「二人の鈴木と憲法の青春期」

8月に入って父が寝ている時間が増えてきました。食事も少なくなり、今まで断られたことがなかった三時のコーヒーも手を振って断ります。夕食時のワインの量も小さなグラス一杯になりました。熱中症だと言われますが母は老衰だと。母の二回の入院を一人で過ごして、娘の私では代わりは出来ないと思うことも。もうすぐ終わる夏、上手に越えられるか・・・母が言うには、あんなに熱心に読んでいた文藝春秋誌、最近は根気がなくなってきたとか。

その月後れで我が家にやってくる父の文藝春秋、母の入退院で二か月分ほどたまっていて興味のある記事から読んでいましたが、6月号のエッセイの中に、憲法についての一文を見つけました。
安倍首相、今年に入っての関心事は総裁選だそうです。そのための準備に内政も外交も心ここにあらず。それで、西日本豪雨の際も被害状況より自民党の内輪の宴会でした。やり残したという憲法改正を何が何でもやりたいらしい。その憲法を変えたい根拠が「押し付け憲法」ということです。アメリカ追随なのに、アメリカから押し付けられたらハイハイでいいじゃないかと皮肉の一つも言ってみたくなります。でも民主主義よりファシズムがお気に入りなので、そこは譲れない? そもそも「押し付け」ということ自体が、憲法制定の経緯をゆがめています。数年前のNHKの番組、亡き菅原文太さんが訪ね歩いた「光は辺境から…自由民権、東北で始まる1〜3」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20120128/1327728573)に詳しいので、ざ〜っと読み直してみました。
この番組で明治の自由民権運動のことや、福島県の苅宿仲衛と親交のあった高知の植木枝盛憲法草案を知りました。薩長の明治政府に対して会津と土佐では自由民権運動が生まれました。明治政府は弾圧でこれを抑えます。しかし、西洋の人権思想の流れを汲んだ自由民権は昭和になって相馬の鈴木安蔵によって発見されます。それが植木枝盛憲法草案です。明治の大日本帝国憲法には取り入れられなかった自由民権思想は、戦後になって新憲法を制定する際、鈴木安蔵らがまとめて改正案としてGHQに提出し、活かされます。そして、もう一人の鈴木は・・・日本国憲法にかかわった二人の鈴木さんのお話です:

二人の鈴木と憲法の青春

 新藤栄一  (筑波大学名誉教授)


 改憲構想が漂流し続けている。森友問題で政権支持率が急落し、民心が改憲から離れ続ける。その時、改憲構想の一丁目一番地「押し付け憲法」論の非歴史性が問い直され、日本国憲法の青春をつくった「二人の鈴木」が浮上してくる。二人が福島出身であった事実は、薩長が作る明治一五〇年とは異質な「もう一つの日本」の姿を示唆する。

 
 一人は鈴木安蔵(やすぞう)。映画「日本の青空」は、高橋和也演ずる鈴木が、日本国憲法の原型を敗戦のがれきの中で同志たちとつくった現実を明らかにする。


 安蔵は、相馬郡出身。京都帝大で川上肇に学び、治安維持法で投獄中、憲法学を独学。土佐立志社の民権運動家、植木枝盛起草の「東洋大日本国国権按」を発掘、大日本帝国憲法とは異質な民間憲法制定への動きを知った。


 敗戦後、安蔵は占領軍民生局のノーマンらと交流しながら、当時の代表的言論人、森戸辰夫、高野岩三郎岩淵辰雄らと「憲法研究会」を結成、憲法改正案をまとめ公表した。総司令部はこの草案に驚き、それを基に占領軍草案を起草した。


 内閣は五回の閣議後、改正原案を発表。戦後初の総選挙をへて帝国議会へ上程された。その後、帝国憲法改正案委員小委員会が発足。委員長芦田均ら十四名の委員が、一九四六年夏、集中審議を行う。新憲法制定の歯車が回り始めた。「もう一人の鈴木」が登場するのは、この小委員会である。白河郡生まれ。東京帝大で吉野作造に師事。二〇年代のワイマール体制下のベルリン大学に森戸と前後して留学。労働社会法学の先駆的実践者として、森戸と同じく衆議院議員に当選、小委員会委員に就任した。


 小委員会で、新たに政府草案に組み込まれた項目は一〇ヵ所に及ぶ。一九九五年全文が初公開された秘密議事録は、憲法の隠された特質を改めて明らかにした。次の三点が特筆される


 第一に「主権が国民に存する」という主権在民原則を「主権天皇」原則に代え象徴天皇制を徹底させたこと。

 第二に、九条一項で戦争一般の放棄を謳いながら、二項冒頭に「前項の目的を達するため」という、戦争放棄の例外条項を加え「自衛のための戦争」を可能にしたこと。いわゆる芦田修正である。
 第三に、新たに二十五条として「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」社会的生存権を新たに制定したこと。併せて高等教育無償化を示唆し、教育立国論の基礎をつくる二十六条を制定したこと。



小委員会で鈴木や森戸はしばしば、ワイマール憲法の理念に言及した。ときにそれを芦田は批判した。


 芦田「ワイマール憲法の結果はほとんど何等実行を収めずに流産してしまった。当時の『ドイツ』の国情にそぐわないものがあったからです」

 鈴木「我々の観察は違う。あの憲法には、其の儘いっていれば『ドイツ』は救われた。いわゆる民主戦線もできず、『ナチス』にしてやられてしまった。

 芦田「だから、日本国民が実行しうる憲法を作っておかなければならない」


 民主化の理念を求める鈴木と、現実を説く元外交官、芦田との対論だ。


国際紛争の解決手段としての戦争」は、一九二八年ケロッグ・ブリアン条約で日本も合意したように、それを容認しない。しかし自衛戦争と自衛力は許容する.そのことを九条二項の修正で委員会は合意していた。


 そして芦田は、新憲法公布と同時に公刊した自著『新憲法解釈』でその真意を明らかにしていた。

 
 こうした芦田と鈴木らとの対論の中に、そして安蔵と義男という「二人の鈴木」の言説の中に私たちは、新憲法に賭けた立法者たちの熱い想いを読み取ることができる。


 いま内閣は、かつてワイマール憲法が、ナチ独裁を台頭させた手法に倣うかのように、特定秘密保護法共謀罪を制定し、「自衛のため以外の戦争」まで認める憲法解釈を閣議決定した。そして緊急事態条項の制定を、憲法九条改定とともに提案する。


 その時「憲法の青春」を彩る二人の鈴木や芦田ら、制憲当時の立法者たちの果たした歴史的役割に、もっと光が当てられてよい。その光が、薩長のつくる明治一五〇年とは異質な「もう一つの日本」の姿を浮上させている。

◎もう一人の鈴木さんが所属した小委員会の『新たに組み込まれた憲法の隠された特質』にはちょっと驚きました。これが加わったことで、戦後の新憲法が今まで持ちこたえたとも言えるかなと思いました。ワイマール憲法に対する評価のやり取りも驚きです。それを今敢えて改悪しようとする安倍政権の憲法破壊行為には改めて怒りを覚えます。