「14歳からの原発問題」(雨宮処凛)

タイトルの雨宮処凛さんの本、途中で矢部史郎氏の「原子力都市」と「3・12の思想」が入ってしまいましたので、やっと先週読み終えました。雨宮処凛さんの紹介は写真に撮りましたのでコチラで→
この本の感想に入る前に、マガジン9条のサイトに、雨宮氏が世田谷区長の保坂展人氏を突撃インタビューした記事が載っています。

「突撃! 区長室  訪問先:『世田谷区長 保坂展人』」より:
< 2011年4月の世田谷区長選で当選、「国会の質問王」から地方自治体の首長へと転身した保坂展人さん。就任当初から「脱原発」の方向性を明言するなど、その後の活躍ぶりはメディアなどでも大きく報じられているところです。 そんな保坂さんの区長室を、作家・雨宮処凛さんが「突撃訪問」。区長の仕事ってどんなもの? 国会議員時代との違いは? などなど、素朴な疑問をいくつもぶつけていただきました>

保坂氏は、国会議員と区長の仕事の違いや、自治体同士が連携すれば国の政策を変えることが出来るなどと語り、訪問を終えた雨宮氏の感想によると:

 脱東電エネルギー政策から放置自転車、「生きづらさ」まで。今の保坂さんが取り組んでいることは、あまりにも幅広い。 というか、「区長」がこんなにもいろいろなテーマに関われるという発想自体、私にはなかった。「国会議員の100倍くらいいろんなことができる」。その言葉の意味を深く理解できた訪問だった。
 その上、自治体の判断は、原発問題にも大きな力を発揮するのだ。自治体が連携することによって、国の政策だって変えられる。そのためには、私たちも自治体に働きかけることが必要だ。「国に働きかける」なんてなんだか遠いけれど、自分の地元に働きかけることはリアルにできる。保坂さんは、そんな回路を繋げてくれた。
 ちなみに私は「脱原発首長ネットワーク」に、多大な期待を寄せている。
               (詳しい内容はコチラで:http://www.magazine9.jp/taidan/012/index1.php

さて、「14歳からの…」ですが、この本は昨年の事故後4か月ほどで書かれ、出版されたのは9月です。
1年経って、原発事故をまとめてみたくて選んだのがこの本。中学生に分かるように書かれたものなら解りやすいだろうと思ってのことでしたが、内容は原発問題を真正面から捉え、易しい内容ではありません。どの章も雨宮さんとの対話形式で書かれています。
日本の原子力発電がなぜ、どうして、推進されるようになったのかについては、「なぜ日本に原発ができたのか」「世界の動きと日本の原発の2つの章で語られています。元原発労働者に聞く原発の中では何が起きている?」、そして「そもそも原子力発電てなに!?」、獣医さんに聞く「20キロ圏内に取り残された動物たち」原発を巡る様々な疑問や問題点に著者の雨宮氏が各専門家に迫っています。

原発導入の頃の日本と世界の情勢について本文の対話から:
<『第五福竜丸事件』をキッカケとして55年に第1回の原水爆禁止世界大会が広島で開かれます。アメリカの占領が52年に終わるまで、広島・長崎の原爆被害は日本国内でニュースにすることができなかった。」「--え、当時の日本人は知らなかったんですか?」「アメリカ占領軍の検閲があってニュースに出来なかった。52年に占領が終わって、ようやく原爆の被害を紹介できるようになったところで、ビキニ事件で放射能汚染騒ぎ。そこから55年の原水禁大会へ繋がる>
「-へぇー、全然知らなかった」<アメリカとしては朝鮮戦争も終わったところで、日本で反米機運を恐れた。CIA(欄外に注釈あり)が動いたようで正力松太郎と協力した。正力はA級戦犯に指定されたので、GHQ(注あり)に不起訴にしてもらうためアメリカに協力的な姿勢を示したと言われ、原子力についてもCIAと協力して自分の傘下の読売新聞をつかって「核の平和利用」を謳うことになったとも言います>「 - 正力はなんで戦犯だったんですか?」<戦前は警察官僚で社会主義者を弾圧し、戦争中には大政翼賛会(注あり)の総務でした。戦後にアメリカに協力することで地位を確保した右翼的人物の1人です。で、正力と読売新聞がそういう形になる一方、中曽根康弘にもCIAが接触したと言われます。そして、中曽根が、54年3月に原子力開発予算をいきなり通す。その予算が「ウラン235」にちなんで2億3500万円>「−え! そこで語呂合わせですか(笑)!!」      
 <略>
 <そして原子力基本法(注)が出来るのが55年で、日米原子力協定(注)ができ、総理府原子力局を母体にして科学技術庁が出来た。それ以前には、(核兵器の)自主的開発を進めようという話も科学者の間にはあったが、アメリカの技術と濃縮ウランを使うことになっていった。ハッキリ言って日本はアメリカの核の傘の下に入るのと同じように、原子力アメリカの傘の下に入った。 そして1957年に東海村で実験用原子炉が動き始める。その時はブームになって、『原子力ようかん』とか作られてね。いまでも大熊町には『原子力最中(もなか)』があるそうですけど>
とこういう感じで話が続きます。
次の「核開発とノーベル平和賞」のところでは、<佐藤栄作首相のノーベル平和賞非核三原則「持たず、作らず、持ち込ませず」で貰ったと国内では説明されていたが、本当は…>という個所があります。これには驚きました。私も、そう思っていたので。ところが、実は:

日本がどこで核兵器開発を放棄したかというと、アメリカとソ連が相談してNPT(核不拡散条約。米ソ英仏中以外の核兵器保有を禁止する条約)を作るわけです(68年調印、70年発効)。 日本は多分持ちたかったと思うんだけど、それはアメリカが絶対認めなかったと思う。そんなことされたら日本が独自武装して米軍に基地を提供しない、出て行ってくれってことになって、極東の拠点を失いかねないから。 NPTを作る時に、アメリカはたぶん真っ先に日本に声を掛けて署名してくれと言ったと思います。当時の佐藤栄作首相はかなり核武装に熱心だったらしいんだけど、ちょうど沖縄返還の時期だったから、沖縄に基地を集中させて米軍に自由使用を許す代わりに、核については非核三原則を唱えて、NPTにも70年に署名した。それでNPTに署名したことも評価されて佐藤栄作首相は、74年、ノーベル平和賞を貰った。
・・・・・・・・・
 ただNPTに署名したとは言っても、まだ議会では批准していなくて、選択肢として核武装を捨てたわけではなかった。69年の「わが国の外交政策大綱」という文書では、「当面核兵器保有しない政策を取るが、書く比叡機製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」と謳ってます。その時期にプルトニウムを取り出せる高速増殖炉とかの建設を初めて、福島第1原発は71年に運転開始する。76年にNPTを批准したあたりで、ようやく核武装を諦めたようです。 


だけど70年頃になると、水俣病(注)とか公害が注目されていた時期で、科学技術に疑問が生れて、もうかつての原子力ブームの時代ではなくなっていた。中曽根は1959年には、「原子力都市」とか作る構想も出していたけれど、61年に原子力損害賠償法を作る前年に原発事故が起きた際のシミュレーションを秘密でやったら、3万人くらいが永久立退きになって、損害額は最低でも国家予算の半分以上が吹き飛ぶという試算がでた。それで過疎地にしか作れないということになって若狭湾とか福島沿岸とかに建つわけです。ところが69年には、近くに原発が建つのに賛成ですかと総理府が調査したら、反対の方がずっと多くなった。各地の原発立地地域でも、反対運動が強くなってきた
 そして核開発の方は国際的に行き詰ったし、反対も多いので、だんだん作る勢いがなくなってきた。ところが、そこでぶち当たったのが73年の石油ショック(注)。そこから利益誘導の構造ができて、ここまできている。

という風に分りやすいお話が続きます。この章のお話は歴史社会学者で慶應義塾大学教授の小熊英二という方です。
引用を続けていると丸一冊写さなければならなくなりそうなので、あとは読んでいただくとして、最後の章のお相手、あの「ミツバチの羽音と地球の回転」の映画監督鎌仲ひとみさんに聞く「『総被曝時代』に立ち向かうために」からです。
雨宮処凛さんは1999年、湾岸戦争の8年後と、2003年のイラク戦争の1か月前にイラクに行っています。劣化ウラン弾に苦しむイラクの子どもたちを知り、2度目のイラクでは「NO WAR」「NO NUKES」の横断幕を掲げたデモに加わっている。鎌仲さんに会ったら一度聞いてみたかった質問を:
「私は大丈夫なのだろうか・・・・?」「それは内部被曝してるだろうね。イラクのもの食べたんでしょ? してないわけがない」「でも、100人中100人が病気になるわけではない。要するに誰かが貧乏くじをひかされるんですよ」「あと、タバコを吸ってる人は、やっぱりやめた方がいい。いま喫煙している人が線量の高い場所に行くと5倍のリスクがあると言われています。ダイオキシンにしてもアスベストにしても、放射能が加わると突然変異率が高まる。そんな怖いことをリアルに知れば、『脱原発は現実的ではない』なんて言えないわけです。汚染された牛乳だって、捨てればその土地に放射性物質はたまる。こんなやっかいなものをどうするの、と言いたいです。だからこれ以上、放射能を環境に出さないという選択をしなければ未来はない。いつまでも原発が横たわっていて、そこに夢を見ているオヤジどもが結局こんなことを引き起こしてるんです」


最後に鎌仲さんと二人の締めくくりの対話とメッセージを紹介して終わります。

 「アメリカでは、建てたんだけど1回も動かしてない原発があります。原発を作って、これから稼働するので避難訓練をしますって時に、初めて市民はペットを連れて逃げられないということがわかったんです。それでその原発は1回も動いていない」・・・・・・


 生きている命を見殺しに出来ないから、原発は動かさない。この感覚は、ものすごく真っ当だと思う。どうして日本ではそんな単純なことが通らないのだろう。答えは一つ。情報が隠されているからだ。・・・・・・


 「ドイツでは、ナチの経験があって、政府にずっと『イエス』って言ってたので、二度とああいうことにはなりたくないと。日本人はちょっと信用しすぎだよね。国策だったらなんでもやるっていうのなら戦争だってできてしまう。そういう抵抗力のなさが、やりたい放題の電力会社やメディアを支えてきたと思います。私の映画『ミツバチの羽音と地球の回転』に出てくる祝島(いわいじま)の人たちは、確かに中国電力と闘ってる。だけど、中国電力の背後には、『祝島の人たちには悪いけど、原発は必要なんだよね』と思っているものすごい集合的意識があるわけでしょ。私は映画でそこを変えたい」 


そうなのだ。事故が起きるまで、どこかで原発に対して「でも、電力のためには仕方ないよね」と圧倒的多数の人たちが漠然と思っていた。その当事者性の薄い意識が原発を稼働させ続け、どこかで「安全神話」を補完する役割を担っていた。しかし、今、故郷から引き離され、あらゆるものを失った警戒区域やその周辺の人たちに、「でも、電力のためには、日本経済のためには仕方ないよね」と言える人などいるだろうか?


 「そんなに一生懸命に脱原発運動なんてできないって人でも、時々電力会社に電話するくらいできるでしょ。それが集まればものすごく大きな力になる。権力者はそれを恐れている。泣き寝入りしたり、黙っていたら『イエス』ということなんです。なんでもいいから表現して、意志表示をするのは大切なこと。人々が変える気にならなければ変わらないし、変えるといいことがいっぱいある。生活を守るためだから、一緒に声をあげましょう」

14歳と言えば中学2年生か3年生。中学生や高校生がこの本を読んで、鎌仲さんの願いであるミツバチの羽音が、あちらこちらでブンブン聞こえるようになると本当にいいですね。そして、若い世代だけでなくて今まであまり深く考えもせず、電気任せの世の中を推進してきた私たち高齢者も、大いにブンブン言わせる責任がありますね。