今年は、あの戦争が昭和20年に終わって70年でした。終わったのではなくて負けたのだという言い方もありますが、勝ち負けより終わってよかった.が両親を含めた当時の方たちの実感だったのでは.と思い、「終わって」にしました。
戦前、戦中を知る方々が、今年、「戦後」が再び『戦前』になるのではと心配しながら亡くなられました。11月の中頃、恩師のお一人である先生から「私の人生記録」というエッセイ集を送って戴きました。その最後の頁に書かれた先生の体験を読み終えて、これは野坂昭如さんの小説「火垂るの墓」の神戸空襲のこと!と思ったら、野坂氏の訃報を聞き驚きました。
エッセイの筆者である私の中学1年の担任だった恩師は、新任教師で初担任、生物の先生でした。先生の授業の第一回目をよく覚えています。同窓会の慰労会で集まった一人に、当時同じクラスだったK君がいて、その授業の事を彼も覚えていました。先生は、猿の学名は「マッカッカー」ですと黒板に大書されました。ウソみたいな話で、不思議な一致(もちろん真っ赤な猿のお尻を連想して)にクラスのみんな大笑いしました。今回、初めて、本当かなとWikipediaで調べてみました。「ニホンザル(日本猿、学名:Macaca fuscata)は、哺乳綱サル目(霊長目)オナガザル科マカク属に分類されるサル」で本当でした。
10月の同窓会でお会いできると楽しみにしていましたが、ドクターストップで直前に欠席のお知らせ。その後、写真とメッセージを載せた住所録をお送りしたお返事に、このエッセイ集が届きました。どの頁にも先生のお人柄が滲んだ人生の断面が描かれていて、本当に読ませていただいて有難い思いで一杯でした。先生にお断りした上で、戦後70年の今年の最後の月に、先生の「二度とあってはならない体験」を書き移してみます:
やがて 米寿 を迎えようとしている小生
その生涯の最終章に向けて・・・
惨たらしい”時代の波”に翻弄されるなか…
「臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態にいれり」(1941)太平洋戦争の始まりです。それから3年6カ月後、「中部軍管区司令部6月5日 南方基地のアメリカB29戦略爆撃機約350機は6月5日6時頃より紀伊水道南部及び土佐島南部において集結ののち、7時頃より約10機乃至30機の編隊をもって紀伊水道を北進、阪神地区に侵入、約1時間にわたり主として焼夷弾により神戸市東部および御影町・芦屋市付近を爆撃…(以下省略)」 (1945)小生が中学2年生の春…今しがた家族揃って朝食を済ませたばかりの御影町の自宅、その周辺地域にも焼夷弾が雨あられと炸裂し、燃えさかる炎の下をかい潜り、足もとに累々と倒れ重なる焼けただれた人たちを、避けることも適わず踏み越えて這々の体で近くの側溝へと辛くも転がり込んだのです。 あたり一帯、余燼くすぶる煤煙に目を痛め、鼻つく死臭に催す吐き気をこらえ、喉元の渇きに耐えながら文字通り‘着の身 着のまま‘。 瞬く間に灰燼と帰したのか、焼け跡の一画に我が家の面影…探せど見えず。まだ熱い瓦礫の山に為すすべもなく うずくまる。 そんなとき、ぬうっと薄汚れた<ひげっつら>が覗き込み『おっ!生きとるかっ!』 聞き覚えのあるしわがれ声に『あっ!先生っ!』反射的に しがみついた その<ひげっつら>…声にならない。 空襲…焼夷弾爆撃…阿鼻叫喚のなかを逃げ惑う市民…罹災生徒の安否を気遣い、夜を徹して”焼け跡”を尋ね歩く<ひげっつら>は、担任の先生⇒中学2年生の私の目に強く焼き付けられた《ガッコノセンセイ》…最期の姿でした。
神戸-六甲山麓の町の片隅で、呱々の声をあげて以来80有余年、私の生涯…その序章において、このような惨たらしい”時代の波”に翻弄されるなか九死に一生を得た 体験…二度とあってはなりません、絶対に!
こんな酷い体験をなさっていることを初めて知りました。神戸(六甲)も御影も私にとっては学生時代や子育ての一時期を過ごした懐かしい町です。先生は御影に住んでおられたのですね。
戦争、どんな正義のための戦争であっても自衛のための戦争であっても、要は殺し合いです。人を殺さなければ自分が殺されるという狂気の状況、あるいは殺さなくても人間性を失ってしまうような極限の状況を人為的に作ってはならないと改めて思います。B29の空襲で爆撃を受けた町は地獄さながらであったことが先生の体験で解ります。そして、それは今またシリアで繰り返されています。あの戦争を体験した方たち、あの戦争の犠牲になった方たちのお蔭で得た戦後の平和と民主主義です。戦後大事にしてきた日本の不戦の思いと願いを、ここで捨てるわけにはいかないと思います。
土曜の朝、「ウェーク」という番組で、今年の”戦後70年”を振り返っていました。その中でジョー・オダネル氏の「焼き場の少年」の写真を取り上げて、写真展の紹介もしていました。京都の佛立ミュージアムで来年一月一杯まで展示されているようです。
恩師の言葉、「二度とあってはならない、絶対に!」と共に、私もいま一度、二度と繰り返してはイケナイ、戦争は。
◎ジョー・オダネル写真展「トランクの中の日本」についてはコチラ:https://www.facebook.com/permalink.php?id=698178241&story_fbid=10153986175443242
戦後焼跡闇市派と言われ、戦争を少年期に体験、戦後民主主義を生きた方たち、私の10年以上先輩たちの思いこそ、今、受け止めて伝えなければならないと、思います。その一人が野坂昭如氏。今、原発再稼働反対のデモや安保法案反対のデモに参加していつもそのご報告を紹介させていただいているブログ「特別な1日」さんのブログ主さんが、高校生の時に、その野坂氏に講演を頼んだというエピソード。野坂氏も、恩師と同じ、阿鼻叫喚の爆撃の中を生き抜いたものの、妹を死なせたという悔いを生涯抱えて戦争を憎み続けておられました。その野坂氏の、酩酊でもしていなければ生きていけないというような照れ屋で心優しい一面を語って余りあると思い、ここにコピーさせていただきます:(「特別な1日」12月11日より)
作家の野坂昭如氏が亡くなりました。ボクはこの人の政治的なスタンスには共感していましたが、無頼派だか何だか知らないけど見え透いたポーズは良くわからなかったし、彼の作品は読んだこともないんです。が、訃報を聞いて、彼に会ったことを思い出しました。高校1年生の時、彼にダメ元で手紙を書いて学校の講演会に呼んだら、何故か来てくれたんです。
当日 彼を学校の玄関に迎えに行ったんですが、昼間からいきなり酔っぱらっている。臭い(笑)。子供のとき、ボクは周りに酒を飲む人が居なかったんで、泥酔した大人を始めて見ました。校長室へお連れしたら、校長なんか相手にせず、ソファにひっくり返って、ずっと指定銘柄のオールド・パーを呑んでいます。1時間近く飲み続けていたと記憶しています。
講演の内容は忘れてしまいましたが、泥酔しているにもかかわらず、至極マトモな話だったので驚いたのを覚えています。終わった後『お車代』の封筒を出したら『そんなの、要らないっ』と言って、一人でさっさと帰っていきました。ぶっきらぼうだけど優しさは伝わってきました。高校生の眼から見ても、そんな彼は子供っぽかったけど、ベージュのスーツを着た後ろ姿は格好良く見えました。
ありがとうございました。
(「焼き場の少年」はポスターから、後の写真は「ウェーク」の番組から)