光は辺境から・・・「自由民権 東北で始まる」(その2)

今から130年前、福島の民権対中央政府は激しく衝突した。

明治15年薩摩藩出身の官僚・三島通庸(みちつね)福島県令に就任。
三島は中央政府から、1.福島自由党の撲滅、2.会津三方道路の建設、という2つの大きな指令を受けていた。
三方道路とは福島県会津若松から宇都宮、新潟、米沢の三方向に向ける総延長200kmの土木工事。
会津から山形の米沢への道、今は交通量も少なく峠に至る道は通行止めになっている。当時、会津の人は別ルートを要望。しかし、地元の意見は受け入れられず。しかも工事はすべての成人男女に労役が科せられ、重い負担を強いられた。
菅原氏は、郷土史家赤城弘氏と一緒に歩いた。菅原:「地元の人たちのもっと良い道があるというのを聞かずに強行したのは?」赤城:「今なら地域の人の意見を取り入れて問題の無いようにするのが当然ですが、当時は、国の言うことが最優先。三島の頭の中には東京中心につながる道、軍事的にも港と日本海をつなぐ意図があったのでは。

「富国強兵・殖産興業」を目指す明治政府、三島はその実現のため中央集権を推し進める。しかし、県会は猛反発。当時は自由党が多数を占めていた。増税案を含む県令の議案をすべて否決。
県会議長の河野広中。福島の自由民権運動の指導者だった彼は地方分権を訴える。
「一家は一村の始めにして、一村は一国の基ならば、奮って権を分かち、之を治め、元気を養成するは、理を以て然るべきものなり」(広中の演説原稿より)。
しかし、工事は県会を無視して強行された。夏の農繁期に集中した工事。働けないものは代夫賃を払う、払えない場合は財産を差し押さえた。民権家たちが不当な仕打ちと警察に抗議したが、警察に逮捕されてしまう。

捉えられた民権家の一人、三浦文次の家。三浦家は古くから続く農家である。農民たちの先頭に立っていた三浦は当時27歳。熱血漢として知られ、各地を遊説して回り政府の弾圧に抵抗し続けた。ひ孫の女性が語る:「正義感の強い人で命に引き換えても…と立派な人だった。一寸できないことだなぁ〜と」。文次の最後に残した言葉がある:「不欲身肥欲志肥」(身を肥ゆるを欲するのでなく、志を肥ゆるを欲す)


明治15年11月、自由民権運動の歴史で大きな転換となる出来事が起るー福島・喜多方事件である。

三浦らの逮捕に憤った農民たち千数百人が弾正ヶ原に集まった。樹齢300年以上の欅には、その日、「自由万歳」の幟(のぼり)がたてられていた。農民たちは5キロの道のりを歩いて喜多方警察へ押し寄せ、三浦らの拘留理由を問いただし釈放を「武力によってではなく言葉によって」要求しようとする。騒ぎの中、何者かによって警察署に石が投げられ、それをキッカケに警察が切り込んだ。百姓の中には瀕死の重傷を負った者もいた。
この日、三島県令が現地に打った暗号電報がある:「喜多方へ奸民乱暴せしについては好機会ゆえ関係の者すべて捕縛せよ
福島県歴史資料館学芸員渡辺智裕さん:「この好機にと書いてありますので、この事件を契機として福島県自由民権運動をつぶそうとした意図がまさにこの中に書かれている」
県下で一斉検挙が始まり、農民を含めた検挙者は千人近くにのぼる。三島の狙いは自由党の幹部だった。福島市にいた河野広中も逮捕された。
粉雪の舞う中着の身着のまま護送された。
浪江町の民権家・苅宿仲衛は自宅で逮捕された。押しかけた警官を玄関で待たせ有名な書を残す:「自由や自由や 我汝と死せり」⇒
仲衛の末裔・大和田秀文氏:「警察は外で、仲衛は家の中には入れなかった。死んでもそういう社会を作りたい、何十年か先には…と思ったんでしょう」

苅宿たちは「内乱陰謀を企んだ」として厳しい取り調べをうけた。拷問を受けて亡くなった友人の死を悼み苅宿がしたためたものが残っている。「生々しい実例です。殴られたり、叩かれたり、同じことを仲衛さんも受けているわけです」と大和田氏。菅原:「すごいねぇ〜。『君も又風雪の中、直立せしめられ乱打せられ、苦痛耐えがたく、顔色憔悴し、前時の壮勇なる風姿なく…』 悲しい文章だねぇ〜、悲痛な叫びだねぇ〜。良き時代が来ると待ち望んだものが、ね、無残にも…」。その頃、苅宿が叔父にあてた手紙で自分の信念を改めて告げている。明治16年の書簡:「私は犯罪を犯したつもりは全くない。ほどなく公明正大な判決が下ると信じている。私の目的は今の官吏を退けて自分がその地位を占めることではない。人間の自由を保全し人民の権利を拡充し幸福を増進して世の中の改良を図ることが目的なのだ。」
苅宿仲衛を含む58人が国事犯として東京の高等法院へ送られた。
そのうち河野広中をはじめとする6人は政府転覆を謀ったという罪で証拠のないまま懲役刑に処せられた。
東京に戻った三島は内務省土木局長になる。喜多方事件から2年後、会津三方道路は完成した。
これ以降、内務省が主導権を握り地方を開発していくようになる


三浦文次ら若い民権家たちは追い詰められていた。三浦は、三島の暗殺を企てて加波山(かばやま)事件を起こすが、逮捕され死刑となる。明治17年、埼玉県の秩父では3000人もの農民たちが秩父困民党を結成、高利貸を襲い、郡役所を占拠する。政府のデフレ政策によって人々は借金や重税に苦しんでいた。昔「獅子の時代」で菅原さんが演じた元会津藩士もこの事件に身を投じている。激しい民衆の抵抗は警察と軍隊によって鎮圧された。
菅原さんは、峠を越えた長野県東馬流(ひがしうまながし)を訪ねた。ここで困民党の最後の戦いがあり、そして散り散りに散った。昭和8年、遺族によって戦いで亡くなった志士たちの墓が建てられた。「秩父暴徒戦死者之墓」。「歴史の中で長く『暴徒』とされた困民党の人々こそ自由民権の志を最後まで貫いた志士たちではなかったか。」

明治22年明治憲法大日本帝国憲法発布。天皇が定めて国民に与える欽定憲法、主権は天皇にあった。
河野広中は、憲法発布の大赦によって7年ぶりに出獄。翌年の明治23年、第1回衆院議員選挙に出馬。困窮した河野を助けるために地元支援者がお金を出し合って当選させた。
苅宿仲衛は晩年、福島県会議員を務めながら道路の改修や鉄道の敷設などに、53歳で亡くなるまで、浪江の発展に精力を傾けた。


苅宿の死から105年、震災後喜多方市で避難生活を送っている苅宿の子孫・大和田さんを菅原さんが訪ねる。大和田さんは今全国に散らばった浪江町の人の消息が分からないのがとても気がかりだ。大和田さんはまた長い間原発の危険性を訴えてきた。菅原:「どこへ行っても無関心。自由民権、分からない、聞いたこともないという。今は原発事故で、この先、どうなるかもわからない」 
大和田さん:「今、言われて気づいたんだけど、俺の自由民権はこれだったんだなと。我々の時代になると、たまたま相手が原発だった。それを国を挙げてやって、遣ることを見てると手抜きが多い、いい加減なことをやっている、危険だから止めてくれ、ここを直してくれ、というのは自由民権じゃないかと思う。」


ここでまた4人の話し合いが始まる。
菅原:「苅宿仲衛を訪ね、大和田さんに会って、一番強く感じたことは、節を曲げていない。大和田さんも40年、形は反原発ですが」
樋口東北大名誉教授(憲法学):「当時は農業社会でした。”国力の源、社会の源、財は地方にある。吸い上げて富国強兵・軍事増強”、中央政府はその為地方を抑える。それに対して、”いや、地方こそが国力の源泉だ”、これは植木枝盛の連邦制の反映だと思うが。
これから、どういう日本というまとまりを作り上げていくか、地方の富と活力をどういう風に同時に発展させながらやっていくのか、という路線と、吸い上げるだけ吸い上げるという・・・冗談じゃない自分たちはこうなんだという地方の路線との対決。130年の間に、今度は富が中央に集中、当然、地方からは我々のところ(地方)へ戻せという…」
色川東京経済大学名誉教授(民衆思想史):「地方で始まった工場制手工業、お茶と生糸の輸出、地方はコメだけではなかった、製品の品質も良かった。それに税金をかけて取ろうということに。そういう農村を発展させながら国力を拡大していくという発想になっていなかったので、秩父事件、群馬事件、飯田事件とか、皆、地方が抵抗し。
三宅:「そういう中での三浦文次の「志を肥やせ」とか、苅宿仲衛の想いがあった。」
菅原:「こういう人たちは、こういう活動に入る中で運動しながら勉強した。勉強して、最後まで抵抗したのは下層の人たちだった」

三宅:「自由民権運動というのは日本で最初に民主主義をめざした運動だった」
菅原:「小さな民主主義でないとダメ、大きくなりすぎるとダメ・・・」
樋口:「国とは何か? 国が先にあったわけではない。人間が先にある。
三宅:「本当に、自由民権というのは本質的なことを問いかけていたんだなぁということが・・・
自由民権とはなんなのか?戦後の発見を見つめて考えてみたいと思います。」



東京の五日市。駅から車で20分ほど入った山間の地。昭和43年、自由民権運動の歴史を塗り替える発見があった。    つづく

歴史は繰り返す。上から見ると同じような事が繰り返されているように見えて、横から見ると螺旋(らせん)の上の階の全く違う次元を進んでいる。歴史は螺旋状に進むとか。
今から130年前、東北の自由民権家が地方自治の実現をめざして中央政府に抵抗していた時代と、その130年後、大阪や名古屋、東京で地方自治道州制を標榜する首長が選ばれて国政に変革を求めています。これらは、似てはいますが、似て非なるものなのか、似て次元が違うものなのか。
螺旋は、自由や人権、民主主義の思想に照らして、上向きなのか、下向きなのか、前進なのか後退なのか?
言論の自由が守られている現在、かつての民権家の命がけの時代と違って、一見、個人の意思表示は軽くなっているかも。
でも、そうでもありません。政府の方針と違う主張は今も警察によって排除されるのは・・・。霞が関経産省前で福島のお母さんたちが原発反対を訴えて座り込んでいますが、テントひろばに退去命令が出されたそうです。詳しくは「らいるのひび」さんへ:http://blog.rairu.com/?eid=486
130年後の今は、ポピュリズムとか、マスメディアとか、ITとか、新しい問題もあります。
そういう意味では、いつの時代も、民主主義は与えられるものではないということですね。