30年前の高木孝一敦賀市長の「原発講演」

昨日の日曜日、ブログの記事をアップしてから下を見ると「お隣り日記」欄に紹介ブログ(あとからは消えていたのでメモしておいてよかったです)(http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20130616/1371311467)が入っていたので訪ねてみました。
福井県民の民度が低い」って乱暴な内容だな〜と思いつつ、記事の中から辿って行くと、敦賀市の市長だった方の死去のニュース、それも2012年のブログの記事です。何なの?と読み進んでビックリしました。高木孝一という敦賀市長が1983年に行った「原発講演」の記録です。読んで気持ちの良いものではありません。でも、3・11以後も原発の再稼働だけでなく輸出までしようという現政権が続く限り、この『気持ちの悪さ』は続くことになります。
原発を「迷惑施設」として引き受け、あからさまに、その迷惑料として見返りや補償を求めながら「100年後、50年後に生まれた子が片輪になるやはわからないが、いまは原発をおやりになった方が良い、おススメです・・・・」という30年前の市長の言葉、悪魔のささやきにも聞こえてきますが、原発立地県の市町村民だけでなく、今読みなおして考えてみたいと思ってソックリ引用してみます。(引用元:「原発による敦賀づくり推進 高木孝一前市長死去 93歳」http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20120617/1339910631

半月遅れで知った訃報。

http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2012060202000202.html

原発による敦賀づくり推進 高木孝一前市長死去 93歳



 原発誘致による町づくりを進めた前敦賀市長の高木孝一(たかぎ・こういち)氏が一日、心不全のため、敦賀市内の病院で死去した。九十三歳だった。敦賀市出身。自宅は敦賀市沓見六二の三。通夜は四日午後七時から、葬儀・告別式は五日正午からいずれも敦賀市東洋町一の一、プラザ萬象で。喪主は長男で衆院議員の毅(つよし)氏。

 敦賀市議、県議を経て、一九七九(昭和五十四)年から、四期十六年敦賀市長を務め、市長在任中には全国原子力発電所所在市町村協議会の会長に就いていた。

 また、「原発は精神的迷惑施設。その代償は当然だ」と述べるなど、原発立地による町づくりを推進。日本原子力発電敦賀原発3、4号機の増設に同意し、高速増殖原型炉「もんじゅ」の試運転を認めた。中日新聞 2012年6月2日)


この高木は、昨年の東電原発事故後、一躍有名になった。内橋克人氏の著書に紹介されたこの男の妄言がネットに流布したからだ。
下記は、1983年1月26日、石川県羽咋郡志賀町で開かれた「原発講演会」(地元の広域商工会主催)における高木孝一の講演を内橋氏が記録した内容だ。

 只今ご紹介頂きました敦賀市長、高木でございます。えー、きょうはみなさん方、広域商工会主催によります、原子力といわゆる関係地域の問題等についての勉強会をおやりになろうということで、非常に意義あることではなかろうか、というふうに存じております。……ご連絡を頂きまして、正しく原子力発電所というものを理解していただくということについては、とにもかくにも私は快くひとつ、馳せ参じさせて頂くことにいたしましょう、ということで、引き受けたわけでございます。


 ……いわゆる防災義務と称するものは、(原子)炉の周辺から2キロないし3キロというところは、やはりそうしたところの(防災)体制を固めなさいと。こういうふうなことでございます。あるいは住民は避難道路をつくろう、とか。あるいはまた避難場所をつくろうとか、こういうふうなことで、私どもに対しましても、強くいろいろ申し出があるわけでございます。けれども、抗議もくるわけでございますけれども、ま、私は防災訓練もやらない、と……。もうそんな原子力発電所は事故があったら逃げまどわなければならない。あるいは避難しなければならない、とういうことになったら、もうそれで終わりなんだ。そんなことはゼッタイあり得んのだ、というふうに、自分も、私どものいわゆる住民も、あるいは私も、そういうふうに思っておるわけでございます。


 一昨年もちょうど4月でございましたが敦賀1号炉からコバルト60がその前の排出口のところのホンダワラに付着したというふうなことで、世界中が大騒ぎをいたしたわけでございます。私は、その4月18日にそうしたことが報道されましてから、20日の日にフランスへ行った。いかにも、そんなことは新聞報道、マスコミは騒ぐけれど、コバルト60がホンダワラに付いたといって、私は何か(なぜ騒ぐのか)、さっぱりもうわからない。そのホンダワラを1年食ったって、規制量の量(放射線被曝のこと)にはならない。そういうふうなことでございまして、4月20日にフランスへまいりました。事故が起きたのを聞きながら、その確認しながらフランスへ行ったわけです。


 ところがそのフランスでも、送られてくる日本の新聞に敦賀の一件が写真入りで「毎日、毎朝、今にも世の中ひっくり返りそうな」勢いで報じられる。やむなく帰国すると、こんどは大阪空港に30人近い新聞記者が待ち構えていた。


 悪びれた様子もなく、敦賀市長帰る。こういうふうに明くる日の新聞でございまして、じつはビックリ。ところが敦賀の人は何喰わぬ顔をしておる。ここで何が起こったのかなあ、という顔をしておりますけれど、まあ、しかしながら、魚はやっぱり依然として売れない。その当時売れない、まあ魚問屋さんも非常に困りました。あるいは北海道で採れた昆布までが……。


 敦賀は日本全国の食用の昆布の7割ないし8割を作っておるんです。が、その昆布まで、ですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで全く売れなくなってしまった。ちょうど4月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメも全く売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう……。


 売れないのには困ったけれども、まあそれぞれワカメの採取業者とか、あるいは魚屋さんにいたしましても、これはシメタ! とこういうことなんですね。売れなきゃあ、シメタと。これはいいアンバイだ、と。まあとにもかくにも倉庫に入れようと、こういうようなことになりまして、それからがいよいよ原電に対するところの(補償)交渉でございます。


 そこで私は、まあ魚屋さんでも、あるいは民宿でも、100円損したと思うものは150円もらいなさいというのが、いわゆる私の趣旨であったんです。100円損して200円もらうことはならんぞ、と。本当にワカメが売れなくて、100円損したんなら、精神的慰謝料50円を含んで150円もらいなさい、正々堂々と貰いなさいと言ったんですが、そうしたら出てくるわ出てくるわ、100円損して500円欲しいという連中がどんどん出てきたわけです(会場に大笑い、そしてなんと大拍手?!)。


 100円損して500円もらおうなんてのは、これはもう認めるもんじゃない。原電の方は、少々多くても、もう面倒臭いから出して解決しますわ、と言いますけれど、それはダメだと。正直者がバカをみるという世の中をつくってはいけないので、100円損した者には150円出してやってほしいけど、もう面倒くさいから500円あげる、というんでは、到底これは慎んでもらいたい。まあ、こういうことだ、ピシャリとおさまった。いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故が起きて困ったとかいう人はまったくひとりもおりません。まあ、いうなれば、率直にいうなれば、一年に一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。ワカメなんかも、もう全部、原電が時価で買(こ)うてしもうた。全部買いましょうとね。そんなことで、ワカメはタダでもらって、おまけにワカメの代金ももらった。そういうような首尾になったんです。


 (原発ができると電源三法交付金がもらえるが)そのほかにもらうおカネはおたがいに詮索せずにおこう。キミんとこはいくらもらったんだ、ボクんとこはこれだけもらったよ、裏金ですね、裏金! まあ原子力発電所が来る、それなら三法のカネは、三法のカネとしてもらうけれども、そのほかにやはり地域の振興に対しての裏金をよこせ、協力金をよこせ、というのが、それぞれの地域であるわけでございます。それをどれだけもらっているか、をいい出すと、これはもう、あそこはこれだけもらった、ここはこれだけだ、ということでエキサイトする。そうなると原子力発電所にしろ、電力会社にしろ、対応しきれんだろうから、これはおたがいにもう口外せず、自分は自分なりに、ひとつやっていこうじゃないか、というふうなことでございまして、たとえば敦賀の場合、敦賀2号機のカネが7年間で42億入ってくる。三法のカネが7年間でそれだけ入ってくる。それに「もんじゅ」がございますと、出力は低いですが、 その危険性……、うん、いやまあ、建設費はかかりますので、建設費と比較検討しますと入ってくるカネが60数億円になろうかと思っておるわけでございますが……(会場に感嘆の声と溜息がもれる)。

 
で、じつは敦賀に金ケ崎宮というお宮さんがございまして(建ってから)随分と年数が経ちまして、屋根がポトポト落ちておった。この冬、雪が降ったら、これはもう社殿はもたんわい、と。今年ひとつやってやろうか、と。そう思いまして、まあたいしたカネじゃございませんが、6千万円でしたけれど、もうやっぱり原電、動燃へ、ポッポッと走って行った(会場にドッと笑い)。あッ、わかりました、ということで、すぐカネが出ましてね。それに調子づきまして、今度は北陸一の宮、これもひとつ6億円で修復したいと、市長という立場ではなくて、高木孝一個人が奉賛会会長になりまして、6億の修復をやろうと。今日はここまで(講演に)来ましたんで、新年会をひとつ、金沢でやって、明日はまた、富山の北電(北陸電力)へ行きましてね、火力発電所をつくらせたる、1億円寄付してくれ(会場にドッと笑い)。これで皆さん、3億円すでにできた。こんなのつくるの、わけないなあ、こういうふうに思っとる(再び会場に笑い)。


 まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これも今、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と、そういうことで私は皆さんに(原発を)おすすめしたい。これは(私は)信念をもっとる、信念!


 えー、その代わりに100年たって片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部、片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、いまの段階では(原発を)おやりになったほうがよいのではなかろうか...。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました(会場に大拍手)。


内橋克人『日本の原発、どこで間違えたのか』(朝日新聞出版, 2011年)224-234頁)

◎ところで、今日は、隣の両親と私たち夫婦で、父方の従弟の作品展を見に福井県へ出かけます。
福井は教育県で施設が整って、お米が美味しくて、といいことづくめの県だと思っていましたが、この記事を読むと、ナルホド豊かだったのはこういうこともあったのかと思ってしまいます。福井市原発関連のお金が入っていたのかどうかはわかりませんが、県単位で潤っていたとしたら関係があるかも…。この前市長の息子さんも国会議員(衆院)ということですから、参院選では福井県有権者も頑張って脱原発に切り替えてほしいですね。ともかく、日帰りのドライブで福井市へ行ってきます。
(写真は、←我が家の鉢植えの紫陽花。 右側全部、箕面団地の花壇に咲く紫陽花たち)