脱原発とシューベルトの「魔王」(ゲーテ)

旅行とその後始末に半月ほど取られている間に、脱原発を巡って様々な事態が駆け抜けています。
フクシマを忘れない人々と、フクシマを無かったことにしようとする人々とのせめぎ合いとも見えます。
日経、今日の一面囲み記事は「エネルギーを問う」の「第6部 大詰めの改革論議(下)」となって、見出し大きく「安全強化、託された規制委」で横見出しが「原発 現実見て活用」です。
8段にわたる「エネルギー問題研究班」の記事ですが、7,8段に書かれているのは「原発に代わる頼みの綱の火力は不安定な稼働が弱点で、石炭火力発電は施設の老朽化で、原発を併用しないと、電力供給はたちまち不安」と書いて、「老朽化したり活断層に近かったりする原発は即座に廃棄すべきだが、最新技術に基づく原発は新設してよい」と言う説を紹介して、「原発比率を巡り政府は7月の『国民的議論』を経て、8月に案を絞り込む方針」「結論を国民に丸投げするのではなく、現実的な選択肢を示して説得する姿勢が求められる。」と結んでいます。
一見、冷静客観的な書きっぷりですが、言いたいことは「フクシマ」を見ず、「国民に丸投げして」脱原発になっては大変、今まで通り「安全神話に基づく行き方、生き方で国民を説得する必要性」を訴えています
「最新技術に基づく原発」が核廃棄物の最終処分問題を解決したと聞いたことはありません。出され続ける核廃棄物は原発を稼働させる限り増え続け、その危険は未来の人類のお荷物になるということをフクシマで知ったのですから、今すぐか、何年後かの問題はあっても、脱原発は日本人が生き残るために進まなければならない方向です。政治がその方向を指し示さず、愚かにも逆戻りさせようとしているのが野田政権です。

ついでに、同じく日経6頁。昨日の国会の東電福島原発事故調が「人災」と結論付ける最終報告書について。これも真ん中に囲み記事、「東電も官邸も混乱」として「初動対応」について「海水注入『なぜ止める』『うるせえ』」「60歳になる幹部は死んでもいい」という見出しも。
記事の後半、「報告書は東電が政府に福島第一原発からの「全面撤退」を伝えたとされる問題に関して、東電は必要な人員を残す「退避」と伝えており「官邸の誤解」だとの見解を示した」とあります。
私は、「全面撤退」という東電側の発言はあったと思っています。しかし、東電側の全面撤退には「東電社員=ホワイトカラー」で、「現場」の担当者や下請けの現場労働者は「撤退」の数に入っていなかった。ところが、官邸側=菅さんは一般常識的に「全面撤退」を文字通り「全員撤退」と取って「それは許さない」となった、のではないかと推察しています。コントロールルームの人たちは「お手上げ」という言葉を使って為す術なき状態になったことを口にしていました。東電側は「東電社員」の命を考えて「撤退」とあの時点で判断したのではないか。その時、「現場」は頭の中に入っていなかったのでは? だから、本当は「全面撤退」を口にしたが、現場労働者まで含む「全面撤退」と言った覚えはないという言い訳が成り立つ、のではないか。「全面撤退」という言葉を東電側は東電文脈の中で発した。しかし、菅総理は、日本語文脈でそれを受け取った、というのが私の想像です。

3つ目は「大阪維新の会」が維新八策の改定案を発表。色々取り上げたい点もありますが一点だけ。エネルギー分野で「脱原発依存体制の構築」を盛り込みました。

色んな対立や意見の微妙な違いはフクシマを基準にすればハッキリしてくると思っています。
フクシマを忘れないという立場とフクシマをなかったことにして、忘れたい、忘れさせたいという立場です。

そこで、今朝見つけたブログの記事を。
ゲーテの詩にシューベルトが曲をつけた「魔王」。
最近亡くなられたフィッシャー・ディスカゥを夫が聞きこんでいた中にあったあの曲か…というぐらいにしか覚えがないのですが。その「魔王」というゲーテの詩は、「子どもをさらう魔王、子どもと父親の会話、語り手の語りからなる」。
魔王のささやきに怯える子どもの恐怖の理由が分らず、しゃにむに子どもを抱えて馬を走らせる父親、気付いた時にはその子は腕の中で死んでいたという内容です。
「この「魔王」原発事故と結び付けて講義した大学教授がいる」という記事です。詳しくはコチラで:http://midori1kwh.de/2012/06/24/1960
一部、引用してみます。

「魔王」の父親は、まさに「啓蒙された」、「新しい時代の人間」(近代人)。科学的合理主義を代表する人間で、子供の目に見えている世界が見えない。子供の世界は、科学的知識には欠けるが想像力や感動に富む世界で、自然に対する動物的ともいえる直感的な恐れや驚きに満ちている。その意味では子供はみんな詩人であるが、有能な「近代人である」この詩の「父親」は子供の言うことがわからない。このゲーテの詩では魔王の恐ろしさもさることながら、父と子のあいだのコミュニケーションが不可能なことが絶望的であり、悲劇的である。子供が怖がっているのに、父親は「そんなこと、何でもないことだ」と言う。「子供が死んだ」というのは「詩、ポエジーが死んだ」ということでもあるのかもしれないと田辺教授は考える。詩人ゲーテがこの「魔王」の詩で言おうとしたのは、そういうことだったのではないか? 自然を怖がり、必死になって恐怖を訴える子供を絶望させ、死なせてしまうような、想像力に欠けた、鈍感な父親(大人)になるな、と言っているのではないか?とも考えられる。


シューベルト「魔王」のCDを聞かせながら、ゲーテの詩の持つ意味を解説した教授は、講義を次のような言葉で締めくくった。「最近、私にはこの『魔王』の詩が、また一つ違った意味でますます印象深い詩に思われるようになりました。それは、3.11の震災と原発事故以来のことです。福島の原発事故では、原発という科学技術の最高度の成果が、恐るべき災難をもたらすものであることが明らかになったわけですが、一方で原発推進原発維持を唱える人々と脱原発を良しとする人々の間の議論の噛み合わなさ、絶望的な隔たりを見るにつけ、そうした対立が、このゲーテの『魔王』に描かれた父親と子供のコミュニケーションの不可能という悲劇と重なって見えるような気がするのです」。

フクシマを忘れない人と、フクシマを忘れさせたい、フクシマを無かったことにする人との絶望的な断絶・隔たりをやはり感じます。
昨日お茶飲み友達と話していて、「まだ分らへんのかね〜!」に、「分らないんやろね〜。分らせるしかないわね〜」でした。
今日、金曜日、東京と大阪でも再稼働反対のデモがあります。行きたい気持ち一杯で見守っています。
(写真は上から、フィレンツェドォーモ、ボーボリの丘の梅の実、ボーボリ庭園の噴水)