「60年安保 市民たちの一ヶ月」つづき

9/5に放送されたETV特集「シリーズ安保とその時代」の第3回(9/10日のブログ)のつづきです。
 台湾に近い与那国島自衛隊誘致を巡って住民たちが対立しているといいます。
誘致して町の活性化をという人たちと、戦争に関係するものを島に持ってきてはいけないという人たち。安全保障の面でも、自衛隊がいるほうがよいという人と、台湾との関係が悪くなって返ってマイナスという人が。物事を巡っての対立をいかに解決していくかという問題は本当に難しいことです。

この安保を体験した人たちの証言をつぶさに聞いていきますと、当時の高揚した雰囲気がまざまざと蘇ります。全国の津津浦々で立ち上がった人たち。しかし、安保反対と岸内閣打倒とが一緒になって、結果として、安保の議論は為される事がなかったという不幸。

アメリカは岸という人物を十分に利用し、岸信介という日本人は徹底してアメリカの意志を貫徹するためにその役割を十二分に果たして消えました。国民の抵抗を抑えるために自衛隊の出動まで考えていた事、防衛庁側の反対で実現しなかった事を初めて知りました。彼にとって唯一残念だったのは国民的抵抗にあって「アイゼンハワー大統領を日本にお迎え出来なかった事」くらいでしょう。岸信介という人物は表舞台から消えても、その後は日韓関係で大きな役割を果たしていました(「日本と朝鮮半島」シリーズより)。冷戦下のアメリカのアジア戦略完成のために働いた日本人だったのですね。

当時東大助教授で今は名誉教授の石田雄さんが東大教養学部で講義中の映像が流れます(10日付けのブログで洩らした部分)。その講義の中で石田さんは言います、「新安保は内乱条項という非常に屈辱的なものが無くなった、事前協議が入った。確かに改善されたことは間違いないわけですね。だけど、逆に言えば、主権国家として新しい従属を選んだということになるわけです。そこに問題があるんですけどね。

私たち日本人は60年安保が置き去りにした問題をそのまま50年後の今も引きずっているな〜という感慨です。日本の独立か平和主義か。平和主義で独立が一番いいのでしょうが、安全保障の問題はどうなる?というジレンマがあります。平和主義に力点を置くと、9条維持ですが、これは日米安保条約を前提としているという事実を無視できません。
今の状態で、アメリカの「言いなり」から少しずつでも自立の方向へが無難?、小沢さんが言う「対等の関係」を目指すのが現実的かな〜と思いますが、それには明確に「日本の自立=従属」を意識できなければ出来ることではありません。今は岸信介のような露骨な首相は小泉元首相くらいですが、アメリカの遣り方は一段と巧妙、複雑になっていますし、国家権力の行使は警棒振りかざすほど目に見えて暴力的でもありません。その分、国民の意識のレベルが問われるような気がします。無意識に生きていれば疑問を感じないくらい、独立国でアメリカとは仲良しでいいじゃない、となってしまいますから。
このまま片付かないままで日本人は平気という状態が続いていきそうな・・・? それとも? 
民主党の代表戦の結果も関係がありそうな・・・などと思いつつ。

6月15日の冒頭は、今年2010年6月15日、ワールドカップのサッカーの応援に盛り上がっている若者に「50年前の今日何があったか知っていますか?」という質問。女の子が「戦争!」、男の子が「知んないけど〜、ニッポン!!」。 では、後半つづけてみます。

1960.6.15 自然承認まであと4日 国会周辺には10万人をこえる市民が押し寄せた。全学連主流派は、この日を反対闘争の天王山と位置づけていた。
午後3時、国会前にはおよそ2万人の学生が。当時全学連を指導したブント幹部の葉山岳夫さん:国会突入闘争を行って一気にそこで岸内閣を打倒するような大きな流れを作ろうと全学連主流派としての(=ブント)基本方針の下で一致して全力を尽くそうとした。ハガティー事件で全学連反主流派といわれる共産党系の人が運動を盛り上げた事に対する対抗的な意味もあったかな。


午後5時半、学生たちは国会南通用門から突入開始。興奮した警官の一人が学生たちの中に突入、これを切っ掛けに学生たちは火を放ち、堰を切ったように、ロープでトラックをひっくり返したり、戦闘状態に。門をこじ開けた学生たちに放水が始まり、投石も。現場の社会党の江田書記長も制止どころか、手の施しようがない状態に。ついに学生たちは国会内へ。毎日新聞記者歌川令三さん:ワーという歓声、ワールドカップブブゼラみたい、耳鳴りがする、それほどの人数です。当時中央大1年の味岡治さん:デモの先頭はだいたい中大と明治の学生が占めていた。体力というか肉体派。どこかしらケガして帰ってきた。児島弘さん(全学連幹部):強くないラグビー部の奴らが来る。試合は強くなくても警察官よりは強いので、これは面白い! 警察官は当たれば吹っ飛ぶ。色んな理由で来ますよ。


午後7時過ぎ、機動隊が排除開始。警棒使用許可され反撃に移る。江田五月さん:頭割られて血を流しているのが一杯。その連中が口伝えで・・・5,6人死んだぞ〜と。元全学連の一人:歴史に関われるこんな面白いことはない。場合によっては死ぬかも知れない。死んでも良いと思った。当時「安保改定阻止国民会議」事務局長の伊藤茂さん:何百人か学生がケガして30分過ぎに消防庁へ電話して、50人、100人、200人と病院に運ばれた。朝から雨の降る嫌な日でしたよ。国会の敷地にうずくまった怪我人を社会党もわれわれも一生懸命そちらへ運びましたよ。


午後9時過ぎラジオ関東アナウンサー窪田康夫さんは同僚と実況中継中:国会へ着いたら車がひっくり返っている。門の中から担架で何人も担ぎ出されている。そばでマイクを持って喋っていると相当カッカしてるんでしょうね、(警官が)いきなりかかってきた。沢山の人が亡くなったというニュースが入ってきて、これはエライことになったと思った。東大4年生の樺美智子さんが犠牲に横路孝弘(当時予備校生):学生が亡くなったと聞いてから夜駆けつけた。皆、通用門の第一会館の前くらいで、あの近くのところで何かあったのかという感じだった。「翌朝までに学生の検挙者は182人、負傷者は589人。」上京した山形の農家の槙さん:あん時は日本は変わると思った。樺さんが夕べ死んだぞという時行った。その時は自動車も電車も止まって(乗客が)皆、頑張れって手を振って…ああ、日本は変わる、あの気持ちになったら変わらなければならない。あの闘いは一生忘れられないな。


政府にも動揺が広がっていった。岸は終日総理大臣室に、断固たる姿勢で排除し治安の対策を講じるつもり。岸の事態対策に政府内に緊張が走る。市民・学生の排除の為自衛隊の投入を検討していた。中曽根さん:私と赤城防衛庁長官閣議で「心配だ」と発言した。樺さんが亡くなった、これはエライことになるぞと岸さんに強く言った覚えがある。赤城長官は閣議前で話した時は批判的で、自衛隊を出動させる事は反対だと言っており、彼は一貫してやったと思う。
当時赤城防衛庁長官秘書の水野清さん:長官は幹部を招集した。大臣室に事務次官以下、陸幕長、空幕長など集まって話している。一致団結、それはダメです。受けたら大変なことになりますよと言っている。相手は群衆だけど日本人だからね。日本人がずっとワッショイ、ワッショイやってるんだからね。それをね、撃ち殺すことは出来ませんよ。自国の兵隊が自国の国民を撃つということは、それは、できませんと・・・
「結局、国会での自衛隊の出動はなかった。岸は外務大臣を通し米側に大統領来日を断念せざるをえないと伝えた。」

 

6月17日 自然承認まであと2日  国会突入の2日後、これまで安保を巡る運動に理解を示していたマスコミは突如、痛烈な批判を浴びせる。大手新聞7社が「七社共同宣言」で”安保闘争は議会制民主主義を危うくするもの”だと一斉に共同で声明を発表、「流血事件はその事の寄ってきたる所以を別として議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。いかなる政治的難局に立とうと暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許さるべきではない」。当時毎日新聞記者歌川令三さん:議会の議論を暴力で止めることは民主主義に反するわけですよ。言論の自由を保障するのが民主主義。言論機関が言論の自由を保障している民主主義を踏みにじるのはイカンと、・・・新聞の興奮した論調も段々おさまってきたということ。
石田雄(東大助教授):いわゆる知識人の中の人たちのかなりがそっちの方へ行っちゃうワケですね。暴力反対、法と秩序を守れ、議会制度を大切に、ということは院内でやりましょうと。そういう民主主義の理解の方へ吸い寄せられていく、そうすると他方では全学連みたいなのは挫折感をもって、アア俺たちはダメだったんだと。全学連ブントの葉山さん:議会主義を守れ、マスコミ関係も守れということで、運動そのものにブレーキがかかる、そういうことも原因かな〜。


6月18日 自然承認まであと1日  その夜自然承認となるこの日も群衆は最後の抗議のため国会を取り巻いていた。
6月19日 午前零時 日米安保条約 自然承認 4日後、藤山外務大臣マッカーサー大使が批准書に調印
1960年6月23日 日米安保条約 発効 この日、岸が一連の混乱の責任を取って首相辞任を表明
岸信介首相:本日、総理大臣を辞する表明を致します。志と違(たが)ったことも幾たびかございます。さらに国民の多数の人々にご迷惑をかけたことが多々あったことを今さらながら心からお詫びをしたい気持ちでいっぱいです。
中曽根さん:岸さんは前も後も変わらない。樺さんが亡くなった時、内心の葛藤はあったと思うが表情はかわらない。やっぱり色々経験した方だと思った。しかし、最終的には国の前途を考えて自分の責任で責任を取って辞めようと考えたと思う。
葉山さん(ブント):日米安保は絶対つぶせると思って猛烈な勢いで運動していたもんだから、その後の挫折感は大きかった。あの安保闘争で敗北せしめたのは一体誰の責任かという総括が後ろ向きの方向に行われて、四分五裂した点がある。運動が市民を巻き込んで大きくなりすぎた。全学連=ブントのコントロールの範囲をはるかに越えた。指導部層が次々と逮捕され、全体を束ねて組織する指導部がいなくなった。一方では運動はふくらむ。息切れ、手に余った。


「新安保批准のわずか4日後に発刊された週刊誌には「デモは終わった さあ就職だ!」 すでに人々の関心は薄れ始めていた。岸政府を引き継いだのは大蔵大臣だった池田勇人池田首相はスローガンに所得倍増を掲げ、市民は経済成長を目指して再び走りだした。そして、国民所得は7年で倍増を達成した。


当時全学連幹部小島弘さん:あのエネルギーがスイッチして高度成長の方に、それも、まあ、上手く成長したので・・・安保反対ってやったんだけど、結果として、あの運動の中で、1つの大きな社会訓練をした、いい勉強、体験、イベントですよ。当時、歴史的意義なんて解ってやったんじゃない。やってるうちに、結果的になっちゃった。当時全学連幹部篠原浩一郎さん:革命だと、自分たちで組織を作って・・・命の捨て所を失った感じ、70まで生きるとはとても思わなかった。今振り返ってもあのまま死んだって仕方なかった。


「新安保条約はその後1970年に自動延長された。日本はアメリカに基地を提供し、アメリカは日本を防衛するという日米同盟の構造、その根拠となる日米安保条約は冷戦が終わった今日も全く変わることなく日本の安全保障のあり方を規定している。」


石原慎太郎さん(東京都知事・作家):凄まじいうねりって何? あっという間に収束した。つまり、センチメントなんだよ。論理の闘いじゃない。それだったらもっと激しいものが残るでしょうけど。岸さんがね、辞任したら、岸が倒れたで納得した。そんな問題じゃない。首相が退陣しても残るわけだから。未だにそれが続いているわけでしょ。私は、やっぱり、岸内閣もそうですがね、東京のど真ん中に横田みたいな基地がね、2次大戦の戦利品として残っている。そして、日本の政府もオドオドしてものが言えない。私一人バタバタしているから。もう、日本の外務省もみんな逃げ腰でね、この問題について言及することも恐がってやらない。こんな馬鹿な国はありますか? これに通じているのが安保条約だ。あの時分のあの改定は仕方ない、しかし、それ以後、2ステップ、3ステップと改定する努力をしてこなかった。日本は、乳母日傘(おんばひがさ)で、この国はフヌケになった。アメリカのメカケです未だに。


東大助教授だった石田雄さん:やっぱり60年安保のツケが今もある。本当なら安保の時に片付けておかねば・・・つまり具体的に言えばアメリカの基地をどうするかということであり、もっと根源的に言えば、そもそも武力による抑止力というものに依存する事の有効性がどこにあるのか、それに伴う犠牲がどういうものであるかということを本来もっと60年に詰めておかなきゃいけなかったのに、それをしないで、岸が倒れて一応の決着がついたということが今日まで安保の問題を50年経とうとしている一つの重要な切っ掛けになっている。今日から見ると大いに考えないといけない。


「今年、普天間基地移設問題を切っ掛けに日米安保条約に注目が集まっています。半世紀のあいだ置き去りにされてきた安保に対する国民的議論、今度は正面から向き合う事ができるのか。市民たちの闘いから50年を経た今、再び私たちに突きつけられています。」終わり


60年の安保闘争のさ中、圧倒的多数の反対派のなか、異を唱えた学生たちがいた。彼らはいかに安保と向き合ったか、安保に賛成した男たちの半世紀を辿る。シリーズ安保とその時代、第4回 「愚者の楽園 〜安保に賛成した男たち〜」 9月12日(日)夜10時から

◎発言の聞き取りにくい所があり、その箇所の書き起こしには間違いがあるかもしれません。
 大筋に影響は無いだろうと思うのですが、ご容赦ください。