シリーズ安保とその時代第4回「愚者の楽園へ 〜安保に賛成した男たち〜」、昨日のつづきです。
今回は、望めば通告することで廃棄も可能な安保10年の期限を迎える70年を控え、沖縄基地返還をめぐる日米の交渉に、佐藤首相の密使として登場した若泉敬が、強かなアメリカの戦略の罠に嵌められる経緯を辿る。
そして、70年安保の時を迎えた日本は・・・
若泉敬氏についてはこちら参照:「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20100731/1280578806)
沖縄返還で最大の懸案は「配備されていた核兵器の撤去」であった。
佐藤政権は非核三原則「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」で日本への核兵器持ち込みを許さないとしていた。
アメリカが核兵器の撤去=核抜きの返還に応じるのか外務省の交渉は難行。若泉はホワイトハウスの意向を極秘裏に探った。
国家安全保障会議の主要メンバーと接触。相手は国防次官補代理、モートン・ハルペリンで、日本側に「核抜き返還には条件が必要」と伝えた。「有事の核の再持込みの話だが、どうしても必要な時には日本が”イエス”という保証をせめて両国の首脳の間で秘密の了解事項とでもしておかないと議会や軍部を説得できない」。
この密約の提示に若泉は「私は気が重くなった。秘密協定など今日の日本で可能なわけがないではないか」。
この頃、若泉の自宅に土曜会の後輩で元外務事務次官の谷内(やうち)正太郎が下宿していた。当時外務省に入省したばかりの谷内には全く知らされず、「食事はほとんどしないで漢方薬を飲んでいた。プライバシーはほとんどなし。何で忙しいと聞くと国事に奔走していると」。
4ヶ月たってアメリカの強硬姿勢は変わらず、若泉は密約に応じなければ返還交渉は破綻すると考えるようになる。
「これなくしては日本の固有の領土沖縄とそこに住む100万同胞は”核抜き”という日本の基本的条件下で祖国に還ってくることはないのだ。このことがいま日本政府が直面している不可避の現実なのだ。」
事態打開のため佐藤に若泉は密約を結ぶように説得。ニクソン大統領の補佐官キッシンジャーと二人で密約を作成。
1969年11月、日米首脳会談 若泉が足掛け3年担当した沖縄返還がようやく合意に。
しかし、若泉はこの中に仕組まれた強かなアメリカの狙いに気づいていなかった。アメリカ国立公文書館にアメリカの沖縄返還の基本戦略を記したTOP SECRETの文書「国家安全保障会議メモランダム(NSDM13号)」がある。それによると、「満足のいく合意がえられれば、大統領は交渉の最終段階で核兵器の撤去を考慮する用意がある。」日付は1969年5月28日。
アメリカが最も重視していたのは沖縄に核を置き続けることではなかった。返還合意の半年前、すでに撤去は決められていた方針であった。当時アメリカ軍では核ミサイルをどこからでも発射できる態勢が整いつつあった。それにもかかわらず、核の撤去の方針を最後まで明かさなかった目的は「日本の軍事基地を朝鮮・台湾・ベトナムの関連において最大限自由に(maximum free)に使用することを希望する」と記されている。
後年明らかになったこの文書を作成した人物は若泉の交渉相手だったあのモートン・ハルペリンだった。ハルペリンの危機感は在日米軍基地を認める安保条約が翌年の1970年に有効期限を迎えることだった。インタビューに答えたハルペリンの証言:「われわれの最大の狙いはアメリカの核の撤去を受け入れる条件として軍事行動のため、できるだけ柔軟な基地使用を日本に認めさせることだった。我々が極東で展開するすべての軍事戦略は日本にある米軍基地に依存していたからです」。
当時、日本では原子力艦船が寄航する度に核兵器が持ち込まれているのではと激しい反発が起きていた。唯一の被爆国の反核感情を計算に入れてアメリカは交渉に臨んでいた。ハルペリンの証言:「日本政府は次第に核問題について神経質になっていった。沖縄から核を取り除く明確な合意をアメリカ政府に強く求めた。日本側を多少不安にさせれば他の問題についてアメリカは有利に交渉を進めやすくなります。」
1972年5月15日、「日米合同委員会文書」 返還当日、日米両政府が交わした基地使用に関する覚書。
duration of requirement(使用期間)→無期限に 返還前にあった沖縄88ヶ所のアメリカ軍基地のほとんどが期限を定めて使えるという取り決めがなされていたが、「無期限」使用が合意された。
アメリカの外交的勝利はアジアでの戦争のために日本の基地をより自由に使えるようにしたことで、返還によって結果的にアメリカは同盟関係をより強化することが出来た。「アメリカに依存した防衛体制から脱却する」と信じて単身交渉に挑んだ若泉はアメリカの外交戦術に屈する事に。
若泉が沖縄交渉に没頭していた60年代後半、日本は経済成長を続けていた。
1968年、GNP(国民総生産)はアメリカについで2位。この年、自民党は来る1970年に安保を自動延長する方針を打ち出した。60年の二の舞にならぬよう野党の機先を制した。この頃、大学内で再び激しい紛争が起きていた。学生たちは授業料の値上げ反対、学園内の民主化を訴えていた。東大では建物を占拠した学生に対して大学側が機動隊の出動を要請。60年安保と同じ激しい闘争を繰り広げた。しかし、学園紛争では日米安保の自動延長が問われる事はなかった。
70年を「次の節目」と考えていた土曜会のメンバーは?
当時早稲田の学生だった吉田さん「安保の関心は60年代とは様変わり。60年は新しい安保に変える、70年は自動延長、一部の人間は危機感を持っていたが、社会全体としては無関心、そこで学園紛争、関心がそちらへ・・・」
東大安田講堂で学生相手に機動隊の指揮を取っていた佐々淳行さんは「過激派の学生の反対闘争をマスコミも国民も我々もそれを鎮圧するのに死に物狂いだった。とにかく全力を挙げて極左の極端な破壊活動を鎮圧する・・・安保いかにあるべきか、防衛省、外務省でやるべきことがおろそかになった。憎悪がそちらにいって日米安保はどうでもよくなった。まともな話してないもん」。
朝日新聞で経済記者だった志村嘉一郎さん「70年安保の記憶は全然無いです。とんで歩いていたから」。
津崎渉さん「憲法9条を変えて防衛体制を強化すると言う目標があった。そのため、政治家を志望したことも。しかし最終的に公務員、法務省の中で70年を迎えた。ジレンマだらけ。若泉は期待はしてくれていたと思うが、学生時代に考えた事は実現したいというのがあったがのは当然だが・・・」。
これ以降、安保が自動延長を続ける中で安全保障を巡る国民的議論が高まる事は無かった。
アメリカの軍事力に依存する体制から脱却し日本を真の独立国にしたいという土曜会の目標はとげられなかった。
1994年、それから24年、日本経済が失速し始めた頃、一冊の本が出版された。「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」。
「 核抜き返還」を巡る若泉の交渉、密約文書の中身、そして佐藤総理との会話。
若泉の詳細なメモを元に沖縄返還交渉の一部始終を600頁にわたり記した。 つづく
アメリカの強かな外交戦術、「日本を多少不安にさせれば他の問題で有利に交渉を進めることが出来る」。
密約問題では、長年自民党政権はシラを切り続け、「無かった事」にして済ませてきました。
若泉が命を賭けて「結果責任」をわが身に問い続けた外交上の苦い失敗から日本(外務省)は学んでいるのでしょうか?
若泉が世に問う書は、如何に受け止められたか・・・・、その後と若泉の死までを最後に。