再放送の番組「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」

6月20日に「見逃した番組」というタイトルで取り上げたNHKスペシャルの再放送を今回も危うく見逃す所でした。
予約録画や録画の画面にこの番組名が出てこなかったのは何故なのか不思議? その為、録画はできず。
とにかく5分ほど欠けた状態ながら何とか見逃さなかったので良かったです。
まず、佐藤総理の密使になる過程が分からなかったのでWipkipediaからその部分引用:

「佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。翌1967年、福田赳夫自民党幹事長を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる(なお、密使としての交渉に際して、若泉は偽名「ヨシダ」、ニクソン政権において若泉のカウンターパートとなったキッシンジャーは偽名「ジョーンズ」を用いた)。実際に若泉と会ったのは国家安全保障会議NSC)のモートン・H・R・ハルペリン(後に国務次官補)であった。ハルペリンは沖縄返還交渉の方針を決めた国家安全保障覚書(NSDM)13号の起草者であった。

では、メモを頼りに番組内容を私なりにまとめてみます:

佐藤総理が沖縄返還を政治課題としていた当時、若泉敬福井県出身で東大を出て国際政治学者としてテレビに出演をしていた若手保守派の論客だった。若泉も沖縄問題は本質的に日本の領土問題だとして、アメリカと対等の関係になるためにも沖縄返還に意欲的であった。アメリカは「有事の際には核持込」の秘密協定がなければ返還には応じない姿勢で、1969年11月若泉は佐藤総理に合議文書にイニシャルのみのサインをするよう進言している。文書はアメリカ側はニクソン大統領とキッシンジャー補佐官、日本側は佐藤総理と若泉の4人のみの密約。40年後の去年、密約が佐藤家に残っている事が明らかにされた。遺族は本当のことは本当のこととして伝えたいとのこと。

1972年5月15日、沖縄復帰記念式典が行われ、「基地は段階的に縮小するよう努力する」と決められていた。

しかし、アメリカには当初から基本戦略があって、若泉はその「アメリカの狙いに気づいていなかった」。
それは、69年5月28日、合議文書の半年も前に決められていた。アメリカの国家安全保障覚書(NSDM13号)に記されている。アメリカはすでにどこからでも核ミサイルを発射できる態勢ができていた。沖縄に核を持ち込む事が目的ではなく、朝鮮、台湾、ベトナムへ出て行く拠点として沖縄を最大限自由に使用できる事が目的であった。
交渉相手であったモートン・ハルペリンが証言している通り、基地の自由使用を認めるためのカードに核問題を使ったのである。日本は核問題にナーバスになっているので、他の問題で譲歩を得られる、アメリカ側の要求の受け入れ条件に使えるとして、アメリカは本来の目的:アジアの戦争のために沖縄の基地を自由に無期限に使用できるようにしたのである。


1974年、佐藤は非核三原則を評価されノーベル平和賞を受賞。翌年、死去。若泉は佐藤家を訪れ69年11月6日の「佐藤日記」を閲覧している。合議文書について総理とは若干の差があり、認識の差を痛感したのではないか。その後若泉は表舞台から消える。


1992年、沖縄復帰20周年記念式典に12年ぶりの若泉の姿があり、「検証する会」にも研究者として出席している。
アメリカ側の機密解除でモートン・ハルペリンのNSDM(国家安全保障覚書)の戦略全貌を知り愕然とする。
その時点で日本政府の誰一人としてアメリカの戦略を正確に知らなかった。アメリカは望む全てを得ていた。その結果、沖縄の基地は固定化された。
若泉は自分の果たした役割に疑問を持ち始めた。その後の友人、知人への手紙では自分の責任を痛感して鎮魂の旅に出ている。沖縄への基地の集中に改善はなく、政治家、マスコミ、本土の人たちの様子は「愚者の楽園(フールズパラダイス)」だと嘆いている。
批判覚悟で密約を世に問う「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を1994年5月に出版。編集者には「今だから語ろう」という類の出版にしたくない、歴史へ寄与したいとして、国会へ呼ばれることを覚悟していた。日本の国全体で安全保障の問題が議論として高まることを期待していた。


しかし、政府は否定、「密約は存在しない」と一蹴。外務次官の斉藤邦彦氏によると外務省全体が「済んだ問題」扱いした。国会でも追及なく、完全に「無視黙殺」が現状であった。若泉の失意失望は大きかったと友人が語る。「私のやった仕事を公表しただけで終わってしまう。国民の目を覚まし、これからの日本をどう舵とっていくか、真剣に考えて欲しかった。私の筆不足なんだろうか」と言っていた。

翌年の1995年、12歳の少女がアメリカ人兵士の暴行をうけ、沖縄の怒りは頂点に達した。若泉は現地の新聞を取り寄せ、関連記事を切り抜いて、現地の痛みを感じ取ろうとしていた。6月23日戦没者墓苑に慰霊碑の前に跪いて一心不乱にお参りをしている。沖縄の現状に重い責任(結果責任)を感じて、「本土復帰して本当にこれでよかったんですか?」とよく問いかけていたといいます。
この頃、余命わずかの末期がんにかかっていて責任の取り方を考えていた様子。県民のみなさんと県知事大田昌秀さん宛てに一通の手紙、「嘆願状」を書いている。大田氏は「遺書と同じ。結果責任を取って思いつめておられた。日本の歴代の総理にはいなかった」と。


若泉が大事にしていた写真、沖縄の米軍統治下、一人の主婦が日の丸を掲げて立っている写真で、縁のところには「小指の痛みを全身の痛みとして感じて欲しい」と書いてある。書斎に30年間掲げてあったこの写真が私の心の支えです、と書いている。著書を海外でも出版する契約もして、1996年7月27日、自宅の管理を任されている鰐淵信一さんのお話では、午後2時10分ベッドに入り、冷たい水を進め、若泉も飲む、そして何かを口に含んだ。覚悟の自決であった。


返還から38年、基地は残り、重い負担を負い続けている。

全く知らない話で衝撃的、なんともいえない思いがまず・・・
佐藤総理のノーベル平和賞については日本人の多くが疑問を感じていたし、大きな間違いだと思っていた人も多かったのでは、私もその一人でした。
ということは、非核三原則といっても、密約のようなものがあって、いざという時は核が持ち込まれ、日本は何も言えない、言わないんだと国民の多くが思っていたということです。しかし、それも、大いに騙されていたということです。
アメリカはすでに能力的には何処からでも核ミサイルを発射できたというのに、「有事の際に核持込の秘密協定が必要」と日本を欺いて、「応じなければ、固有の領土としての沖縄は帰ってこない」と思い込ませて日本側を追い詰めるカードに使ったという。その結果、「米軍が自由に無期限に使える基地沖縄が固定化」されました。
日本側の佐藤総理や、交渉に当たった若泉氏が密約に応じてその結果騙された責任の重さは大いにあります。
しかし、小指の痛みを全身の痛みとは感じずに返還後の沖縄を忘れたような「愚者の楽園」となっていった日本の政治やマスコミや私たちも一体どうしていたというのでしょう。
責任を感じつつも、目を覚ませと苛立つ思い、覚悟の密約打明けも「完全無視黙殺」の手ごたえなし、絶望と自責の念と不治の病の末の覚悟の自死
66歳といえば今の私と同じ年齢です。生きておられれば80歳。去年からの普天間辺野古に揺れる沖縄の問題をどんな風に思われたでしょうか。
若泉氏の経歴と京都産業大学との関係についても同じくWikipediaより部分引用で:

若泉 敬(わかいずみ けい、1930年3月29日 – 1996年7月27日)
福井県今立郡服間村(現・越前市)で、父・齊と母・マツエの長男として生まれる。服間尋常小学校卒業後、福井青年師範学校に進学し、後に妻となる根谷ひなをと出会う。1949年、師範学校本科を卒業し、明治大学政治経済学部政治学科に進学するが、1年後の1950年、東京大学法学部を受験し合格。1952年に国連アジア学生会議の日本代表としてインドとビルマを訪問し、このときの体験をもとに大林健一の筆名で『独立インドの理想と現実』と題する小冊子にまとめて刊行した。1954年東京大学法学部政治学科卒業後、佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。
1957年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了、1960年米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)に留学、客員研究員として滞在中、マイク・マンスフィールドディーン・アチソン、ウォルター・リップマン、ウォルト・ロストウらと面識を持つ。
1961年防衛庁防衛研究所所員。創立に貢献した京都産業大学に1966年より法学部教授として招聘される。京都産業大学世界問題研究所所員を兼任し、1970年から1980年まで同研究所所長。その間、アーノルド・J・トインビーの京都訪問・講演の実現に尽力し、京都産業大学知名度を高めることに貢献した。
また1969年から1971年まで中央教育審議会臨時委員を務める。1980年、東京から故郷・福井に居を移し、中央政界や論壇から距離を置くようになる。1992年の京都産業大学退職時には退職金全額を同研究所に寄付し、同研究所ではこれをもとに「若泉敬記念基金」を設立した。

PS:参照=9月21〜23日のブログ:「愚者の楽園へ〜安保に賛成した男たち〜」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20100921/1285054403