古き良き江戸時代(「微笑みの国の物語」を見て)

NHKハイビジョン特集で、中村梅雀さんが案内役の番組、「にっぽん微笑みの国の物語/時代を江戸に巻き戻せば」が4,5日連続で放送されました。
番組のタイトルからして秋に読み終えた「逝きし世の面影」が下敷きになっているのではと思っていましたが、あの本にもたくさん引用されるイギリスの女性旅行家(当時からすると旅行というより冒険家のほうが当たっているかも)、イザべラ・バードの旅行記を取り上げた番組(4日分)でした。(5日はエドワード・モース
1878年明治11年)5月、大英帝国からやってきた英国夫人イザべラ・バード(1831〜1904)は、47歳。3か月にわたって日本の東北から北海道までを旅行して書いた本が、「日本奥地紀行」です。横浜で雇った若い通訳だけを連れての外国婦人の一人旅。
横浜港に入って見上げた富士山の絵と、帰国直前に描いた富士山の絵が異なるように、彼女の日本人に対する最初の「小さく、醜く、親切そうな、縮こまった、がに股で、猫背で、胸板も薄く、貧相な人々」という印象も、「誰もが満ち足りて穏やかな表情をしている」と変化します。その変化の訳を彼女の辿った道を歩いてみれば分るのではないかと、アイルランド出身のリンダ・バード(たまたま同姓)さんと一緒に辿ります。美しい金髪のリンダさん(27?)はオックスフォード大学を卒業して、今は英仏文学の教師ですが、卒論で取り上げたのが「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)」でした。
バードが初めて汽船から小舟に乗り換えて横浜港から見た富士山、遠くを見る視線より遥かな高みにそびえる富士山に驚く様子が、ラフカディオ・ハーンが初めて小舟で横浜に着くとき見た富士山と一緒なのに驚きます。「高く、もっと高く」と小泉八雲も書いています。バードが残した最初に描いた尖がった富士山は彼女の驚いた”高さ”を表しているようです。
福島県を通って米沢の平野に達したあたりでは、すでに、バードは「鋤で耕したというより、絵筆で描いたよう、ここは東洋のアルカディア桃源郷)」と書いていますし、無くした革ヒモを一里も引き返して探して取ってきてくれた馬子にチップを渡そうとすると、「旅が終わるまで無事に届けるのが私の仕事」とチップを受け取らないと感心しています。
130年後の今を旅するリンダさんは、「緑が素晴らしい。殺風景なアイルランドと違う。自然と触れ合っている。山や田んぼと寄り添って暮らしてるわ」と話します。バードは、「この国の均質化は大変興味深い。田舎者だが東京と同じく礼儀正しく丁寧だ」と書いています。稲作がもたらす風景と人だったのでしょう。江戸時代は80%が農民だったそうです。
ところで、江戸の暮らしぶりを今に残して生きている集落が紹介されます。滋賀県甲賀(こうか)市水口(みなくち)町にある北内貴(きたないき)という人口300人ほどの集落です。そこの川田神社で、年に一度、神社に伝わる古文書の虫干しが行われ、長老たちが樟脳を取り替えたりしているシーンから始まります。
天保4年の記録に十人衆という名前があり、季節の行事や差し出す米の量を決めたり取りまとめをしてきました。現在も男性の生年月日の古い順に10人が務めます。虫干しも、10月に行う新しいしめ縄づくりも10人衆の仕事です。75歳で2010年に最年少で10人衆になった人は、「やっと在所の一員になれた。人生の集大成」と言います。10人衆の最高齢は96歳、毎日の畑仕事は欠かしません。

正月、川田神社の初詣でが終わると、集落の役員や家長が集まり宴が催されます。ここには10人衆はいません。10人衆はみんな現役役職や家長は若い者に譲って隠居の身です。1月10日の「花の戸」は10人衆の出番、前年に生まれた子供たちを迎えての顔見せです。母親が子供を連れて並び、米粒を戴きます。これで「村入り」を認めてもらえます。
10人衆は苗字がみんな倉田です。明治の初めに倉田姓を付けて以来、家系が絶えず、転入者が少ないということ。言い換えれば、長男が家に残り続け(女性の場合は婿養子を迎えて)、若い世代が居て子も生まれるということ。
10人衆は年に25回、月2回の会合があり、終わると必ず一献傾ける。行事の際には和服の正装ですし、お正月には笙やしちりきを吹く演奏家にもなります。そして普段は田や畑を耕しています。春には農作業のスタートを神に祈り、山の水を引く。労働とは別の行事も多いのですが、またそれとも別の地域の営みもたくさんあります。町ぐるみの清掃活動や10人衆によるお地蔵さんの草取り、花遣り等。
古文書によりますと、村は文久4年に、お上に嘆願書を出して新田開発の申し出をしています。暮らしの上向きを図ってのことで、自分たちの暮らしは自分たちで守るという姿勢。不都合なことに対しては異議申し立てをしていたようです。田畑は共有財産ですべてを分かち合っていました。
北内貴では、町ぐるみの活動が多く、地域住民の結びつきが濃厚です。農業は専業は一人もいなくて、兼業で、営農組合を作っています。農協と違うのは100%加入の組合です。農作業は大型機械を共同で購入して、総出で行います。どこかの家が働き手がなくて困ったからといって、休耕田になる心配はありません。
小さな畑一枚の地鎮祭が10人衆と神主さんで行われています。神饌田です。ここでとれたお米は神様に奉納され一年間儀式に使われます。毎年一人が奉耕者となって、食べるためのお米ではなく神に捧げるお米の為の田を耕します。選ばれた奉耕者は「この在所に生まれて一遍はさせてほしいと思っていた。よかった〜」と責任と誇りに満ちた表情で語ります。
イザベラ・バードは東北地方の田んぼを見て、「雑草は一本も見当たらない。米は主食であり財産です」と書いています。
北内貴の49歳の男性は美しい田んぼを見ながら言います、「残していかなあかんやろね〜。僕らの時代までは大丈夫でしょう」。
地域の集まり(神社の行事?)のお手伝いをしている女性も、「行事として残すのは大事、地域性とかね。でも、社会の流れは別物。消化するのは大変だけど、残していくのは大切でしょうね」。
梅雀さんが「一銭の得にもならないことをこうやってやってきたー暮らしを支える知恵、いつもの暮らしを続ける知恵なんでしょう」

さて、リンダさんの旅は秋田県羽後町(うご)へ。ここでは冷たい山の水を「水ぬるめ」という昔ながらのやり方で9度から18度に温めてから田に引く農法に出逢います。家の周りを浅い水溜りで囲うようにして山の冷たい水を巡らせて太陽で水を温める方法です。この方法は昭和に入って「温水路」という大掛かりなものになって今も受け継がれています。
リンダさんは農家の食事に招かれて、座敷机の前に座った正面の外を見て思わず「BEAUTIFUL!」。驚いてご主人が「ん?」。外は、ありふれた山里の庭の風景です。山から引いた竹筒の水と草花と。「自然に近くて、水に近くて、すてきね」とリンダさん。ご主人は手を合わせて「自然の恵みをいただきます」「いただきます、ね」。

リンダさんは言います:「イザべラ・バードは日本人の満足感について、『彼らは何が不足なのかは考えない(They have no idea what are missing.)。貧しいのではなく、昔からの生活をしているだけなのだ』と書いています。私も、今も取り残されているのではなくて、過去にあったことを現在に生かしているのだと思う。”理想”にとらわれない生活なのですね」。
羽後町のあと鹿島町で共同体のお祭りを一緒に体験したリンダさんの言葉です。「笑顔は相手を気遣って本音を隠したり自分を護る手段にもなる。だけど私が見た笑顔、その温もりは隠しようがありません。笑顔は地域(コミュニティ)が作っているということ、みんなが共通の目標にむかうことで地域をつないでいました。そして、それこそが私が見た笑顔の源だと思う。自己中心的でなく人に心を開いている。」
梅雀さんが劇中のイザベラ・バードさんと向かい合って語り始めます。
「昨日と同じ今日に感謝し 
 今日と同じ明日を願う それが貴女が見た日本人だったんですね。
人々の確かな営みに裏打ちされた笑顔だったんですね、きっと。」
バードの2枚の富士山は、「未だ見ぬ未開のおとぎの国」が、「日々の暮らしを優しく見つめる眼差し」に変化した心の内を表しているのでは・・・で終わります。(梅雀さんの後ろにバード自筆の絵。左が横浜港、船の上から見た日本上陸直前の富士山。右が帰国直前に描いた富士山)

北内貴の集落のしきたりや行事、営農組合や10人衆という仕組み、どれも驚きました。
どんなに高齢になろうと農作業と共同体での役割がある。ハレの日とケの区別。責任感と誇り。
作らせてもろうてる、守らしてもろうてる、謙虚で感謝に満ちた物言い。
農作業が生む共同体社会の絆。年寄りと若い者たちとの役割分担と引き継ぎ。
みんな今はほとんど失ってしまった古き良き日本の昔です。

その古き日本とは十八世紀中葉に完成した江戸期の文明である。


・・・・・・・いかなるダークサイドを抱えていようと、江戸期文明ののびやかさは今日的な意味で刮目に値する。

渡辺京二著「逝きし世の面影」を取り上げた昨年の蛙ブログ(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20111015/1318660997)でも引用した著者の言葉からです。
明治は江戸の遺産でやってこれた。大正、昭和と取り崩して、平成の今、世界が称賛した良き日本は、大震災・津波原発事故時の被災者の中にきらめいていた。
その燠火(おきび)にも似た微かな一人一人の良き日本に、大きく息を吹きかけて、もう一度取り戻すか、新たに作り直すか・・・これからです。