(女性のための)脱原発最適小冊子

夫の山の歌仲間のIさんは、昨年、お母さんを亡くされた後の石橋での励ます会に私も顔をだしたり、千里中央の山仲間の会で叉お会いしたりで、お顔なじみです。先日の広河隆一の「核の大地」の写真集もこの方の本でした。
手元に、かわいいリーフレットがあります。水野スウさんという方の「いのちの未来と原発と〜3・11後のわたしたち」です。
山に出かけている夫に代わって私が先に読みました。Iさんのお薦めの手紙から:
「冊子、勝手に送りつけてすみません。先日お渡しした楽譜「贈りものの言葉」の水野スウさんの出来たての小冊子です。 若き頃、同世代で原発の事を考え、行動されていたと言う事を知り、早速送って頂きました。
むづかしい学者さんの話と違って、スウさんらしく柔らかく、そして芯も持った語り口で、”大切な命”の原点を語ってくれていると思います。叉、娘さんの若い方からのコメントも入って、どなたにも分りやすいのではと思います。」

水野スウさん、石川県金沢の隣町・津幡(つばた)19年在住の主婦で、チェルノブイリの事故後、と私が説明するより、ご本人の文章で読んでみましょう。その間、ずぅ〜と仲間(紅茶)を募って、勉強したり、講演したりの活動をやってこられたようです。「東京調布の不思議なレストランこと、クッキングハウスにお話の出前に出かけるようになって7年目」とか。

 チェリノブイリ原発で爆発が起きた25年前、私は、当時3歳の娘の母親だった。ある人の講演を聞きに行って、原発事故のおそろしさにふるえあがり、ハンゲンパツに火がついた。その頃の日本の多くのお母さんがそうだったように。
 紅茶は毎週、ちいさな子を持つ母親たちであふれていたので、その恐怖も一気に伝染した。でも恐怖だけでは長続きしない。やっぱり勉強しなきゃ、もっと知らなきゃ、と自分でも、また仲間たちとも、たくさんの本を読み、講演会を聞きに出かけ、情報の共有がはじまった
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 テレビと新聞からだけじゃ、ほんとうのことは見えてこないんだ。テレビによく出てくる専門家という人たちの話もなんだかあやしいぞ。私はもっといのちの側に立った情報を知りたいし、仲間たちと勉強したこと、自分の頭で理解できたことだけでも、せめてまわりに知らせたい。それなら自ら発信すること、小さくても自前のメディアを持つことだ。そんな私のきもちの流れの中で、いのみら通信(冊子「いのちの未来に原発はいらない通信」)が生まれてきたのだった。チェリノブイリから2年目の春、1988年4月のこと。
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 たとえ事故が一度も起きないとしたって、原発はつねにヒバクシャを生み出すシステムだということ。燃料のウランを地中から掘り出す場面で、年に一度、原発をとめて定期点検工事する原子炉建屋の作業現場で、・・・・・・・・・略・・・・ 使用前、使用中、使用後、のどの場面を切り取っても、誰かの被曝を前提にしなければ原発は動かせないのだった。
 その誰かは、たいていの場合、弱い立場の人たちだ。原発労働者、と呼ばれる人たちの存在にも、電力会社の社員よりずっと多くの放射線あびるその働かされ方にも、それまで関心を持ったことはなかった。私から見えないたくさんの人たちに被曝を強いる、ひどい差別構造の上に原発はのっかっていて、その一番上の方に、私の便利な生活があった。
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 チェリノブイリ事故による放射能は、事故後ほどなく8000キロ離れた日本にも飛んできて、ビニールハウス栽培のものより路地物の、しかも有機栽培の作物の方が、そして輸入された飼料よりも大地の牧草を食む牛たちの乳の方が、より汚染された。
 25年前のことが、まるでデジャブみたいに今、日本で起きている
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 原発はいのちと共存できない。あの時そう確信した私にとって、原発に反対する理由は、もうこれらで十分だった。<略>

 1から10まで原発のこと、科学者並みにわかってないと原発やめようと言えない、っていまだに私は思わない。20数年前よりも原発についての知識が少しはふえたと思うけど、それがいったい何ほどのことだろう。東京電力原子力発電所が事故をおこし、あの中で一体何がどうなっているのか、どうやって核をなだめ、おちつかせたらいいのか、どんな専門家にも学者にも電力会社の人にも政府にも、誰にもわかってない、ということがもうみんなにわかってしまったのだから、私がわからないってことはちっとも恥ずかしいことじゃない
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「ちょっと長いつけたし・・・」から:
 私の出前先は、ごく小さな集まりがほとんどなので、来れなかったお友だちへのおみやげにするもよし、聞いてくださった方が、あとからもう一回読み直すもよし、時には封筒に入れて遠くに飛ばしてくださっても。そんふうにこの小々冊子を使っていただけたなら、私はとってもうれしいです。

やさしい言葉で書かれていますが、原子力発電がなぜダメなのかの理由がしっかり書かれています。(略した所が残念ですが)
あの時、3歳だった娘さんが、「ともに考える場を」と題する文を寄せています。

 原子力発電の問題は、おそらくお金とはきっても切り離せない。推進派には、原子力発電があることで利益を得ている人もいるのだろう。だけど、それに異議を唱えることで、研究のお金をもらえなかったり、教授になれなかったり、テレビに出してもらえなかったり、白い目で見られている人たちには、いったいどんなメリットがあったのだろうか
 私自身は、声を大にして「原発反対」と言ってこなかった。母の活動を近くで見ることで、そのむくわれなさに、無力感のようなものを感じ、自分が深く立ち入る勇気がなかったんだろう
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 だけど今私は、自らが選択してきた態度は、やっぱり違った、って思っている。原発を使わない暮らしが理想論だとするならば、原発で事故は起こらない、絶対安全だということもまた、理想論なのではないかと、いまさらながらに気づいたからだ。たとえ自分に、明確な答えが出せなかったとしても、「本当のところを知りたい」と、私は声をあげなきゃいけなかったんだ。
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 私は今、新しい選択の入り口に立っている。そのことを、ちゃんと自覚していたい。目の前の事態に恐れおののいて、思考を停止させてしまいたくない。それこそ、そんな場合ではない、と思うから。

最後に”Please Open" と書かれて、「ちきゅう」と名づけられた一枚のキルトの写真が畳まれています。
22年前の1991年に安宅路子さんという方が一人で縫われた作品です。
実はそれより以前、この安宅さんが、デモや署名以外にも、原発に対して意思表示が出来たらと、「かざぐるまフレンドシップキルト」を考案。100人が思い思いのメッセージを縫いこんだキルト100枚を縫いつないで、4人分のキルトが合わさるところが4枚の羽のかざぐるまになっているーたて横2mの大きなキルトが仕上がりました。通信のふろくにつけたキルトの型紙で、脱原発を願う各地の人たちが自分たちの地域でかざぐるまキルトを縫いはじめて、最終的には1万人以上の人がこのキルト作りに参加したそうです。
 その2年後、金沢でかざぐるまキルト展を企画した時、安宅路子さんが一人で縫い始めたキルトが、この「ちきゅう」。チェリノブイリから5年目の春に完成したキルトに水野スウさんが文章を添えました。

 1メートル50センチのまぁるいキルト、「ちきゅう」を拡げるたび、胸の奥に何か熱くなるものを感じて、私はとてもやさしい気持ちになる。このキルトを一人で縫い上げた安宅路子さんの、”地球のこと、愛しているよ!”という想いが、キルト全体から、そして一針ごとの縫い目や、一つ一つの小さな布からずんずんと伝わってきて、それが私自身の想いとぴったり重なっていくせいだと思います。


 「ちきゅう」は、まるで大きな一冊の絵本のよう。宇宙空間と、時と、いのちの流れを結び、そこに自分の想像力をかけあわせることで、いつまでも読み終わることのない、その人だけの物語の世界が広がる − 「ちきゅう」はそんなことを感じさせてくれる、不思議なキルトです。

キルトの作者の安宅さんは、「改訂版のあとがき」によりますと、入院中の3月の原発震災後は、チェリノブイリを知らない若いナースさん相手に原発のレクチャーをしたり、水野さんの本「まわれ、かざぐるま」をプレゼントしたり、ドクターと原発について話したり、「院内脱原発運動してるんだ」と言っておられたたそうです。水野さんが10年ぶりの原発のお話の出前に、あの「ちきゅう」を貸してね、と頼むと、「あんな昔に作った『ちきゅう』が必要になるくらい現実は悲しいけど、今の自分にも出来ることがあるってすっごくうれしい」と言っていた安宅さん。「次は、『ちきゅう』入りの改訂版をつくるからね」と書き添えて初版の一冊を送ったその日、路子さんは逝ってしまいました。」
「いのちの未来と原発 −−3・11後の私たち」
2011年6月25日 初版第一刷発行
2011年7月15日 改定版第一刷発行
定価      ¥250
著者      水野スウ + ちょっと中西万依
発行      紅茶の時間
        石川県河北郡津幡町津幡ケ21ー17
        076−288−6092(TEL)
        076−288−6093(FAX)

いのちを生み出す女性ならではの直感と感性で、25年前から脱原発の運動を続けていた方たちがいたのですね。
その声は私には届かなかった。私にアンテナが無かったせいでもありますが、原発反対を唱える人たちが世間で白い目で見られたり、また、娘の万依さんが書いているように「脱原発派の放つ怒りのエネルギーが、一般人を原発議論から遠ざけてしまった」という理由だったり。
でも、やはり、一番の理由は、安全神話を振りまく勢力が国がかりで、あまりに巨大で、巨額の資金がつぎ込まれていた。その圧倒的な力に、反原発脱原発の声はかき消されていたと言った方が当たっていそう。