ここしばらく、いつもお訪ねしている「Various Topics」さんが日本の戦争と反省の問題を取り上げておられて考えさせられました。海外から見たらどう受け取られているのかとか当然、竹島・尖閣の領土問題にも関係してくるお話です。
いつかブログでも取り上げたいとモタモタしているうちに、ブログ主さんの関心はもう別の所に移っていて、あれは11月の初め頃だったんだと。少し遡って6日のブログを取り上げたいと思います。その前に、最近のトピックスも選挙を前に良いかな〜ということで、紹介しておきます。
21日の記事「石原氏―out of order」というJapanTodayの英文記事の後の「石原発言と『商社九条の会』の言葉」というタイトルの記事です。
「日本維新の会の石原慎太郎代表は20日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で講演し、外交政策について「軍事的な抑止力を強く持たない限り外交の発言力はない」と指摘した。その上で「核兵器に関するシミュレーションぐらいはやったらいい。防衛費は増やさないといけない。防衛産業は裾野が広いので、日本の産業も、中小企業も助かる」と述べた。」
という部分がありますが、「石原が中国を煽る理由はここにあり」てっところですか・・。
石原慎太郎氏は、国外から日本を見たことってあるのでしょうか。
国外にいたからこそ見えるものもあると思いますが、『外から見てきた人の代表』として商社マンがいます。
商社はいろいろ悪者にされやすいですが、戦後、商社マンたちの働きが日本の発展に寄与し、人と人の結びつきをつくり、結果国家間の信頼を得てきたのも事実です。
(商社入社の動機に「国際間の架け橋をつくる」という志を持った人が、今も昔も多い気がします。その志を持ち続けられるかどうかは人によりますが。)
メンバーは少数ながら、彼ら(ほとんどOB)が作った『商社九条の会』が、2006年に発足されたときの言葉を貼り付けます。(全文はコチラで:https://sites.google.com/site/shosha9jho/trading=蛙)
「商社九条の会・東京」アピール
商社で働く(働いてきた)私たちは、国際的な経済交流を通して社会に貢献したいと願ってきました。 それには何よりも平和が大切であると実感しています。
先の大戦後、私たちが堂々と商社活動をすすめることができた背景には、アジアの人々に大きな犠牲を強い、みずからも広島・長崎・沖縄・東京そして各地で多大な被害をうけた日本が「平和の国」「戦争をしない国」として生まれ変わったことを示す日本国憲法の平和的条項(前文・九条等)の存在があります。
しかしながら、この憲法に照らして疑義のあるイラク派兵を機に政財界は呼応する形で、次々と改憲をすすめる案と日程を発表し、手続きとしての国民投票法案も上程され継続審議になっています。
平和を願う私たちは九条の意義、そして改憲によって日本はどうなるのかを真剣に考えるときだという思いから、昨年5月「商社九条の会・東京」を結成し、講演会や学習会、交流会などの活動を続けてきました。また、この二年間で日本各地の市町村や職場・職業グループなどで五千を超える「九条の会」が生まれています。(前半より)引用先「Various Topics」11月21日ブログ:http://afternoon-tea-club.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/11/post_5121.html
日本のマスコミは憲法を変える動きは伝えますが、この「九条の会」が全国各地に沢山出来ていることは一切伝えません。
さて、前置きが長くなりましたが、本題は同じブログで取り上げられたジョン・ダワー氏の「戦争の文化」です。
グラウンド・ゼロという言葉は、もともと原子爆弾の爆心地をさす言葉だったのが、アメリカでは2001年の9・11の現場にこの名前を使い始めた。そのことが・・・・という問題提起です。
私は、この15分ほどの動画の内容を見終わった後、ジャック・アタリ氏の本「21世紀の歴史」を思い出しました。(蛙ブログでは「はじめまして」と09年5月10日と11年1月10日でアタリ氏にふれています)
全ては繋がっている、全ては速いスピードで繋がる。世界を支配しているものは支配者同士、虐げられるものは虐げられた者同士。そして、支配の方法や抵抗の方法も国を超えて繋がっていく。世界はグローバルなあり方を呈している。一国の問題は一国でとどまらない。それは、良きことも悪しきことも・・・それが私たちの生きる21世紀だと。大雑把な私の理解です。(アタリ氏は超民主勢力は希望を捨てずに頑張ろうというメッセージを私たちに送って自らそういう生き方をされています。)
コチラで是非どうぞ:「ジョン・ダワー氏の『戦争の文化』」http://afternoon-tea-club.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/11/post_f497.html
ところで、こちらもいつも訪れている「shuueiのメモ」さんですが、ここで先日、ジョン・ダワー氏に関連した記事を見つけました。
長文ですが、外国人が日本をどう見ているか、なかなか厳しい見方もありますがなるほどと思ったり。
タイトルとshuueiさんのアドレスはコチラ:「嘘がまかり通る国、日本 (ジョン・ダワーらの近刊についてのイアン・ブルマの書評 日本語訳) The New York Review of Books: "Expect to Be Lied to in Japan" by Ian Buruma (Japanese Translation) 」(http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20121119/1353269214)
Expect to Be Lied to in Japan
http://www.nybooks.com/articles/archives/2012/nov/08/expect-be-lied-japan/
嘘がまかり通る国、日本
2012年11月8日
(訳注:この文はイアン・ブルマ氏による以下の新刊2冊への書評である。米国で定評のある書評誌 The New York Review of Books に掲載された。)
ジョン・ W・ダワー 著
Ways of Forgetting, Ways of Remembering: Japan in the Modern World
New Press
(『忘却の方法、記憶の方法:現代世界の中の日本』)
デヴィッド・マクニール、ルーシー・バーミンガム著
Strong in the Rain: Surviving Japan’s Earthquake, Tsunami, and Fukushima Nuclear Disaster
Palgvave Macmillan
と書評なんですが、この文章自体が、なかなか的を得ていて、辛辣な内容になっています。
前文(翻訳・前文:酒井泰幸)をコピーしてみます。是非、ブログを訪ねて書評の本文を読んでみてください。字が小さくて読みづらい方は「拡大」して。
日本を覆う公式的な現実。嘘だと分かっていながらも、横並びを意識してそれに合わせなければならない。それは第二次大戦前から連綿と続く日本の特質。主流メディアは公式的な現実を伝えてきた。福島原発以降、現実とのギャップは狭まるどころか逆に広がり、権力と体制に対する、人々の冷めた見方が広がっている。野坂昭如が示すように、私たちは批判精神を持つことができるのか。
ここで提起されている日本人の深層心理の問題は、「人間の幸せとは何か」を考えることなく「経済成長にとって効率のいい労働力の育成」を目的に、横並び重視の教育を施してきた学校教育や戦後日本のあり方とも重なって見える。
子供も、大人も、他人の目を気にし、「人に負けたくない」「のけ者にされまい」「いじめに遭うまい」と全神経をすり減らしている。自分の全存在を認めることができないから、自分を嫌いになる。まるでアレルギーを起こした免疫細胞が自分の体を攻撃するかのように。これはアイデンティティーの問題、どこまでが自己で、どこからが非自己かという境界線がおかしくなっている。
これはさらに、アダルト・チャイルド(オブ・アルコホリクス)の問題とも重なる。アルコール依存症者の子供たちは、自分が望むようにではなく、周囲の状況に反応して行動する自分を作り上げる。これは、アルコール依存症者のいる家庭だけに起こることではなく、社会もこうした思考・行動パターンを私たちに植え付ける。個人より団体を優先する日本社会が、強くこうした影響を及ぼすであろうことは想像に難くない。「ありのままの自分」は心の奥深くに閉じ込めて、身を守る。このような、自分主体ではなく他人や周囲を主体とすることで自分を守ろうとする生き方は、「共依存」と呼ばれる。
つまり、戦前の日本から続く集団的「共依存」が人々の心を蝕み続け、その延長線上に今の日本があるのだということを、思わざるを得ない。
この前文に関しては、そうじゃない!と言いたいところですが、そうも言えるか…その通りか…と認めざるを得ないところも。
書評は、戦争や原発についての日本人論と日本のジャーナリズム・記者クラブ批判になっています。是非、読んでみて!