありまして深く反省するものであります。」


1910年の韓国併合を新しく「どう記すか」という問題で。韓国側の基本的立場は「null and void=全く無効」、歴史清算において植民地統治は不法。根拠となるすべての条約も不法で強圧的に締結されたもの。つまり、国民や朝鮮王朝の意に反する条約。
それに対して、日本側の提案は「already null and void=もはや無効」で、「併合に至る条約は一度は有効だった」ということで折り合わず会議は終了。
その後ソウルの料亭清雲閣(チョンウンガク)で外務部長官のイ・ドンウォン(李東元)と椎名悦三郎外相との密談。
翌日1965年2月20日日韓基本条約仮調印。第2条では「もはや無効」と記された。結局1910〜45年=合法、日本の敗戦以後の45年以降は不法とされた。


3.竹島の領有権について
竹島(トクト)は大きさが日比谷公園ほど。1905年に島根県編入し、領有の意思確認された。
1951年サンフランシスコ平和条約で日本はウルルン島を放棄、竹島は放棄していない。
ところが韓国側はウルルン島を放棄した時、竹島ウルルン島の一部であるから放棄したとし、その後、李承晩ラインの内側に入れた。
キム・ジョンナクさんによると、当時パク・チョンヒが河野一郎接触し、秘密交渉があった。その時、「解決せざるをもって解決したものとなす、これで良しとしましょう」ということにした。

1964年12月、佐藤首相は「条約としてふれないことで承知した」とした。しかし、記録は残っていない。
1965年6月22日、日韓基本条約調印の日、日本の外務省は最後まで竹島問題の解決を求めた。この日は交換公文を交わす事を日本側が提案、「竹島」の入ったのと入らないのと2枚用意した。「両国間の紛争は外交上の経路を通じて解決。出来なかった場合は調停によって解決を図る」とされ、「竹島」は無し。
「14年で正常化されたとはいえ、韓国側は当初から韓日併合に至る条約の無効を主張、日本は1948年の大韓民国成立からもはや無効で植民地支配は有効とする玉虫色の決着であった。日本国民は戦争による被害者意識が強く、関心も低く、政府の考えを容認、アメリカ主導で進み、過去の清算の機会を逃してしまい、後年、そのツケが色んな所に来ている。](番組キャスター)


日本からの経済協力金の使われ方
POSCO(旧ポハン総合製鉄):経済成長の原動力であった。パク・チョンヒは工業化と軍需産業の育成に力をいれ、製鉄所の資金の半分以上は日本から。
1972年、通産大臣は中曽根氏。日本政府も積極的に支援、資金協力と技術協力を惜しまず。南の優位性を示す事は日本の為にも良い。
日韓基本条約後、韓国カンウォン道のソヤンガン(昭陽江)ダムに78億円の資金投入。当時国土の88%が農村で電気はなし、発電ダムであった。
日本工学の久保田社長(戦前岸信介と組んで鴨緑江の水豊ダムをやっていて、戦後もアジアでダム建設を)は「賠償は一種の前払い金で、技術・商品をこれに充てれば将来貿易の呼び水となる」と話す。


1969年、日韓協力委員会が結成され経済協力が推し進められる。会長は岸信介。1970年、一等修好勲章をパク・チョンヒから「日韓両国の友好と発展に協力」したとして与えられる。この年、1970年、パクは金日成に「民主主義と共産独裁のどちらの体制が国民を豊かに出来るか」と呼びかける。日韓基本条約の10年間で国民総生産は13倍、9.6%の高度成長を達成。「ハンガン(漢江)の奇跡」と呼ばれる。しかし、1979年、側近によって暗殺される。


パク・チョンヒの残した日韓基本条約をどう見るか? クンミン(国民)大学教授のイ・ウォンドク(李元徳)氏:「最貧国の韓国は経済を安定させる事が重要な課題だった。日本との関係ががその貧困を無くす土台を作れたことは成果だった。しかし、議論が経済や安全保障に偏りすぎたため、肝心の歴史問題に関しては妥協に終止した。韓日会談は不完全、歴史の清算においては課題を残した。」


1998年、小渕恵三首相は、キム・デジュン(金大中)大統領に「多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し痛切な反省と心からのお詫びを申し上げました」と話した。


2002年から日本の呼びかけで歴史認識をめぐる共同の「日韓歴史共同研究委員会」がスタート。これを提案、委員もつとめている慶応の小此木政夫教授は、「歴史認識を一致させようという目的で始めていない。日本側と韓国側と、どこが違うのかを確認しあう、その上でもう少し先に進みたい、お互いの距離が縮まればよい。お互い隣の国の事を知らなさ過ぎる。相手に関心をもって、理解を深めていく必要がある、学び合あえればよい。」

忘れないうちにと一組折ってみました。