元外交官だった天木直人氏、この人を初めて知ったのは「たかじんのそこまで言って委員会」だったのですが、このところ「戦後史の正体」を書いた孫崎享氏や古賀茂明氏など、官僚のなかでも国を憂い、この国を変えたいと思っている人たちがいるという証しの人達の一人ではあります。31日のブログは、「生活」党の結党記念パーティーであの勝谷誠彦さんが乾杯の音頭取りをしたことに、呆れて小沢新党は「一体どうしちゃったんだ?」と書いています。私も、このことを知った時は、「どうして〜、他に居なかったの〜」と期待もしぼみかけてガッカリもしましたが、ドイツ発の脱原発視察の詳報を知った今は、あれはパーティーの”賑やかし”?で「来るもの拒まず」だったんでしょうと考え直しています。
ところで、その前日30日のブログ「原発廃絶と沖縄基地撤退を結びつける認識こそ今求められている」(http://www.amakiblog.com/archives/2012/10/30/#002421)も、最後のしめくくりの天木さんらしい一言を除いて、的を得ていると思います。後半を引用してみますと:
・・・・・
そうなのだ。
原発問題と沖縄問題。
この二つこそ米国の桎梏から抜けだせない戦後日本の悲劇なのである。
日本国民を苦しみから救い出せないでいるこの国の政治の元凶なので ある。
この認識が今ほど求められている時はない。
本当の意味で福島と沖縄が手を結ぶ時、この国の政治に大きな革命的 変化がもたらされるに違いない。
その事を正面から訴えるイデオロギーを超えた国民的政治家が一人で もいいから現れないものかと思う。
果たして小沢一郎はそのことに気づくだろうか。
でも、去年ならまだしも、今年の今となっては、沖縄の基地の問題と福島の原発の問題を関連付けて考える人たちは少なくはないと思います。「福島」と「沖縄」をタイトルに並べた本の紹介です。いつもブログを読んで下さって☆を残してくださる「一日一尺一寸 本屋の小僧」さんのブログ主の「くろもり」さんはこのところ「福島・沖縄」を共に日本の「犠牲のシステム」として捉えている本を取り上げておられます。引用先:http://d.hatena.ne.jp/kuromori999/20121030#1351590672
☆高橋哲哉「犠牲のシステム 福島・沖縄」 (集英社新書)・集英社 (2012/1/17)
・〈目次〉・
第一部 福島
・第一章 原発という犠牲のシステム
・第ニ章 犠牲のシステムとしての原発、再論
・第三章 原発事故と震災の思想論
第ニ部 沖縄
・第四章 「植民地」としての沖縄
・第五章 沖縄に照射される福島
★★★本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。
《経済成長も安全保障も「犠牲」の上に成り立っている。
『靖国問題』以来、6年ぶりの書き下ろし新書!
本書のテーマは、犠牲のシステムとしての福島と沖縄
である。それは、一九四五年の敗戦以後、今日までの
日本を「戦後日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、
戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犠牲のシス
テムを表しているからだ。》【表紙帯から】
そして、同じくこの本を取り上げたブログで見つけた記事です:(引用先:http://asama888.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2b7d.html)
最近、高橋哲哉著「犠牲のシステム 福島・沖縄」(集英社新書)を読んだ。著名な高橋氏が福島県いわき市で生まれ、警戒区域となった富岡町の小学校に通い、中通りや会津地方で生活したことを知った。
首相官邸前と周辺では、脱原発の集まりだけでなく、このところ沖縄の普天間基地にオスプレイを配備する計画に抗議する集まりが増えている。今のところ、両方の集まりに参加する市民はそれほど目立たないが、脱原発を求める市民の多くが、福島と沖縄に共通する「犠牲のシステム」に気づいているのではないだろうか。
高橋氏は、「原発は犠牲のシステムである。そこには犠牲にする者と、犠牲にされるものとがいる」と規定する。さらに、福島第一原発事故の第一義的な責任は、国策として原発推進にかかわってきた「原子力ムラ」にあると指摘し、市民の責任についてもこう断じている。
「原発を過疎地におしつけて電力を享受してきた(筆者を含めた)都市部の人間の責任も免れない」
加えて、高橋氏は、両者の責任は異質なもので、「問題は、犠牲のシステムそのものを止めることが肝心なのだ」と強調する。
山本:「原子力発電所という危険なものを地方の過疎地につくる、沖縄に米軍基地をつくる。福島と沖縄はどこか共通するところがあると思うんですけど、そのあたりどう考えていますか」
森住:「沖縄の人たちがあれだけ苦しんでいるのは、やっぱり安保だよ。エネルギー政策も安保なんだ」改めて読み直してみたが、森住さんは問題の本質をズバリついていてさすがだ。
高橋氏は著書をこうまとめている。
「だれにも犠牲を引き受ける覚悟がなく、だれかに犠牲を押しつける権利もないとしたら、在日米軍基地についても原発についても、それを受け入れ、推進してきた国策そのものを見直すしかないのではないか」
その安保条約について、「国民の生活が第一」党の小沢代表の記者会見で、ズバリ質問した記者がいます。
「対等な日米関係の為には日米安保条約をいったん解消する必要があると思うが、もし政権を取った場合、日米安保条約をどうすのか?」という山崎康彦という方の質問です。質問が、山崎氏の意見「日米安保の解消が必要」を前提にした質問なので、小沢氏の答え方が、この質問に答えざるを得なくなっていてわかりにくいですが、次のような答えを引き出しています:引用先:http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-1730.html
CNM山崎康彦氏
この記者会見は「タブーがない」ということで伺いたい。
2009年の民主党のマニフェストの中に日米関係は対等であるという政権公約がありますが、実際問題、たとえばオスプレイの強制配備とか、米兵による沖縄女性の強姦事件とか、実際は日米安保なり日米地位協定が日本国憲法の上にあるという状態だと思う。
対等な日米関係というのは、日米安保条約を一旦解消するということが必要ではないかというふうに思う。
日米安保条約の第10条には、自動延長は一年ことにやると、一方の政府が廃棄を通知すれば、一年後には実行されるということで、小沢代表の国民の生活が第一が次期総選挙で政権を取った場合には、その日米安保条約はどうするのか?
小沢
オスプレイの問題も、沖縄基地の問題そして米兵による暴行事件も今回もまたあったわけですけれども、これは安保条約があるなしの問題ではないと思っている。日米同盟関係というのは対等というのを同盟というので、対等でなければ単なる従属関係でしかないわけです。 対等というと経済力、政治力、軍事力とみな同じでなきゃいけないというような言い方をする人もおりますが、そういう意味で言っているわけではありません。
人間はみな平等であり対等であり、金持ちであろうが貧乏であろうがどんな立場にあろうが、人間として平等・対等であるということは当たり前のことですが、二国間においても国家間においても、私はそうだと思います。
アメリカと同じような軍事力を持ち、あるいはその他のいろいろな条件が同じだという意味で考えているわけではありませんで、ただ、一つの独立国家として、そして二国間で同盟を結ぶ以上は、基本的に対等の関係でであることは当然であるというふうに思っております。
オスプレイの問題も、どうも傍で見ていますと、沖縄や他の日本人も含め、その声がアメリカ政府に届いていないような感じがいたします。そのことが一番の問題じゃないかと・・・。
それから沖縄の人にとっても、アメリカになにも言えないと、ただ言われたとおり従っているだけだという感覚が、沖縄の人にとっても非常にもどかしい、こんなことでいいのかという気持ちがそこにあるんじゃないかと思います。
私は最近ちょっと自民党の時以上に、日本政府がはっきりというか、ものが言えなくなっているようなふうに見て取れて、これは非常によろしくない関係に陥っているとぼくは思います。
ただ、地位協定の改定の問題はもちろんありますけれども、日米安保そのものがあるがゆえに日米二国間が対等の関係にならない、ということではないと僕は思っています。
●石破茂氏の「日本も海兵隊を持つべき」という意見は小沢氏の指摘する「日米対等というと何もかも同じじゃなきゃいけないという人がいる」という人の典型的な一人ですね。アーミテージ&ナイ両氏に「一流の国でいてほしい」と言われれば、「その通り」と思ってTPPに参加したいと思ったり・・・対等というのは、人口や国土やGDPなど、強さや大きさ、豊かさに関係なく、国として「対等」(人間で言うなら人格?)という小沢氏の「対等」の意味に大賛成です。
国を代表する大統領と総理大臣には等しく同じだけの責任と誇りを持って話し合ってほしいものです。アフガニスタンで用水路工事を指揮している中村哲氏が、以前「ペシャワール会報」に、外から日本を見ていると、「今や日本はアメリカのポチでもなくて(日本名も捨てて)ジョンではないか」と書いておられたことがありました。
◎「日本維新の会」橋下代表が、石原新党とは本体が「たちあがれ」の「真正保守」では一緒にやっていけないと会見で。亀井氏も「石原と橋下と抱き合い心中でもすれば」と袖に。
橋下氏の脱原発が人気取りか本物か? 橋下氏は府知事の時、大阪にあるドイツ領事館を訪ねて脱原発の道筋の教示を受けていたはずです。松井府知事と脱原発でも意見の違いがあるのかな〜とか、「維新」が「原発ゼロ」にブレルことをまだ少し期待しています。
(2枚の写真は、ここ数日、また作り始めた新聞の広告の色を活かした新聞紙のコサージュです)