「安保とその時代」第4回「愚者の楽園へ 〜安保に賛成した男たち〜」

 9月12日(日)に放送されたシリーズの最終回です。

50年前の日米安保に反対する闘争の山場、岸内閣打倒のデモ隊が警官隊と衝突した1960年6月15日、その現場から1.5km離れた有楽町で「安保賛成」のビラ配りをしている一団があった。保守派の学生の集まり「土曜会」のメンバー達で、彼らは官庁、企業、の中枢、体制内で自立した国家を目指した。その土曜会のメンバーの忘れられない一人が若泉敬・沖縄が本土に復帰する時、佐藤栄作の密使となり極秘の交渉をまとめた人物です。1996年、「歴史に関する結果責任を取る」と言い残して世を去った。沖縄返還後も米軍基地の負担はなくならなかった。メンバーの一人佐々淳之、「アメリカに依存してるわけでしょ。これは我々が夢見た独立と全然違う」。
「経済的豊かさを追い求めるばかりで、国の安全保障問題に正面から向き合わない戦後の日本。若泉の死の直前に残した言葉が土曜会のメンバーの心に今も棘(とげ)の様にささっている。”フールズ・パラダイス/愚者の楽園」ー 日米安全保障条約、安保は戦後日本のそして日本人のあり方をも決定づけてきました。時代の節目で私たちは安保とどう向き合ってきたか、安保とその時代を4回シリーズで描きます。」
「最終回の今日は60年の安保改定から今現在に至るまでの半世紀を安保に賛成した土曜会の男たちを通して見つめます。」

山根基世さんのナレーションが毎回本編のプレリュードになっています。
今回は、以前放送された若泉敬氏を土曜会のメンバーの一員、安保に賛成した人たちの一人として捉え直しての放送です。
(7月31日放送の「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」は:http://d.hatena.ne.jp/cangael/20100731/1280578806
「時代の節目」は1970年、安保改定の年1960年の10年後、日米どちらかが安保終了を通告すれば安保は廃棄できるという節目の年の周辺です。

在日基地の74%が集中する沖縄は1972年に返還された。そのときの秘密合意文書=「密約」が去年明らかにされた。
「父と、ニクソンさんと、キッシンジャーさん、若泉敬さん、この4人しか知らない文書がこれです」と、カメラの前で佐藤栄作の息子の信二さんが封筒から取り出す。そこに「有事の際には(in time of great emergency)核兵器を再び持ち込む(re-entry of nuclear weapons)ことを認める」と記されている。
この文書に関わった若泉敬、当時の肩書きは京都産業大学教授、は国際政治学者で、「核兵器を撤去した状態」で沖縄を返還する極秘裏の交渉を佐藤首相からまかされた。 福井県鯖江市に1996年66歳で亡くなった若泉敬の墓がある。遺品の一部に60年安保のときのガリ版刷りのビラが。「”安保体制”こそ戦争防止の有効な手段だ」、「ソ連中共の狙いは”日本の孤立化”にある」などと書かれ、岸の改定を支持する安保賛成のビラで「学生土曜会有志」とある。


現在も連絡を取り合っている土曜会のメンバーは60〜70年代に大学生、卒業後、官庁・民間・マスコミの第一線で働いてきた。日米安保の大きな議論では、反対が大前提、常に少数派だった。元産経新聞記者、元読売新聞記者、元三井物産勤務ら各々が当時を語る。(省略) 新聞記者の伊奈さんは「圧倒的多数意見や熱狂的意見は疑ってみる、そこから距離を置いて別の角度から考えてみるーことを学んだ。そういう視点で仕事をしている。」
土曜会がまとめた「安保改定問題ハンドブック/安保改定によせる若き良識の意見」では、改定は必要、改定支持を主張。


当時東大2年の矢崎さん(小岩井農牧会長)「改定では片務が双務になり、自分の国を自分で守る自主防衛の方に近づけようというので、当り前じゃないかと・・・」。東大1年だった津崎さん「当時は敗戦の記憶が濃厚で、経済大国になる前で、極東でひっそり生きていけばよいと言うのに対して、それではダメ!だと野次を飛ばしていた矢崎さんに誘われて・・・」。同じく1年の志村さん「東西冷戦が激化、反対に疑問。アメリカが抑止力を持っていたので、反対はマズイと」。
当時の新聞では「”駒場の右翼”、全学連と対決する」と土曜会を取り上げた。「我々は、中翼とか主翼と言っていたが・・・”アメリカの手先”とか”体制維持”とか言われた」。
志村さんはあの6月15日の国会へ向かう学生を見ていて、その様子を撮影していた。主流派の学生たち6〜700人がプラカードを掲げ学内をデモして、国会へ向かった。この後、あの流血の事態となり、死者が出て、1000人以上の負傷者も。
土曜会メンバーは別の場所、有楽町で「アイゼンハワーの訪日賛成」と書いたたて看板の前で安保賛成のビラを配って訴える。若泉の遺品の中にあったのがこの時のビラで、「新安保は”改善”されている」、「岸への反感から”事態の本質”を見誤るな」と書かれている。
参加したメンバーは「カンパが多いのにビックリした。ソ連に抑留されてひどい目にあった、と1000円カンパする人も。街行く人と議論が始まり、学内とは違うと感じた。賛成の学生もいることをアピールできた」。


「土曜会」は、毎週土曜に開いていた読書会を中心とする集まりで、暴力的な政治運動ではなく知識を蓄え社会の真理を追究したいと政治、経済、歴史、欧米の経済社会科学の専門書から日本の思想家まで幅広く取り上げていた。1950年発足時のメンバーの一人が東大法学部の学生だった若泉。3年の時、1952年6月3日、若泉は毎日新聞に登場する。<「学園の赤い暴力に抗議する」(東大生が本紙に公開状)>という大きな見出し。東大の文化祭で共産党が指導する全学連が学校側の反対を押し切り政治集会を強行、これに抗議した学生が暴行を受け大混乱した。新聞社の取材に応じた若泉は、住所、氏名、顔写真を公開して学内の実態を訴えた。「あの愚かしい事件はすべてごく少数の一部先鋭分子によってたくらまれた発作にすぎない。東大を開放地区にしようとするその赤い旋風から私たちは学園を守るために立上った。」


同級生で中央公論の編集長を務めた作家の粕谷一希さん「過激化する運動と、戦争中の体験が重なり疑問を感じていた。戦争中は本土決戦派だったから、そのときにファナティック(熱狂的)になって、自己反省して、二度とファナティックな行動はしたくないと思っていた。どこまで本気なのか、本来の学生生活を失うんじゃないかと・・・」。初代内閣安全保障室長で初期メンバーの佐々淳行さんは仲間の似顔絵を書いていた、その中に若泉も。福井出身の生真面目な若泉と東京出身で社交的な佐々だったがどこか気が合った。「60年安保の時、若泉は防衛庁の防衛研修所に入り、安全保障の研究者となっていた。私は警察庁入庁で二人とも珍しいケース。治安・防衛・外交に重点を置いて日本再建しなければという主張だった。”体制内改革”、法秩序を守りながら、改革は確実に内部からが信条だった」。


戦後日本を官庁や企業のなかから体制内改革をめざしたが、安保改定には賛成。逆風の中の60年安保闘争は意外な方向へ事態は進む。
反対派の行動へ民主主義を危うくすると言う非難が高まる。1960年6月19日、新安保、自然承認。土曜会のメンバーはアメリカに依存する防衛は一つのステップに過ぎないと考えていた。津崎さん「安保賛成と言っていたが、軍隊を持って日本が独立すればいいことで、日本が独立国家になる過程だと思っていたから、安保は目的でもなんでもない」


1960年6月23日に発効した日米新安保はその10条で、それまで無かった条約の有効期限が新たに加えられた。条約が10年間存続した後は日米どちらかが終了の意思を通告すれば廃棄することが出来る。1970年が次の節目になる。
土曜会は70年に注目し、「国の防衛に関する日本人の自主性」を挙げている。土曜会の「安保改定によせる若き良識の意見」より「わが国は自由主義陣営の集団安全保障体制に国の将来を委ねることになった。この方式はこれでよい。しかし、同時に「自分の国は自分たちの手で守る」という気魄を日本人が持つ必要がある。もちろん日本の防衛は日本だけの手では不可能であろう。それにしても自分たちの手でできる範囲の努力をするという覚悟がなければ日本はいつまでも隷属的な地位から脱却できないだろう」


60年直後、社会人中心に設立された「有志の会」と土曜会は会報を出していた。化学メーカーに就職した福留さん「一方が通告すれば解消できるという選択も自由になる。世界情勢や日本の情勢によって自衛力をどうする」かという問題もあったり、1970年は一つの節目、その時こそ日本の安保をどうするか考えてほしいという思いがあった」。「有志の会」には民間企業、官公庁の役人、政治家など立場が違う130人が会員。その中に大蔵官僚から国会議員になった柿沢弘治がいた。毎月2回集まって安保防衛問題の研究会をもった。60年代半ばから中央公論の編集を担当し、数多くの保守派の論客を発掘した粕谷も加わった。粕谷は6年後に「1970年の選択」という特集を組む。「自分の問題でもあったから。日米関係、安保は、メディアの問題でも、日本社会全体の大きな問題だと思った」。特集には「有志の会」の寄稿を掲載。そのキーワードは「自主体性」=アメリカに従属しない日本のあり方を示す言葉。


論文「自主体性と防衛産業の現実」を寄稿した箕作元秋は自衛隊の装備を自前の軍需産業でまかなえるようにと主張。「技術的にも経済的にも自主体性を持たなければ結局アメリカにおんぶに抱っこという形になっちゃう」「日本の防衛がアメリカのお仕着せで、アメリカの中古技術ばかりもらっているようでは日本の独立どころではないという感覚が相当あった」。しかし、憲法で戦力を持たない事をうたっている日本では自主体制は容易に進まなかった。


60年代半ばアメリカは北ベトナムに攻撃開始。戦争は本格化、在日米軍基地が使われた。反戦運動が広がり、70年を安保が越えられるかが日米両政府の懸案となる。 1965年8月、佐藤栄作首相、沖縄訪問。「沖縄復帰が実現しない限りわが国にとって戦後は終わらない事をよく承知しております」と発言、アメリカ統治下にあった沖縄の本土復帰を政権公約に掲げる。


この時、若泉は防衛庁から京都産業大学に転進。若泉は真の独立の為には沖縄返還は必要不可欠と考えていた。当時のテープで若林の声が流れる:「沖縄の問題は何かと言うと、これは我々日本人の立場からすれば日本の領土問題であり、日本の国民感情の問題であり、沖縄100万人の人たちの人権問題であり、従って当然アメリカに向かって早く返してくれと要求すべきであるし、していい問題だと私自身は考えております」。また、論文「沖縄をめぐる日米関係」のなかで、「沖縄が返還されることによって、日本人の対米依存心を弱め、対米従属のイメージを払拭することにも有効に寄与することであろう」「少なくとも通常兵器のレベルの脅威に対しては日本は1970年代の半ばまでにアメリカに依存することはなく必要な防衛をなし得るだけの自衛力を保持するようにしなくてはならないと考える。その為には国民の自立意識の確立と国民的団結が何よりも重要である。沖縄返還がそれに対して非常に好ましい影響を及ぼすであろうことは疑いない。」


1967年9月、体制内改革をめざす若泉にチャンスが。自民党福田赳夫幹事長から沖縄返還のため協力要請を受けた。
若泉の役割は? 佐藤総理のアメリカ高官への信任状に書かれていたのは「若泉は私の秘密の交渉代理人(my confidential personal representive)」とあり、アメリカとの秘密の交渉を託した密使であった。  つづく

土曜会のメンバーの方たちのお話を聞いていて疑問に思ったのは「体制内改革」という言葉。
安保体制の下で「体制内改革」として「日本の独立」を目指すというのは成り立たない矛盾?ではないのでしょうか。
独立を目ざせば必然的に安保体制内では無理、安保反対になってしまう。体制内改革なら、安保体制の中での条件改善にならざるを得ないような?
60年安保が元の安保よりマシだと評価できるのは分りますが、改定賛成が状況次第で安保賛成にもなりがちで、本当に土曜会が求めているものが分らなくなるような気がして聞いていました。
また、戦争体験の反省が、一方では安保反対に向かい、もう一方では、二度と「本土決戦」などという熱狂的な行動はしたくないと思わせる。人間の振り子運動は避けられず、必ず千鳥足状態でしか前に進めない。出来ればふり幅を抑制して「正しい道」にと思いますが、何が「正しい」かは歴史が判断するので、その時は分らない・・・子育てと同じで、誠実であったか、一生懸命であったか、でしか分らないな〜と思ったり。