「身を寄せ合い、和して同ぜず」(中村哲氏)

7月中旬に届いたペシャワール会報116号、7月中のアップを心がけて、滑り込みです。
最後の頁の事務局便りによりますと、アフガニスタンでは、室温40℃とのこと。この暑さの中、洪水被害の復旧作業が急ピッチで行われているとのこと。
「6月初旬から始まった洪水は、11〜12日には2010年の大洪水の水位を上回り、護岸が3カ所ほど決壊。幸い各取水施設は、この洪水レベルを想定して建設されていたので、持ちこたえたとのこと。ただ洪水は、雪解け水や集中豪雨と相まって波状的に起こる可能性があるので、余断は許さないようです」、ただし、「クナール河の水は、PMS(ペシャワール会平和医療団)の用水路や取水施設によって安定的な感慨が可能になった地域では、水稲栽培が爆発的に広がっている。この数十年、戦乱と旱魃・洪水に苦しめられてきた現地の農民にとって何が必要だったのか、外国軍の撤退を前に「国際社会」は自戒すべきではないでしょうか。本会報で中村医師が記す言葉を深く噛みしめたいと思います。」
では、その中村医師の9頁にわたる報告の最初の部分からです:

2012年度を振り返って


 2013年9月にペシャワール会、翌年5月には、現地活動30年を迎えます。
 かつての青年医師は、初老の工事現場監督となり、この間のめまぐるしい変転を思うと、波瀾万丈とはこんな事をいうのかと不思議な気がしています。
 めまぐるしい動きにも拘らず、一貫する縦糸は、天・地・人の構図の中で「自然と人間の関係」を問い続けることだったような気がしています
 医療現場、河川工事、農業に至るまで、このことは変わりません。

 大きな転機が何度かありましたが、最後のものは2010年8月の洪水でした。ごみクズのように流されるはかない人間の営みを見ながら、思うところがありました。それまで、人の都合で自然を眺める未練がましさを拭えませんでしたが、自然の摂理から人を眺めるようになってきました
 人は大自然の中で、身を寄せ合って生きています。そして、人もまた自然の一部です。このことを忘れると、私たちの考えは宙に浮いてしまいます。科学技術で自然を制御できると錯覚し、不老不死の夢が叶うかのように考える。目先の満足のためなら、暴力も厭わず、生死さえ軽く考える生かされている恩恵を忘れ、暗い妬み不安に支配されるーーーー現地で見ていると、大は戦争から小はいじめや自殺まで、この錯覚が影を落としているように思えます。
 アフガニスタンの現場から見る限り、時代は明らかに一つの破局に向かっています。人がこの巨大な錯覚の体系にとどまる限り、希望はありません。希望を演出することはできても、本当ではありません。


 干ばつ対策に奔走した立場から見ると、日本ほど豊かな国土に恵まれた国はありません。敗戦直後、飢餓から立ち直らせ、戦で傷ついた人々を慰めたのは、郷土の山河と自然でした。その恵みによって生かされてきたことは、学校で教えられませんでした。おそらく、郷土を築いてきた祖先たちは、このことを知っていました。 
 株価や経済成長率は、恵みを語りません。武力は、郷土や国民を守りません。三十年間の日本の変化を回顧すると、哀しいものがあります。
 「身を寄せ合う」とは、人が和し、弱者を労(いた)わることです。和して同ぜず、ここに積極的な価値と希望があります。平凡ですが、これが三十年の結論です。 
 現地活動はなおも続きます。「緑の大地計画」を以て日本の良心の気力を示したいと思います。三十年の支えに感謝します。

◆ここに書かれている考えは、見事に、田中克氏の「森里海(もり・さと・うみ)連関学」の考えとぴったり一致しています。この考えに立ち返る事こそ、未来を拓く考えだと田中氏は説いていました。
中村氏も、「科学技術で自然を制御できるという大きな錯覚の体系を捨てない限り希望はない」と断言されています。
3・11は、先人の知恵とも言えるこの考え”人もまた自然の一部”を、私たちに気付かせる契機であり、目覚めて、そこへと立ち直る道標となって初めて、大勢の犠牲者や被災者、そして今なお放射能の差別と被害に苦しむ被災者の方たちも報われるのではないでしょうか。無駄にしてはならないと強く思います。
「身を寄せ合い、和して同ぜず」。ブログ仲間のkeniti3545さんがいつも言っておられる、個を高める、ことに通じますし、また、「特別な1日」のSPYBOYさんや、「青空学園だより」のnankaiさんの、立場や意見の違いを越えて繋がることにも通じます。この道しかない、この道をみんなで行きましょう!!

真夏の暑さの中めげずに咲く百日紅サルスベリ)の花