「マンデラさん退院」と「Nature誌の"不信"表明」

昨日、今日と父の退院に向けての介護認定や老健の申し込みに付随する面接を受けたり、かかっていた病院の先生に情報提供のお願いをするため、今入院している病院の先生に依頼書を書いていただくことになったりとバタバタしました。
病院にある地域医療室の係りの方からは親切な注意や助言を頂きました。分らなくなったら知ったかぶりをしないで訊くことという夫のモットーを思い出して、分らないことは何でも正直に言って訊くことにしています。それぞれ、その道のエキスパートの皆さんが親切に教えて下さるので本当に助かっています。その場、その場で、職務に忠実な働きをなさる方たちに出会い本当に感謝しています。日本はまだまだ捨てたモンじゃないと思えます。
◆さて、「Mwenge Keikoのつれづれ日記」さんのブログでマンデラさんの近況を知ることができましたので貼りつけてみます:

日没まで少し時間があったので、マンデラ写真展をシビック・センターで見た。マンデラは、つい2日ほど前に、3ヶ月の入院を終えて自宅に戻った。自宅を改装し、病院にいた時と同じ環境にしての帰宅だった。6月末にはマンデラは危篤になったが、人工呼吸器をつけて少し体調を持ち直した。そして7月18日には95歳の誕生日を迎えた。マンデラ南アフリカの人種協調社会のシンボル的存在なので、人びとのマンデラに対する気持ちは特別なものがある。

 写真展はマンデラが1994年の選挙で大統領に選ばれたときからのものが多くあり、マンデラとともに南アフリカがこの20年ほどをどう歩んできたかを示していた。特にケープタウンは立法首都で国会が開かれる関係からマンデラケープタウンにいることが多かった。

全文はコチラで:http://d.hatena.ne.jp/mwenge/20130904/1378298409
mwenge(スワヒリ語で”たいまつ”)さんは今南アフリカケープタウンにおられます。
アフリカに関心のある方は是非ブログを訪ねてみてください。アフリカ事情と景色と花が楽しめます。


◆◆久しぶりに「内田樹の研究室」からです。内田先生は科学誌「Nature」が日本政府と東電の汚染水漏洩対応について強い不信を表明したことを取り上げて、英文のコメントの抄訳を載せておられます。リード部分をコピーしてみます。

Natureから


9月3日のNature のEditorialに福島原発からの汚染水漏洩への日本政府および東電の対応について、つよい不信感を表明する編集委員からのコメントが掲載された。
自然科学のジャーナルが一国の政府の政策についてここまできびしい言葉を連ねるのは例外的なことである


東電と安倍政府がどれほど国際社会から信頼されていないか、私たちは知らされていない
この『ネイチャー』の記事もこれまでの海外メディアの原発報道同様、日本のマスメディアからはほぼ組織的に無視されている


汚染水の漏洩で海洋汚染が今も進行しているとき、世界の科学者の知恵を結集して対応策を講ずべきときに、日本政府は五輪招致と米軍のシリア攻撃への「理解をしめす」ことの方が優先順位の高い課題だと信じている。
五輪招致を成功させたければ、まず事故処理について日本政府は最大限の努力をもって取り組んでいるということを国際社会に理解してもらうのが筋だろう。


だが、招致委員長は「東京と福島は250キロも離れているので、心配ありません」という驚くべき発言を昨日ブエノスアイレスで行った。
海外の科学者たちが「福島の事故は対岸の火事ではない。私たち自身に切迫した問題だ」という危機意識を持って国際的な支援を申し出ているときに、東京の人間が「福島の事故は250キロ離れた『対岸の火事』ですから、五輪開催に心配ありません」と言い放っているのである


怒りを通り越して、悲しみを感じる


英語を読むのが面倒という読者のために『ネイチャー』の記事の抄訳を試みた。


◇続きはコチラで:http://blog.tatsuru.com/2013/09/06_1112.php

宮崎駿監督の引退会見を、夫の山の行動食のクッキーを届けてくれたSさんとお茶を飲みながらライブで見ました。
 二人で監督のどの言葉にも納得、納得でした。韓国の方からの質問には、「答えは映画の中にある」と、これも納得。イタリア人の方から、イタリアは好きですかにも、「イタリアは好きです」、その理由も納得でした。そして、映画を作る根幹にあったのは、「子どもたちにこの世は生きるに値すると伝えること」という言葉にはジィ〜〜ンときました。本当にそうです、生きるに値するこの世です。「これからは?」について、ジブリ美術館の仕事をボランティアで・・・というのを聞いて、Sさんと二人で「行ってみたいね!」でした。
◎その後3時過ぎ、夫の車で母と病院へ。母が父に、「オリンピック、どこになると思う?」と。父が「どっちでもええ」と答えると、「そうやね〜、生きているか分らないはネェ〜」に、「7年後だったら分らないよ、生きてるかも」「目標にして下さい」と私たち。父が楽しみにしていたのに、長男から電話があり、このオリンピック決定の騒ぎの仕事が入ったため帰省はナシになりました。
写真は病院と並んで立っているライフプラザに向かう途中と中から写したものです。