「伊藤博文とアン・ジュングン」つづき

昨日(土)は10時から、社会福祉協議会の地域の総会がありましたので、自治会の区長さんを誘って出かけました。
市の大きな福祉事業の末端にあって、地域のお年寄りや乳児を抱える母親、小学生や中学生へのボランティア活動の働きかけや、小学校区の地域の親交行事、一人暮らし老人への配食、など多岐にわたる活動を長年つづけておられる会。
久しぶりに参加した総会ですが、若い方たちの姿は無く、ここも高齢化著しく、ハッピ姿の箕面市長がトビきりの若さです。元気な中高年が頑張るしかないですね。先日、自治会費を持ってこられた班長さんも、小学校のPTAの役は一子一回、それも早目に手を上げて役を済ませて、パートよりはフルタイムで働く母親が増えていると仰っていました。
今回は、ついこの間までサラリーマンだった方が会長さんになられました。最初のご挨拶では、地域活動デビューの生真面目さと原点回帰の初々しさが感じられて、とても新鮮な感じがしました。ボランティア活動は、やってる者も楽しくなくっちゃ精神で、仲良く楽しく元気に出来れば最高だと思います。

さて、「日本と朝鮮半島100年」の「伊藤博文とアン・ジュングン」、ブログのまとめの後半は、いよいよ1909年10月26日、ハルビン駅で殺し、殺されという接点を持つに至る二人をたどります。

初代韓国統監の伊藤博文1906年3月着任、統監府を中心に内政に干渉スタート。伊藤が目指していたのは「穏健な統治」で、八道より代表を出して内閣を作るという考えもあり、植民地化から自立・自治まで幅広く検討していたようだ。しかし、韓国内でのナショナリズムの勢いは強く、国債報償募金運動が盛り上がり、亡国の危機を訴える愛国啓蒙運動は男女の別なく3ヶ月で全土に拡大した。当時、アン・ジュングンは2つの学校を運営しており、特に英語教育に力を入れていた。言論も活発になり、ハングルが大衆化。知識階級の両班から大衆にも広がり、近代韓国のルネサンスとも言われ、民族を一つにしていった。


伊藤は、当初この動きを容認していたが、ナショナリズムの矛先が伊藤自身に向かって来つつあり、1907年にはハーグ密使事件が発覚、統治方針の転換の好機とした。1907年、7月20日、コジョンを退位させ、病弱の息子のスンジョン(純宗)33才に譲位。4日後の、7月24日、第3次日韓協約で内政権を把握、主な官吏の任免や法令の制定が統監の承認や同意なしには行われなくなった。8月1日には韓国の軍隊解散。(一方で、司法制度の改革、治外法権の撤廃、産業の振興など伊藤自らが手がける。)しかし、義兵運動が全国に拡大し、「国民は耐え難い辱めを受けた」として、アン・ジュングンも武力闘争に身を投じる。


義兵運動の激化に対して、1908年6月12日、陸軍将校への演説では、伊藤は国際的非難を避けて「韓国は保護国であって、敵国ではない、領民に被害を及ぼしてはならない」と慎重行動を求めた。しかし、8000人の軍隊は15000人に増派され、憲兵隊も同行した。

伊藤は、(日本の経験からか?)韓国皇室の権威は重要として、1907年、皇太子イ・ウンを日本に留学させている。コジョンが統治の障壁だったので、10歳の皇太子に日本式教育を受けさせた。1909年1月には皇帝スン・ジョンの巡幸を行った。しかし、これは裏目に出て、「巡幸は日本の強制」「皇帝を日本に連れ去るのか」と反発、「伊藤暗殺」の噂まで。伊藤が想像したよりはるかに韓国のナショナリズムは強かった。


1909年の春、統治方針を大きく変える。4月、首相・桂太郎、外相・小村寿太郎が伊藤を訪問、韓国併合に意見を求め、伊藤は「異論はない」と答えた。2ヵ月後、伊藤は統監を辞任。7月6日、伊藤の同意を得て、併合断行に舵をきる。
その頃、グラスキノに潜伏していたアン・ジュングンは左手の薬指を切断して滴る血で「大韓独立」と書き、11人の同志と断指同盟を結成。10月には伊藤殺害を決意。韓国の植民地化は、国際的には「韓国が自ら望んだこと」として広まっていることを、「そうではない」と意思表示しようとした。


当時、列強の関心は満州に向かっていた。ロシアとアメリカが接近するなか、日本はロシアとの関係強化で打開しようと、10月20日、伊藤は旅順戦跡を視察。国防がテーマの「武装の平和時代」という演説が最後となった。「戦争がしばしば起こるのは国家にとって不利益であるのみならず、人道の為にも好ましいものではない。しかし、現在の世界は平和を主張しながら実際には競い合って軍備を強化し国運の発達を図っている。ゆえに武装の平和を免れることは出来ないのである」というのが最後のスピーチ。その6日後、ハルビン駅でアン・ジュングンの放った銃弾に倒れ、30分後、68歳で死去。国葬となる。


アン・ジュングンはその場で捕まって、旅順の監獄へ入れられ、裁判に。殺害理由を追求され、「単なる殺人ではない」「義兵の参謀中将として独立戦争を戦った」「私怨によるものではなく、”韓国独立”と”東洋平和の維持”を目的としたもの」と主張。
「東洋の平和とは何か?」と問われて、「すべての国が自主独立していくことが出来るのが平和です」と答えた。1910年2月、死刑判決。
残された時間で「東洋平和論」を執筆。「現代の世界は東西に分かれ、互いに競争を繰り返している。西欧勢力の東洋への浸透の災いは東洋人種が一致団結して防ぐのが第一であることは子どもにも分かることだ。それなのに、日本はなぜ隣国を略奪し、無益な争いをするのか。韓国人、中国人の希望は全く断ち切られてしまった。」 書き終えることなく、1910年3月26日、処刑。30才であった。


1952年、アメリカへ移住したアン・ジュングンの孫に当たる人を番組では訪ねている。高齢の孫が語るアン・ジュングンは「ピュアでロマンティスト」、望んでいたのは「弱肉強食ではなく、強者と弱者が共に生きること、ハーモニー」と語っている。


伊藤暗殺から10ヵ月後の1910年8月、日本、韓国併合。統監を廃止、新たに朝鮮総督が任命され、軍隊と憲兵による武断統治がスタート。
イギリスの東京駐在大使館参事は、日本が韓国併合条約を公布したその日の日記にこう記している。「日本がその役割を果たすにふさわしいかは分からないが、”大陸国家”となった。強力な陸海軍を持って「リアル・ポリティーク](現実的政治)を実施する、その意味で、ドイツと似ている」。 これ以後、朝鮮半島は、日本の本格化した大陸進出の拠点となり、植民地支配は35年続く。


五十嵐解説委員のまとめでは、伊藤は、帝国主義の時代の現実に向き合った「武装の平和」。アン・ジュングンは「東洋平和論」で帝国主義を否定した。二人の「平和」は相容れなかった。

五十嵐解説委員の言葉では、「EUのような共同体がアジアでも成功するには、歴史認識の溝を埋めて、乗り越える努力が必要」と。それには、今回の「伊藤博文とアン・ジュングン」の評価を巡る対立の溝を埋めて、乗り越えなければということです。伊藤博文が、韓国の植民地化を最初から考えていたのではないということは、分かります。一方、アン・ジュングンが知識階級の出で、カソリックに入信していて、単なるテロリストではないと言うことが、今回、初めて分かり、愛国の英雄と称えられるのも理解できました。私の場合は、まずは、知る努力から。