「原発事故への道程」(前編)つづき

ETV特集原発事故への道程〜置き去りにされた慎重論〜(前編)」(9/25)のつづきです。

正力松太郎が立ち上げた原子力委員会が「時間の掛かる基礎研究はしない」を旨として、研究者の代表として正力が参加を望んだ湯川英樹を憤らせたその時点から、日本の原子力導入の基本的なあり方が決したかのようです。
委員長の正力松太郎の頭の中に、そもそも科学とか安全性とかは、なかったのです。言葉通り「中身はワカランが、やる必要がある」で、”巨人、日テレ、次は原子力”でした。
その後の70年代の原発大量建設まで、巨額予算に群がる商社やメーカー、マスコミ、御用学者と、福島原発事故までに至る基礎がここに出来上がる過程がとりあげられます。その主要な条件が「経済性」であり、「安くあげる」ことのみが政治主導で求められました。
その結果が、東京電力の福島原子力発電所です。製造国のアメリカで設計者が問題ありと告発することになる、コストを重視したあまりのあの小さな格納容器では安全性に問題があるというマークI型の原子炉導入です。ジェネラル・エレクトリック社のターンキー契約という”あなた任せ”の原子炉を導入した東電元副社長は、津波による全電源喪失を引き起こした地下の非常用ディーゼル発電機の存在を事故が起こるまで知らなかったのです。事故後、NHKの担当者から設計図を見せられて、「知らなかった〜。どうして、誰も気付かなかったんだろう〜」と。今回の番組では、その後、「任せっぱなしがよくなかった」とも発言しています。
それでは、メモにしたがって前編の後半を(参考:8月21,23,24のブログ「アメリカから見た福島原発事故」)

正力松太郎原子力担当大臣になり原子力委員会委員長に就任し、科学的観点軽視のまま原子炉導入が進められる。
科学者が去っていったのと入れ替わりに新たな集団が続々と参入。何ヶ月かの間に旧財閥系の商社など5グループがそろった。
通産省官僚の島村:「商社が先に動いて火をつけてね、これが本当に面白い現象なんだ。技術導入もいかない先に商社が」
三菱商事浮田:「昭和22年、三井物産とともに財閥解体にあい破産を心配するほどで、要するに、商事としては世界的視野でものを考える力を失い、その日暮らしになっていた。そこへ昭和29年、原子力の国家予算がついて、新聞の論調や学界の方も原子力ムードが出来、相当強い刺激になって、少なくとも三菱グループ原子力について勉強しようじゃないかという機運が生まれた。」
住友グループ(住友原子力工業)の佐々木は:「臨界実験って何?ぐらいの知識もないくらいで、何をしていいかわからない。ただ、三井、三菱、日立もやるよ、とじゃ我われもやるか。バスに乗り遅れるからやるが正直なところ。」原子力導入は大きなビジネスチャンスとなってメーカー、建設会社、銀行とわずか一年で日本の主要企業がなだれをうって参入。


正力は政財界の結束を図る準備として、経団連会長の石川一郎を筆頭に66人を網羅した財界大物を集め、1954年4月28日に原子力利用懇談会設立、工業倶楽部で発会式を行い、正力が代表に選ばれた。原子炉の早期導入を実現させる為の組織であった。
こうして導入された日本発の原子炉が茨城県東海村にある日本初の研究実験原子炉第1号・JRRー1です。原子力発電所の建設に向け技術習得・人材育成を目的としてアメリカのメーカーから購入した。
何もかも未知の技術である原子炉のため、技術習得に各企業は1から学ぶため多くの社員を出向させた。
日立製作所のエンジニアであり、JRRの建設から運転の総責任を任された神原は:「メーカーから何人か、日立からは私を入れて3人くらい出向した。三菱、東芝からも2,3人づつ、相当いろんな人が集まって、とにかく1号炉、2号炉は(燃料は)濃縮ウランでやると決まってアメリカから買うことになっても運転員がいない、建設する人がいない。」



1967年(昭和32年)9月18日、第一号の実験原子炉JRR-1が運転開始。しかし、開始直後からトラブル続出で、手探りの対処にあたらねばならなかった。
JRRの運転に携わった日立の神原の発言:「ジャンク屋でリレーを買って代用したり、今では考えられないし、ゆるされないだろう。」 その神原の下にいて大学の工学部を出たばかりで、JRR-1の運転に携わっていた佐藤:「ようこんなところでやったね〜という感じはありますね。あるとき原子炉建屋の中が地下水であふれたことがあって消防団からポンプを借りてホースをたらし必死でポンプを突いた。その時、後で聞いたら、土地の人が『ようこんな所で建てたね。砂地なのに、松林がある。あそこは地下水の水脈に当たっていて、松林が茂っている。見りゃ分るはずだ』と言われた。」 
現場の混乱をよそに、ビジネス界は活気付く。
三菱商事は次の研究炉の契約を獲得。研究炉CP-5の契約を獲得した三菱商事浮田は:「研究炉CP-5の契約が強い刺激剤になって三菱グループ全体のジャンプ台になった」。その後も次々と納入して、三菱商事は日本有数の原子力関連企業となっていく。その頃、浮田の妻は夫から仕事の裏話を聞いて、その特殊性が気になり始めていた:「放射能原子力を商売にして、怖い、いけないと思いましたよ」。
安全性をどう確保していくかを主体的に考える存在はまだなかったのである>とナレーション。



研究炉の導入を実現させた正力原子力担当大臣の次なる目標は商業用原子力発電所の建設であった。
その母体となった日本原子力発電株式会社(原電)を設立する。正力の指導の下、民間出資8割、国から2割で1957年11月に設立された。
原電が導入を検討したのがイギリスのコールダーホール型原子炉であり、その魅力はコストの低さであった
前年の1956年10月、世界最大の原子力発電所が運転を開始していた。正力は「コールダーホール型をいれると火力の値段に匹敵していく。原子力はこれから段々安くなるのみ、火力は安くならん」と豪語。しかし、官僚からはコストを計算しなおしたら、コールダーホール型は日本では高くつくことがわかった。
通産省の伊原:「イギリスは石炭が国有化され値段が高かったので火力発電は高く見積もられていた。日本はアメリカの燃料効率の高い最新式の火力発電を輸入したところで、コストは大幅に下がっていた。あえて原子力発電導入のメリットはないと考えた。」
そのうえ、イギリスでは燃料が燃えた後に出来るプルトニウムを政府が核兵器の原料として買い上げていた。その売り上げを上乗せされていたのを知った。日本ではそういうことはありえないわけです、プルトニウムから核兵器なんてことは。そういう面からも勘定が合わない。正力大臣に、『イギリスでは採算が合うでしょうが、日本では採算に乗りません』と報告しました。正力大臣には『木っ端役人は、黙ットレ!』と言われ、それで終わりました。」



しかし、その後、より深刻な問題が発覚した。コールダーホール型原子炉には耐震設計が全くなされていない事がわかった。
コールダーホール型原子炉では、核分裂の速度を抑えるためにカーボンブロックを使っている。このブロックは積み木のように積み上げるだけの造りになっているので、もし地震で崩れれば炉心溶融を起こす可能性があると指摘された。
当時、東京大学核研究所教授の藤本陽一は、参考人として召致された国会で、コールダーホール型原子炉が大量の放射能洩れの危険性があると証言しています。藤本は当時を振り返って:「イギリスはあまり地震がない国ですから、グラファイトを積み上げただけでいい。日本はそういうわにはいかない。耐震性をどうするかが大問題だったように記憶します。すぐに飛びつく理由は何もないのではと申し上げました。」


指摘を受けた国の原子力委員会は急遽科学技術庁に安全対策の検討を指示。支持を受けた官僚たちは直ちに安全対策の立案に乗り出した。しかし、ジックリ研究することより、急いで結論を出すことを求めた。元通産省の伊原:「安全第一より、進め進めでしたね」。
通産省の島村:「コールダーホール型をいれるとなるとそっちへわーーーと行っちゃったでしょ。後のことを考えないうちにみんな既成事実でできあがっちゃった。あのどさくさの間に全ては決まっちゃった。決めたと言うのではなく、決まっちゃったという気が・・」(エエーッ!? 耐震性は? 決めちゃうの? 決まっちゃうの〜?=蛙)住友グループの佐々木:「しょうがないんじゃないですかね。現実 振り返ってみるとね。」



1966年7月、3年がかりで耐震対策を施し、ようやくコールダーホール改良型原発運転開始にこぎつけた。それが東海発電所です。国内初の商業用原発は、送電開始早々、原子炉の緊急停止にみまわれた。その後も様々なトラブルが相次ぎ、修繕や点検に1億〜6億円もの巨額の費用が必要とされた。東海発電所の総責任者だった日本原子力発電社長の一本松は手記にこう記している:
「日本では原子力の経験が浅く、原子力発電も火力のボイラーが原子炉に代わったくらいと考えた。 
しかし、両者は多くの異質の要素をもっていることが漸次(ぜんじ)明らかになった。
考えてみると、これだけ複雑な新技術、未知の工学分野に挑んで、しかも、利潤をあげるというは無理であろう。」

東海発電所は、建設費と修繕費の増加から発電コストが当初の見込みから大幅に上回ってしまう。<この経験から今後の導入計画ではコストが厳しく問われることになる



1994年夏の島村研究会で招かれたのは東海に出向いて設計から建設まで携わっていた当時民間電力会社(東電)の副社長豊田正敏:「”経済性”−コストを安くしないと他の電源に太刀打ちできないので、(元官僚の島村に「豊田さんはいつも頭の隅に”経済性”を置いていた」と言われ)いつも頭の真ん中に置いていた。」
東電は1960年代の初めに原発の運転を計画していたが、東海の現状を目の当たりにして建設に踏み出していなかった。一方、国は原発を大幅に増やすことを目指していた。1961年に国は「原子力長期計画」を発表、今後20年間で増やす発電量の10%を原発で賄うつもりだった。
当時、高度経済成長期を迎えていた日本は、毎年10%の勢いで電力需要が増えていたので、国は原子力を本格的に普及させることに。
こうして、原発導入に積極的な国と、慎重な電力会社、という両者の大きなギャップがあるなか、アメリカでは新たな形式の原子炉が開発された。


1960年7月、アメリカで高出力の「軽水炉」型原発運転開始。出力が大きく建設費が低額なため日本の電力会社も注目した。アメリカのGE社が主催するツァーにこぞって社員を派遣した。ツアーに参加した関西電力の板倉はアメリカのメーカーの歓迎振りを覚えていた:「お前たちは”potential cusutomers(潜在的顧客)”だと一生懸命サービスした。各電力会社から、2,3名づつ計10何人かが参加、東北電力からは当時若かった矢島さん、社長にも会長にもなった人ですね、そういう人たちがサンフランシスコに集まって、各電力会社の首脳が早く原発をやりたいという雰囲気になったんでしょうねぇ〜」。



日本の電力会社を最もひきつけたのがこの時アメリカ側が提示してきた契約方法、ターンキー契約だった。
1966年、東電とGEの契約成立。その契約の場に居た元東電副社長豊田:「決め手は経済性。スペインから発注を受けているのと同じものにすれは、設計図や他のものも使いまわせるので安く出来ると。ターンキー契約というのは建設から試運転まで全ての責任をメーカーが負い、受け取ったキーをひねるだけで運転できるという。安く出来る、かなり安く出来るという経済性からGEに。」
GEが初めて量産型として開発したマークIでしたが、外側の格納容器が小型なため建設費が安いというのがセールスポイント。
コストの安い軽水炉の登場が電力会社の原子力発電所建設に踏み出す切っ掛けに、しかし、この時、政府内部では方針転換が図られていた。


そのことが1994年夏の研究会で語られている。通産省の坂口:「軽水炉に関しては国はお金を出していないですよね。
元電力会社重役:「昭和42年ですね。あの時に、これは言うとまずいかもしれないが、軽水炉は売り込みもきているからそっちの方へお金を出さなくてもいいだろうという説がある有力な筋から来て、それでそちら(軽水炉)は切ってという経緯があるんですよ。時がたつとみんな忘れちゃってるんだけど基本はそこにあった。」
この時、国は将来原発が増えていくことを見越して原発から出る使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを燃料とする高速増殖炉や重水炉を考えていた。国はこの新たな形式の原子炉の開発と核燃料サイクル計画に原子力予算を重点的に配分することにしていた。


元電力会社重役:「次は再処理の問題だというので、そちらへお金がずっと流れ始めたような記憶がある。」
通産省の谷田:「あれも非常におかしな話で国が出しているお金はほとんどが高速炉か重水炉の関係に」、「そっちの方がネタとしては大きいでしょう」、「そのほかの新型炉や(核燃料)サイクルにいってる分が2千億円とか一桁ちがいますよ」
通産省の島村:「基本的な方針がないから何に使っていいのかワカランという問題があるんじゃないか。」発言者不明:「だから無駄な金を二重三重に使ったような感じがないでもない。」、谷口:「原子力の場合は最初から電力と政府の綱引き、政府内部の科学技術庁通産省の綱引きと、その中で非常にゆがんでる気がしますね。」政府の方針転換によって電力会社は軽水炉の建設にあたり国の資金面の援助を望めなくなっていく


経済性を追求した結果、東電が福島第一1原発建設でやったことが、台地を削ることであった。冷却水となる海水を35mまで引き揚げることは不可能。ターンキー契約は一括契約であったためポンプ変更の追加要求は受け付けてもらえないと考えた。(蛙=ところが、前回のETV特集アメリカから見た福島原発事故」では、元GE原発部門幹部が「日本の仕事は良いビジネスでした。日本人はとっても良い人たち。設計変更で契約にないコストが発生しても説明すれば払ってくれた。アメリカでは一旦契約を結ぶと規制の変更などでコストがかかっても払ってくれません。契約に入っていない変更はGEが支払うべきとされ、GEの原発ビジネス(フルターンキー)はアメリカでは赤字でした。しかし日本ではもうかったのです」と発言していました。要は交渉次第だったということです。地震津波のことを考えてGE社にポンプの変更を要求していれば、もっと高い台地の上の原発は少なくとも津波の被害は受けていなかったということになります)


元東電副社長豊田:「こちらが出したらねー追加費用を要求しますよ。向こうに任せてるからやってくれる。」(と、まだ思ってらっしゃる=蛙)
ターンキー契約の盲点は他にもあった。GEの設計には非常用電源のディーゼル発電機が海側のタービン建屋の地下に設置されることになっていた。これも見直しが行われることなく設計図面通り建設された。
1971年3月、福島第一原発営業運転開始。経済性を重視しターンキー契約で建設された福島第一原発はその後ディーゼル発電機の位置は変更されることのないまま事故の日まで運転を続けてきました。



元東電副社長豊田:「ターンキーで少し任せっぱなしにした点はありましたね。それが、ディーゼルタービンの地下にあったことに、気付かなかった。わたしだけじゃなくって、誰も気が付かなかったというのも、どうかな・・・と思うんですけど、ともかく・・・」。


日本への原子力発電所の早期導入を国策として進めた国と財界、基礎から研究すべきだと言う主張を退けられた研究者、経済性を優先せざるを得なかった電力会社、それぞれの思惑のなかで、ひとり置き去りにされたのが安全性でした。


島村研究会でも日本の原子力政策の欠陥について語り合っていた。
通産省の島村:「大きな方向というものがない、どこにも。電力会社は将来をどう思っているのか、その辺もはっきりしない。メーカーも言われれば作るだけ、こういう風にこういう方向に進むべきという意見は日本のメーカーから出てこない。政府も叉原子力委員会が基本計画を立てることになっているけど従来決まっているなかに情勢の変化を少し加味するくらいの程度、抜本的なことを考える事態にない。」
日本原子力研究所の研究員:「輸入技術だから日本のメーカーは基本を知らないのじゃないか。日本のメーカーも自信がない。昭和40年代はそうだった。基本をかっちり固めて軽水炉ができたのはなくて、それまで大したことをやっているとは思えない。出来た技術でそのままになっている部分が結構あって、そうじゃない部分についてこれでうまくいってるからということで基本が解明されていない部分が残っているんじゃないですか。ただ、そんなことを言い出すと、今更そんなことがわからなくて何をしているのと叱られるのが非常に怖いから誰もよう言い出せないというのが残っているんじゃないですか」。  前編 終わり

チェックを兼ねて見直したら、録音テープの中で話しているご本人たちの言葉(本当は喋り方もですが)の再現が大切かなと思い直して書き起こし(書き写し?)に近くなってしまいました。今となっては、湯川英樹さんが話されたことがどんなに大切だったかが本当に良くわかります。ところが、官僚たちにとってはその湯川先生の辞任の理由が分らないのです。元通産省のお役人は、「学者らしい生活と相容れなかったから嫌になった」とか、「原子力のことは、いいのか、悪いのか分らない、責任が重いのに分らない、よきに計らえが出来なかった」と辞任の理由を推察しています。何と的外れな!!
「専門家の意見を重要視しなければならない分野であるにもかかわらず、政府にはそういう理解がなかった」という東大原子核研究者の藤本陽一さんの言葉が重い。

当事者である東電の副社長ですら設計図も見ておらず、”地震津波も米国並み?”という、日本の自然を無視した、他人任せの「ターンキー契約」でした。
原子力」が水力や火力とは全く違うという意識すら欠如しているのはどうして?と本当に不思議です。ここまで安全神話の魔法がかかっているかと思うと、あの一大キャンペーンの凄まじさの威力と効果の絶大さが怖いほど。その間、事故も続いていたし、少ないとはいえ反対意見を述べる科学者や反対運動をしていた市民がいたにもかかわらずです。コストを要する安全対策については考えたくないという心理も働いて、安全神話に「洗脳」されていた方が楽という面もあったのでは。福島原発事故以後の今、その責任、業務上過失は、問われて然るべきだと思います。(「後編」は10月20日