森瀧市郎「核絶対否定への歩み」

昨日の森瀧春子さんのお父様にあたる森瀧市郎氏について検索していて「核絶対否定への歩み」という記事に出会いました。

森瀧市郎(1901−1994) 昭和-平成時代の倫理学者,原水禁運動家。
明治34年4月28日生まれ。広島で被爆。昭和28年広島大教授。29年原水爆禁止広島県協議会初代事務局長となり,30年の第1回原水禁世界大会の開催にむけ尽力。日本被爆者団体協議会理事長もつとめた。平成3年原水禁日本国民会議議長。平成6年1月25日死去。92歳。広島県出身。京都帝大卒。著作に「反核三○年」など。(kotobankより)


「いまの私は、いつ、どこでも』核絶対否定』をためらいなく口にする。しかし、かつては核の『平和利用』にバラ色の未来を望んだ。私の反核の意識が、どんな軌跡をたどっていまのようになってきたか。日記などをたどってふりかえってみたい。」
という書き出しで振り返られている日本の反核平和運動史のような一文です。
各項目と最初の数行を並べて紹介してみます。11項目は半分、最後の項目については全文をコピー引用です。

個人と運動の歴史ですが、3・11以後の私たちの原発(フクシマ)→原爆(ヒロシマ)→核否定の考え方の過程と重ねられるような…。

 『核絶対否定への歩み』  森瀧市郎    渓水社より


1・原発の贈物:「私が広島で原発の問題にもろにぶつかったのは、一九五五年(昭和三十年)の一月末であった」つづく


2・平和利用博 :「翌一九五六年(昭和三十一年)には「広島原子力平和利用博覧会」(五月二十七日〜六月十七日)が開催されて、私たちは、またしても「平和利用」問題にぶつかった。 アメリカが全世界に繰りひろげていた原子力平和利用博覧会は、すでに開催地二十六ヶ国におよび、観覧者は一千万人を突破していた。日本では東京、名古屋、京都、大阪の会場で百万人近い観覧者をのみこんでいた。それがいよいよ広島に来るというのである。被爆者の小さな反発のつぶやきはなんともなるものではなかった。しかし原爆資料館の陳列品を撤去して、そこを会場として使用するということに対しては反発せざるを得なかった」つづく


3・被団協の宣言:「米国から広島に原子力発電所の贈り物という話が出た一九五五年(昭和三十年)は、あの感動的な第一回原水禁世界大会が広島で開催された年である。この大会では広島・長崎の原爆体験が初めて広く伝わり、原水爆禁止と被爆者救済の運動の出発点となったが、原子力の「平和利用」も「原発」も話には出なかった」つづく


4・タペストリ: 広島での原水禁運動は、その初期から「原発の贈物」問題や「原子力平和利用博覧会」の開催で、「原発」や「平和利用」の問題には、はやくからぶつかってはいたのである。しかし、それへの対応は多少抗議らしい文句をいった程度で、「反対」とか「否定」とかいう対応ではなかった。むしろ原水爆は「悪」であり「死」であるに対して、「平和利用」は「善」であり「生」であるという思考の型は定着していた」つづく


5・ソ連の核実験: 原子力の軍事利用は否定し、平和利用は肯定するという、原子力に対する国民一般の態度は、日本の原水禁運動が起こってから数年間は無事に続いていた。ところが、軍事利用否定の根底に大きな亀裂を生ずる事件が起こった。その発端は、一九六一年(昭和三十六年)八月三十一日にソ連が核実験再開の決定を発表したことにあった」つづく


6・核なき未来:「核絶対否定」の立場で三県連が立ち上がり、その翌年、すなわち被爆二十周年(一九五六年)に原水禁国民会議が出発した。しかし、そのころ使われた「核絶対否定」という表現は、単に「核兵器絶対否定」の略語であって、今日、私たちが文字通り「核絶対否定」というのとは大きく違っていた。 今日の私たちは「核なき未来」をめざして、文字通り「核絶対否定」の立場に確固として立つのである」つづく


7・科学者の良心:「被爆二十四周年原水禁大会(一九六九年)から、重要な課題として原子力の平和利用問題に取り組み始めた原水禁国民会議は、翌年の被爆二十五周年の大会で、その基調にはっきりと「原子力発電所問題」を提言し「原発問題分科会」を設けた。そして、次の被爆二十六周年(一九七一年)の大会には、初めてスローガンの一つに「安全の保障されない原子力発電所、核燃料再処理工場設置には反対しよう!」を掲げた」つづく
 

8・反原発の理論:「被爆二十七周年大会(一九七二年)で「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再処理工場設置に反対しよう」というスローガンを掲げたのは、私たちの核認識がそこまで進んだということもあるが、国内では「高度経済成長」のなかで環境破壊や公害の問題がいよいよ深刻化してくるとともに、世界では同じ年の六月にストックホルムで「国連人間環境会議」が開かれるという背景もあったのである」つづく


9・欧州の運動被爆二十九周年(一九七四年)の原水禁大会にはタンプリン博士に代ってD・イングリス博士が来日した。米国物理学会の長老学者。それが熱心な原発反対論者なのである。イングリス博士は、まず原発の材料であるプルトニウムをつくりだし、従って究極的には核戦争の可能性を大きくすること。また、プルトニウムの微小な一粒といえども肺臓ガンを生ずることを述べたあとで、二つの問題を提起した」つづく


10・太平洋の叫び: 被爆二十九周年原水禁大会(一九七四年)に来日したド・ボラルディエール将軍に同伴してきた、フランス国会議員サンフォード氏(仏領ポリネシア選出)の熱心な要請で、私は翌年の春、南太平洋フィジーの首都スバで開かれた「非核太平洋会議」に出席した。 フィジーの南太平洋大学を会場として開かれたこの会議で、私は原水禁運動にひとつの新たな展望をもつようになった。なにしろ核時代の出発点から核被害の集中した太平洋地域の人びとがはじめて立ち上がり、苦しい準備を重ねてやっと開いたこの会議は、大きなものではなかったが、あまりにも多くの学ぶべきことがあった」つづく


11・生存のために : 

 フィジーの非核太平洋会議から深い感動と決意をもって帰国した私は、その年、被爆三十周年(一九七五年)の原水禁大会の基調演説で、ついにきっぱりと文字通りの「核絶対否定」の立場を打ち出した。国際会議での問題提起的な演説の草案は例年のように事務局で用意されたが、そのなかに「核分裂エネルギーを利用する限り、人類は未来を失うであろう」という一句があった。私は、電話で起草者の池山君とこの一点について打ち合わせ、覚悟を決めた。そして、大会基調演説の草案を精魂こめて書いた。その演説の後半は、いわば「核絶対否定」の宣言であった。
 いわく「さて私たちの運動は、広島・長崎の体験から『核兵器絶対否定』の運動として起こりました。従って初期の段階では、私たちも核エネルギーの平和利用のバラ色の未来を夢みました。しかし今日、世界でほとんど共通に起こってきました認識は、平和利用という名の核エネルギー利用が決してバラ色の未来を約束するものではなくて、軍事利用と同様に人類の未来を失わせるものではないかということであります
 つまり、平和利用という名の原子力発電から生ずるプルトニウムは、いうまでもなく長崎型原爆の材料でありますから、軍事利用に転用される可能性があることは明白であります。またプルトニウムは、半減期二万四千年というもっとも毒性の強い放射性物質でありますから、まことにやっかいきわまるものであります。しかも、それは天然自然にあるのではなく、全く人工的に生産されるものであります。ですから、原子力発電がたとえ安全であるとしても、そこでは多量のプルトニウム放射性廃棄物が生産されるのであります。しかも、その放射性廃棄物の究極的処理の道はまだ解決されておらず、解決の見込みもないといわれています」つづく



12・核文明批判

 広島原爆で一眼を失った秋から冬にかけて、中国山地の眼科医院で入院生活をしていたころ、私の胸中には一種の素朴な文明批判が芽ばえていたいったい、原爆などというものを生み出すような現代文明の方向は、このまま進んでよいものであろうか。この方向では人類は自滅を招くのではないかと。 
 しかし、その後三十年間に、私たちの憂慮や批判や抵抗をあざ笑うかのように、軍事利用でも平和利用でも核の開発はすさまじく進められた。核兵器の備蓄は、広島型原爆に換算してその四百万発分に相当するといわれ、産業用のエネルギー源も主として核に求められようとする核時代に突入した。
 政府や産業界は「軽水炉→増殖炉→融合炉」という図式で核エネルギー開発の展望を宣伝し、二十一世紀はあたかも壮大な核文明の華麗な世紀として迎えられるかのような夢をいだかせようとする。
 しかし、そのような核文明の方向は人類にその未来を失わせるものである、と警告し、核と人類は共存しえないものと見定め、「核絶対否定」の決意と行動で人類の生存を守ろうとするのが私たち原水禁運動である。


 被爆三十一周年原水禁大会(一九七六年)の基調演説の結びで私は、核時代の産業文明を批判し、非核文明の二十一世紀を迎えるべきであることを訴えた。いわく、
 「・・・もっとも心配なことは、プルトニウムを燃料とする高速増殖炉の開発によってプルトニウム経済の時代を招来するのだ、と豪語しているものがありますが、そんな巨大エネルギー、巨大産業の核文明を招来したら、その絶頂で、その未来を失うでありましょう。
 巨大エネルギー、巨大開発、巨大生産、そして巨大消費という形態をとる核時代の産業文明は、いまこそその価値観を一大転換しなければなりません。価値観の転機とは何か。一言でいえば、すべて巨大なるものは悪であり、のろわれたるものである、いと小さきもの、いとつつましきものこそ美しいものであり、よいものであるということでありますシューマッハー博士の言葉を借りると”ビッグ・イズ・イービル(悪)、スモール・イズ・ビューティフル”ということであります。


 私たちは巨大なる核エネルギー産業文明によって子孫のものまで使いはたし、プルトニウムのようなやっかいきわまる遺産を子孫に残すべきではありません
 いま私たちは、二十世紀の最後の四半世紀にさしかかりました。この四半世紀こそ、人類が生存への道を選ぶか、死滅への道を選ぶか、最後の機会であります。私たちは、やはり生存への道を選ばなければなりません。二十一世紀に生き延びなければなりません。生き延びる道は何か。核絶対否定の道しか残されてはいません。核は軍事利用であれ平和利用であれ、絶対に否定するよりほか、人類の生きる道はないのであります。いまこそ価値観を大転換させ、核文明を否定して非核文明をきずき、人間の深い、美しい生きざまをひらいていこうではありませんか」と。 ここでいう非核文明の方向をひらいてゆくためには、大まかにいって二つの道がある。一つはイングリス博士が提言するように、核エネルギー以外の代替エネルギーを開発する道である。太陽熱、風力、地熱、潮位の差を利用する発電である。


 もう一つの道は、人間の生きざまを「自然易簡」の道にかえすことである。「自然征服」の思想と生活から「自然隋順」の思想と生活にかえることである。
 私は昨年(一九七八年)、国連訪問後、ニュー・ハンプシャー班に加わってアマーストを訪れ、イングリス博士に再会して相語り、アマースト郊外のモンタギュー村で「自然農場」を営むラヴジョーイさんを中心とする九人の同志の新しい生きざまの探求に感動した。アマースト訪問で、私は非核文明のビジョンを得たのである。<色文字by蛙>    ( ■全文をぜひコチラで:http://www.gensuikin.org/data/mori1.html

◎(5)の「ソ連の核実験」の時代に私の学生時代が入っています。「いかなる国の…」問題が学生大会でも問題になりました。1回生の私は友人達と「いかなる」のどこが間違っているの?なんて不思議でたまらなかったものでした。
◎「原発のない日本を目指して福島から叫びます」さんの6月6日の「原発に、なぜ『平和利用』の言葉を使ったか」も併せてどうぞ!!