憲法九条「戦争放棄」は誰が?(幣原喜重郎の「深謀遠慮」)

3月9日(土曜日)の昨日は東京新宿明治公園で「さようなら原発」を訴える集会があり15000人の人たちが集まったそうです。
京都円山公園でも「バイバイ原発3・9きょうと」で3500人。高松市香川県)では約30人が四国電力本店前まで1.7キロを行進 主催者によると、9〜11日にかけては、全国各地で100近い原発関連のイベントが開かれる。毎週金曜に官邸前抗議を続けている「首都圏反原発連合」も、10日に国会周辺でデモを行う。

台湾の台北では脱原発デモに10万人(主催者発表)が集結、原発関連では過去最高。参加者には若者・家族連れが目立つ。台中・高雄・台東でも同様のデモがあり、参加者は4か所で計20万人規模に達したとみられる。
ドイツ、フランスでも人間の鎖。パリでは、約25の環境保護団体が参加。フランス電力、原子力大手アレバ、経済・財政省の建物前などを通る約40キロを人間の鎖でつないた。ドイツでも、中部グローンデ原発の周り40-60キロを約2万人で人間の鎖
右上の写真は「福島を忘れない」(http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20130309/1362777581)から。(以上「shuueiのメモ」さんより)

ブログのタイトル記事の下書きを終えて、昨日の朝、「生き生き箕面通信」さんのブログで101歳の日野原重明さんの記事を読みました。私が丁度書いていた内容とピッタリ! 
戦争放棄は、一言で言えば、死中に活だよ」という幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)と、日野原氏が語る石橋湛山(たんざん)の「小日本主義」が重なります。
日野原さんによりますと:「湛山は帝国主義の時代に、領土・勢力拡張政策が経済的・軍事的にいかに無価値であるかを論証し、領土は小さい『小日本』でも、『縄張りにしようとする野心を棄つるならば、戦争は絶対に起こらない。国防も用はない』と喝破した。日本が軍備を完全になくせば、どこの国が攻撃しますか。湛山は『道徳的位置』の力と言っている」(引用先:「101歳の日野原重明さんが「武を棄て『裸』になることこそ日本の生きる道」と強調」http://blog.goo.ne.jp/ikiikimt/e/2a9b084657ff07d4be66d88583ef2a81
◎昨日、両親の家の隣の畑の南東に梅の木が2本咲いているのをベランダから見つけました。
それでは、憲法改正の不穏な動きと現憲法戦争放棄についての”深謀遠慮””一石四鳥”のお話を・・・

臨界に達した改憲派議員数

 昨年12月の総選挙の結果、改憲をとなえる「自民党」と「日本維新の会」が衆議院定数の三分の二(320)を超える議席(294+54=348)を獲得しました朝日新聞は、衆議院議員の89%が改憲に賛成(賛成68%、どちらかと言えば賛成21%)と伝えています(同社と東大谷口研究室の共同調査)。
 もし、自民党日本維新の会の勢いが続けば、今年7月の参議院選でも議席を伸ばし、国会の改憲発議が何時でも可能になる事態に立ち至るでしょう。


立憲主義をくつがえす自民党日本国憲法改正草案」
自民党の昨年4月27日に公表した「日本国憲法改正草案」によりますと、自民党は日本国を「天皇を頂く国家」と規定して天皇を元首とし、戦争放棄に変えて国防軍の保持と緊急事態の宣言を新設し、基本的人権を「公益及び公の秩序」によって制限可能なものにするなど、日本国憲法の基本原則を根底からくつがえす規定が盛り込まれました。
 自民党は、当面、憲法改正の発議要件を「過半数」に下げることだけを改正点に、他党の合意を取り付けて改憲をめざし、その上で改正草案の本体の実現を狙っています。
 しかし、憲法とは私たちの人権が侵害されないよう国の権力を拘束するための規範です(立憲主義)。権力の座にあるものが、自らの都合に合わせて改正発議要件を緩和しようと企てること自体、立憲主義の根幹を覆す暴挙です。

引用したのは2013年5月3日の市民意見広告を募るチラシからです(色字by蛙)。
憲法が出来てもう65年ほど、変えるのも仕方がない…なんて考えていませんか?
戦争に負けて、どうせアメリカから押し付けられた憲法だし…なんて考えていませんか?
安倍政権が変えようとしている日本はとんでもなく危険な日本、歴史の流れに逆らう動きです。
特に狙われているのが九条の「戦争放棄」ですが、これは占領下の内閣総理大臣を務めた”幣原喜重郎が提案したもの”という記事です。
あの戦争の本当に心に迫る反省と平和主義。戦争で亡くなった大勢の日本人やアジアの人たちが報われるただ一つの道、無駄死とならない唯一の道が示されています。
「小海キリスト教会牧師所感」さんのブログ「幣原喜重郎・・・深謀遠慮の宰相」(http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130307/p1)を引用してみます。
幣原内閣は1945年(昭和20年)10月9日から1946年(昭和21年)5月22日まで。外務大臣吉田茂でした。
小海教会さんの記事は、昭和三十九年二月の憲法調査会事務局の「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情についてー平野三郎氏記ー」という長文の資料をダイジェストしたものになっています。資料そのものも掲載されていますので、少し長いですが、是非、ブログを訪ねて読んでみてください。
幣原首相の言葉から、平和憲法成立に果たしたマッカーサー昭和天皇の役割、そして、日本の青年をアメリカの先兵として送り出すことから守ろうとしたことなど、「一石四鳥の深謀遠慮」を知ることが出来ます。 

幣原喜重郎・・・深謀遠慮の宰相


 今、日本国憲法の制定と幣原喜重郎のことを調べている。筆者はかつて、戦前の協調主義の幣原外交は「軟弱外交」だと一言で片付ける軽薄な教科書を習っただけだったのだが、知るほどに、実際には、この人物は深謀遠慮の人だった。


 自主憲法制定論者には都合がわるいであろうが、調べれば調べるほど、戦争・戦力放棄条項を憲法に盛り込むことは、1946年1月24日に幣原がマッカーサーに提案したことだということは確かである。しかも、残された幣原のことばの記録から見ると、この戦争・戦力放棄条項には、マッカーサーの意図をも超えた深い意図があったことがうかがえる。


 当時、マッカーサーが抱えていた難題は、日本が二度と軍国化しないように確実な手を打つことと、天皇制を存続させるということだった。米国の方針は日本の共産化をふせぐために天皇制を存続させるということとなっていた。だが、他方で、ソ連天皇制廃止を強硬に唱え、オーストラリア、ニュージーランドなどは天皇がいるかぎり日本が再び軍国化するにちがいないと恐れている状況だった。マッカーサーは困っていた。


 そういう状況にあって、幣原は戦争・戦力放棄をマッカーサーに提案した。これによって、ソ連以外の国々には天皇制の存続は容認され、かつ日本の再軍国化を防ぐことができるという一石二鳥の提案であった。


 では幣原はなぜ日本政府として公式に戦争・戦力放棄を提案しなかったのか? 当時、日本政府がこんなことを提案することはおろか、閣議で話題にすることすら不可能だったからである。それは国体に触れることだったから。それ以上に、非武装宣言は幣原自身いうように「狂気の沙汰」としか受け取られまいとも思われた。だから、幣原はこれをGHQから日本に「押し付ける」かたちを取るほか方法はなかった。


 誰よりも多くの戦争の悲惨を見てきたマッカーサーは、非常に感激して、幣原の申し出た戦争・戦力放棄条項を受け容れ、2月3日に「マッカーサー・ノート」三項目を発した。第一項は天皇制維持、第二項に戦争・戦力放棄、第三項に封建制度廃止が記された。こうして、その後、マッカーサー草案に、そして、日本国憲法9条に、戦争・戦力放棄条項が入れられることになる。


 だが、幣原にとっては、この戦争・戦力放棄条項は、実は、一石二鳥ではなく、いわば一石四鳥だったようである。幣原が正面からマッカーサーに明らかにした三羽目の鳥は、理想としての世界平和であった。戦前外務大臣として軍縮条約のために交渉に携わって列国のエゴイズムを知りぬいた幣原の理想のことばにマッカーサーは感激した。



 幣原にはマッカーサーに対しても秘匿したもう一羽の鳥があった。それは、緊迫の度を増していた資本主義対共産主義の激しい戦争に、日本の青年たちが米国の尖兵として使役されることを防止することであった。彼の側近であった平野三郎に最晩年に遺言に近いかたちで語ったことの記録(国会図書館内にある憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵))にはしなくも漏らされている。「日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。」と。彼が意図したとおり、日本の青年たちは、東西冷戦のなかで行われたベトナム戦争をはじめとする戦闘に、米国によって狩り出されないで済んだのである。ベトナム戦争に狩り出されて五千人もの戦死者を出した韓国のいたましさを思うと、どれほど多くの日本人が幣原に恩を感じるべきかと思う。


 だが、現在の自民党政権は、9条を改正して日本の青年たちを米国の世界戦略としての戦争に「集団的自衛権の行使」という名目で差し出そうとしている。しかも、マスコミのアンケートが事実であるとすれば、多くの国民はこの政権を支持しているらしい

写真は、先週4日の大阪都心。夫の山の靴の修理と無線機のアンテナの紛失した先端を求めてデンキの町・日本橋と梅田へ。2,3分の一時停車中の留守番という大役で私も一緒に出掛けました。
1枚目、新御堂から梅田の観覧車。人形の町・まっちゃ町は桃の節句のお雛祭りの翌日だったので、どのお店も五月人形になっていました。
2枚目、用事を済ませて、梅田へ向かいます。中之島のライオン橋から振り向くとレンガの中之島公会堂が見えました。
3枚目、御堂筋線の突き当りは茶色の阪急百貨店です。左手には大阪駅の大屋根も見えます。近くの登山用品のお店へ靴を預けて。
4枚目、大阪の丸ビルは本当に丸いんです