「愛と暴力の戦後とその後」


赤坂真理著「愛と暴力の戦後とその後」(講談社現代新書:2014年5月20日)。この本は8月末に手に入れ、9月の初めに読み終えました。その後、ヨーガのHさんの「家族という病」(下重暁子 幻冬舎新書)が手元に回ってきて、これを読み終えました。全くの偶然だったのですが、この2冊の本は見事に重なります。下重さんの本は、「『家族はすばらしい』は欺瞞である」という大きな新聞広告で知っていました。下重さんの家族観のベースになっているのは、「職業軍人だった父親の戦後の変節に対する不信感」という個人的な体験です。ところが、この個人的体験が、戦後の日本では普遍的であったという事が、赤坂真理さんが描く日本の戦後であり、今現在も引きずっているという内容に繋がります。
私が赤坂真理さんのこの本を知ったのは「世相を斬る あいば達也」さんの8月17日のブログ「●日本歴史の断絶、維新と敗戦 戦後の日本人と天皇 」を読んだからでした。
手元に届いた新書の帯には、このお二人が:

「日本とは何か。お前は何者だと問い詰めてくる。驚愕し、恐怖して読み終わった。こんな本は初めてだ」(鈴木邦男氏)
「いまの時期にこそふさわしい、戦後社会と民主主義について深く検討する本」(高橋源 一郎氏)

読み終えて私の得た感想は、あの日を過ぎて変わりました。今は、”戦後民主主義は終わった、新しい日本の民主主義を始めよう!”になってしまいました。
それまでは、戦後は終わっていないというものでした。1964年生まれの著者と私は丁度20年の差があります。でも本に書かれているのは1944年生まれの私が感じた、そして今も感じている戦後の日本そのものです。そのことがとても不思議でした。今までも、加藤典弘氏や白井聡氏を読んでその分析と戦後の理解に納得していたのですが、赤坂さんのこの本は、感情や情緒面の思いでも同じということの驚きだったかもしれません。

感想を書く時、ネットを検索して驚きました。SPYBOYさんのブログが出てきました。「特別な1日」のSPYBOYさん、昨年7月のブログ「『愛と暴力の戦後とその後』と映画『革命の子どもたち』」(http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20140714/1405334332)です。読み返してみて、確かに読んでいますが、1年後の今は、映画の方、重信房子とその娘重信メイさんの方の印象が強く残っていました。今年の初めだったか「人民新聞」に重信メイさんのインタビュー記事が掲載されたのを読んだのでその所為かも。それにしても発売後すぐ読んで、確かな感想を残しておられるSPYBOYさんには改めて敬服です。
内容はSPYBOYさんのブログを引用して:

『愛と暴力の戦後とその後』は安保、学生運動、80年代、バブル、オウム、自分がかかわった住民委員会、改憲騒ぎや右傾化、そして日本の閉塞感など戦後の事象について彼女の感想を綴ったものだ。論理的ではないけれど、言葉が強い。いかにも小説家らしい、感性を優先させた文章だ。ボクとほぼ同年代だからなのか、天皇学生運動憲法など考えていることがずいぶん近いのでびっくりした。

さて、感想の代わりに、あいば達也さんのブログから「現代ビジネスの“GENDAISHINSHO Café”赤坂真理著の『愛と暴力の戦後とその後』の一部を紹介」している部分の最後あたりを引用して色字を加えて:

■歴史なしに生きていけるのか
  こう書いてみて、母娘の会話とその断線の中に、戦争と戦後のキーワードと、国内における通俗的パブリック・イメージのほとんどが知らず知らずに出てきていたのに驚いている。
 「戦争」とか「あの戦争」と言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。
 それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない! 終わり
  真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない! 終わり
 その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということに なった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした
  それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。私は大学を出たけれど、それだけでは近現代史は何も知らない。それは教育の自殺行為でもあったのだけれど


 しかし、ひとつの国や民族が、これほどに歴史なしに生きていけるのだろうか? 
  私の国の戦後は、人間心理の無意識な実験のようである。
  どれだけ歴史を忘れてやっていけるか。
  その実験が、六十年以上経って、失敗とわかりはじめた。人間にはそんなことはできない。そうわかりはじめたけれども、その頃には「実験」の「仮定」 に依存しすぎた仕組みをつくっていたし、忘れる努力をしたせいで、何が起きたか本当に知らない世代も大量に生まれ、わけがわからないままに神経症や鬱になった。



 「実験」の中で成長した世代の痛みが、それを始めた世代にわかるだろうか?
 副作用のほうが、主作用よりましなのだろうか?
 彼らが痛みを語らなかったように、私たちの痛みと彼らをつなぐ言語も、これまでなかった。(蛙の割り込み:下重さんの「家族という病」がここに当たります)


  母が私にした話の中に、ひとつ、面白い場所がある。千駄ケ谷のマッジ・ホールというところだ。これは、政権の座を明け渡した徳川家が明治に住んだ屋敷をGHQが接収したもので、あの大河ドラマで大人気になった天璋院篤姫が晩年を過ごした場所でもある。
  つまりは、私たちは、何代か遡ればすぐ江戸時代に到達してしまうのに、江戸時代をまったく断絶した共感不能なものとして感じている。マッジ・ホール がすでに、江戸と明治の断絶の象徴のようにそこにあったのだが、そこに通った昭和の人間は、すでにそれに思いを馳せることはできなかった。


  私たちの現在は、明治維新第二次世界大戦後と、少なくとも二度、大きな断絶を経験していて、それ以前と以後をつなぐことがむずかしい
  私たちの立っている場所がそういうところであるということだけは、せめて、覚えて語り継ぐべきなのではないだろうか
  「語り継ぐ」とは、戦争体験の枕詞のように言われる言葉だ。
  けれど、「語り継ぐ」べき最初の認識は、まずなんなのか?
 「自分たちが、自分たち自身と切れている」ということではないのか

☆引用元は「●日本歴史の断絶、維新と敗戦 戦後の日本人と天皇 」(http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/a8f6ef8a7d818259506b1d6fa3926187)
(ジンジャーの花の写真は、上が一つ目の花。下が、三つ目の花。蕾は花の束になっています。)