コサージュづくりのお手伝い(中手さんお話会&晶子短歌)

◎24日の蛙ブログで「福島を忘れない」をコピーさせていただいた「おとじろうとらいるのひび」さん、27日に予定しておられた、お話会、 <福島で「放射能から子どもを守る会」を立ち上げ、現在は、札幌で家族と共に生活している中手さんのお話会>のご報告の記事が出ましたのでコチラで:http://blog.rairu.com/?eid=1016
◎このところ、与謝野晶子の未発表の短歌が発見されるというニュースを日経から二回ほど取り上げましたが、今回は讀賣夕刊(28日)からです。
歌人与謝野晶子[1878〜1942)が、大正から昭和初期に、百貨店の顧客向け冊子に寄せた短歌、約450首が確認された。歌集や全集には収録されておらず、研究者は『古典的な趣味を取り入れた巧みな歌も見られ、価値の高い資料だ』としている。」と記事のリード部分です。
これは、高島屋の元社員の表田次郎さん(73歳)が高島屋史料館に残っていた資料を数十年かけ調べた結果、分ったそうです。記事途中から:

 宣伝色が濃いと本人が判断したためか、全集などには見られず、研究者も存在だけは確認していたが、注目されることがなかった。
  58年に呉服部図案室に入った表田さんは、百選会に長く携わる過程で、当時の冊子を丹念に確認。退社後は、資料のデジタル化に向けて協力を依頼され、2011年から再度調べた。この結果、<春の衣京の工人色糸にたそがれを織りあけぼのを織る>など1921〜40年に発表した453首が確認できたという。
 表田さんは「古い短歌から脱却しようとした晶子だけに、新しい着物文化を創造しようという百選会の趣旨に共鳴したのでは」と話す。 

◎昨日は、朝、「午後から永寿園で入居者の方たちに新聞紙で作るコサージュを教えるんだけど手伝ってくれない?」という突然のお電話。「じゃ」、ということで出かけることにしました。永寿園は:

老人福祉法に定める養護老人ホームです。昭和38年12月に豊中市箕面市で一部事務組合を設立し、昭和39年11月に開園。昭和63年3月現在の園舎に建て替え、平成12年11月に一部居室(30室)段差解消工事実施済み。 65歳以上で、環境上の理由又は経済的理由により居宅で養護を受けることが困難な人が豊中市又は箕面市の措置により入所し、自立した日常生活を営み、社会的活動に参加するために必要な指導及び訓練その他の援助を行うことを目的とする施設です。また、家族が冠婚葬祭や病気などで家庭での生活が困難な場合に一時的に入所する短期入所(ショートステイサービス)も行っています。

私に声を掛けてくれたNさんは、この永寿園とは20年以上のお付き合いです。
今年、箕面市が新しい老人施設をオープンすることになり、豊中市も独立してこの4月から新千里南町に新しい施設「永寿園とよなか」ができます。3月で、施設は無くなりますので、それまでの2〜3回のクラブ活動でNさんは「新聞紙で作るコサージュ」を皆さんで30個ほど作ってもらって、自分用に一つとお世話になった寮母さんたちにもプレゼントしようというアイディアです。この日は豊中の新しい施設からもスタッフの方が見学に見えていて、部屋には三々五々入居者の方たちが集まって、準備を始めます。
Nさんは、老人会でも何回かやっておられ、百ほど、あるいはそれ以上のコサージュ作りをされていますので、手際よく、持ち込みの材料、新聞のカラー頁から花びら型を切り取って大中小と合わせたのを10セット分、花芯用の新聞紙を折りたたんだ細いヒモ状のが数十本、ノリ、ハサミ、ドライバーなどを出して、それぞれの人に役割を指示して作業に入ります。男性はお一人、女性が6.7人、スタッフの男性、女性も一緒に作業に入ります。
私はといえば、花びらの貼りあわせと、ドライバーで花びらを巻き込んで両方から縮めてシワを作ったり、大中小の花びらを糊付けして重ね合わせたり、花の形を修正したり、切り込みを入れた細長いヒモを渦巻き状に巻いて花芯にして真ん中にセットしたりするのを手助けしました。
一人一人の出来ることを素早くよみとって、その人が出来る作業を分担して、あなたは00係りね〜、ガンバって〜とか、さすが〜じょうず〜とほめ上手のNさんならではです。皆さん一生懸命に集中なさるので、飴玉をなめて〜たまには頭をあげて首をまわして〜とか、注意しながら冗談を言ったり、と、さすが、長年の先生が身についているNさん、本当にお上手です。仕上げにラメのマニキュアで光らせますが、この係りの方が熱心に仕上げをしておられます。寮母さんが、「シンナーくさ〜い」と窓を開けられました。暖房と皆さん熱中しているのとで心配なくらい顔の赤い方も。何とか時間内に完成。片づけもチャンチャンと皆さんでなさって、無事終了しました。
終わって、豊中の施設の方とコチラのスタッフ男女お二人とNさんとのお話を聞いていました。女性スタッフが出してくださったお茶を、喉が渇いていたのか美味しく飲ませていただきました。豊中の新しい施設ではボランティアがまだ見つからないのでとNさんは先生を引き受けています。永寿園の昔話になって、天皇皇后両陛下の視察があったのは10年ほど前ですかね〜と私。いいえ〜もっと前でしたよ〜と皆さんで。
今山口にいるWさんが坊の島に居た頃のこと、その日はお琴の先生も一緒にWさん宅でお茶を飲んでいました。Wさんが急に”そうだ、今日だ、間に合う、見に行こう!”と言い出して、永寿園視察の天皇皇后両陛下の御一行を見物することに。この日、Wさんの所にいなければ、こんな体験をすることは無かったでしょう。直ぐ近くの”新御堂筋線”沿いの歩道で、天皇皇后お二人の車列の来るのを待っていました。空にはヘリコプターが飛んで、広い道路には、シィ〜〜ンと車一台通らず、まるで真昼の夢でも見ているような…静かで緊迫したひと時でした。
あの時、自動車の開いた窓からお辞儀をしながら手を振る美智子皇后は、テレビで見るのとはまるで違って、特別な人だけが備えている空気、気配や気品で取り囲まれた特別の人に見えました。五感で感じ取れる言葉にならない確かな『もの』に驚いたものです。当時は横山ノック氏が府知事でした。
その後、福祉関係の役で何回か訪れたとき、あの視察の日のお二人の写真が貼ってあるアルバムを飾りケースの中に見つけました。あれは花博のついでだったのかもしれません。あれから十数年、閉鎖される寸前の永寿園で、入居者の方たちとコサージュ作りをする機会があるとは・・・本当に昨日は不思議な午後となりました。これで先日サロンコンサートに連れて行っていただいたお返しが少し出来たかな・・・。