ウィーンフィルのニューイヤーコンサート

毎年楽しみに衛星中継でウィーンフィルの新年を迎える演奏会を見ていますが、今年はWメストファンとしては格別です。
昨年は5月にチケットを取ってもらったファン仲間のEさんとサントリーホールクリーブランドを振るメスト氏の「英雄」を聞きました。そのEさんの年賀状には「お互いに念じていたコンサートで今年の幕開けですね」と書いてありました。彼女は、恒例の娘さん一家のお年賀を受けた後、夜は一人でジックリ聴きたいので…と言ったら、娘さんが察して一人にしてくれることになったけど・・・小学生のお孫さんが「ボクも聴きたい」というので、二人で聴く予定と、暮れにお電話で仰っていました。
さて、私たちが念じていたというより、18年前に日本デビューを果たしたフランツ・ウェルザー=メストさん、オーストリア出身の指揮者として、その当時から世界の期待を背負っていました。押入れの天袋にしまい込んでいたファイルの中から懐かしい切抜きを取り出しました。両端の日経新聞の切抜きの日付は1992年3月14日です。真ん中の雑誌の切り抜きは慶応大学の学生オーケストラを訪ねた時のものです。私はその頃中学生の英語のお相手をしていて、メストさんの言葉「私たちは失敗するかもしれないが、挑戦して新しい何かを創造しなければならない」という英語「We may fail, but We must try and create something new.」をカレンダーの裏に大書して貼っていました。ロンドンフィルの音楽監督としての意気込みが窺える言葉です。
当時の様子を「音楽の友」92年5月号から引用してみます。

今回の来日公演、分担して指揮するはずだったクラウス・テンシュテットがすでに東京にやって来ていながら、急病のため公演の直前になってキャンセル、帰国してしまうアクシデントがあり、ウェルザー=メストは、全公演を一人で引き受け、3月2日から9日までの8日間に東京、大阪、日立で合計7回指揮台に立って文字通り連日連夜の大活躍。もともとテンシュテットが振る予定だった<巨匠級>のプログラムをそのまま引き継いだベートーヴェンの<田園>と第5交響曲では、音楽のつくりや音の重ね合わせ方での新鮮なアプローチと、オーケストラを燃え立たせる天性のテンペラメントで強く聴衆にアピール。最終日のブラームスの第2交響曲では、生き生きと躍動する生命観溢れる音楽でサントリーホールを沸かし、待望久しいドイツ・オーストリア系の天才指揮者の登場を強く印象づけた。
 日本でたった1日切りとなってしまった貴重なオフ日、ウェルザー=メストは、慶應義塾大学の日吉キャンパスを訪れ、同大学ワグネル・ソサェティー・オーケストラを指導。ブルックナーの第7交響曲をリハーサルした。(文・岩下真好)

日本で1日の夜7時15分から始まるコンサートは、現地ウィーンでは、2010年の大晦日31日の夜11時15分。
第2部の開始の9時15分は、現地では2011年の1月1日の0時15分です。

私は25年間、外国で指揮活動をしてきました。ウィーン風でないオケに対して、この特別な音楽言語を伝える事に苦心しました。「方言」を正しく話すオケと音楽的対話をするのは、ホッとした気持ちです。たとえば外国で同郷の人に偶然再会したような気分です。子供の頃から育んできた感情が呼び起こされます。ヨハン・シュトラウス一族やランナーの音楽は何かしら人間的感情を表しています。それは喜びや悲しみと関係があり、同時により深い感情とオーストリア特有のメランコリーを表していて、そこでは笑いと涙が同居しているのです。(ウェルザー=メスト

途中、新年早々、アルゼンチンの音楽を聞いてきた息子が帰ってきて、「メストさん、年取ったな〜」と、自分のことを棚にあげてですが。「音楽はやっぱりローカルじゃなきゃ」とも。解説の山崎睦氏も仰っていましたが、ウィーンフィルのこのニューイヤーコンサートも元々は大変ローカルなものでした。それが評判になって、世界のお金持ちや音楽ファンをひきつける様になりました。
ウイーン国立歌劇場の音楽監督オーストリア生まれの指揮者が登場するのはカラヤン以来46年ぶりといいます。ローカルであるからこそグローバルになるということを証明し続けて欲しいと思います。
来年のニューイヤーコンサートの指揮者はすでに決まっていて、マリス・ヤンソンスさんです。