「生まれ故郷・空襲の御影再訪」(1)


昨年の12月20日のブログ「二度とあってはなりません、絶対に」というタイトルで、中学時代の恩師の人生記録の最終頁をブログに書き移しました。下書きをコピーして先生にもお送りしましたところ、暮れの28日に、今度は「ふるさと探訪 生まれ故郷・御影(みかげ)」という今から7年近く前の平成21年に奥様と一緒に故郷御影を訪ね歩かれた時のエッセイを写真と一緒に送ってくださいました。
戦後「一歩の足跡を残した記憶も定かではない御影…その地域の景観は? 数年前「前立腺ガン」快癒で”九死に一生を得た”小生は矢も楯もたまらず妻と二人で御影を訪ねました」というお手紙とともに、資料として添付されていたのが、アメリカの宣伝ビラ! 噂で聞いていたものの、初めて見ました! 内容が又スゴイ! 隠し持って60有余年、初公開だったようです。それでは、先生の生まれ故郷である空襲の町・御影再訪の様子を書き移し、隠し持っておられた宣伝ビラはコピーして最後に・・・

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ふるさと探訪  生まれ故郷・御影 

    平成21年3月    藤下 英也

被災時(1945.6.5)の居住地  兵庫県婿軍御影町字一里塚 1097−3
上記場所の現在の住居表示   兵庫県神戸市東灘区御影本町八丁目…

<前略>

 このあいだ、何の’はずみ’か降って湧いたようなノスタルジーに駆られて、生まれ故郷でもある<御影>の土地へふと出かけました。思えば…昭和20年(1945)年6月5日の朝、アメリカB29戦略爆撃機から投下された無数の焼夷弾で焼き尽くされた<御影>の町…今しがた家族揃って朝食を済ませたばかりの自宅も隣近所も瞬く間に灰燼に帰し、燃えさかる炎の下をかいくぐりながら、道路に散乱する焼けただれた死体を避けることもかなわず踏みこえて、這々の体で御影小学校の運動場へと辛くも逃げ延びたのです。あたり一帯に立ち込めた余燼くすぶる煙に目を痛め、鼻つく屍臭に催す吐き気をこらえながら、文字通り ’着の身 着のまま’の姿。焼け野原と化した<御影>の地を後にしたのは県立芦谷中学校の2年生の時、あれからもう…かれこれ65年が過ぎました。


 子どものころ、夕暮れ近くまで’トンボ釣り’に夢中になった…あの原っぱはこの辺りかとおぼしき場所にはマンションが建ち、セミしぐれを耳にしながら近所の子どもたちが集まって縁日を楽しんだ…あのお地蔵さんは何処へ行ってしまったの? 庭の水まきや、真夏の’西瓜冷やし’などに便利でよく使った…あの煉瓦敷きの井戸端は? など往年(空爆被災以前)の面影…その一端に触れることもできず、途方に暮れてもはやこれまで…と踵(きびす)を返そうとした そのとき あったぁ! 家の近くを流れていた小さな川、その天神川に架けられていた小さな橋、自宅から阪神『御影』駅への行き帰りには、いつも通っていた橋は『公方公橋』…その橋の名が刻まれた御影石花崗岩)の標柱がポツンと…一瞬、我が目を疑い 声を呑み、しばらくは ただ茫然とその場に立ち尽くしていた…感無量! 後で聞けば―改修工事で川筋が若干変更されていたーらしいのです。
 今にして思えば、この地で生まれ育って過ごした少年時代…それは私の生涯の1/5にも満たない年月ではありましたが、いつの日か、息子や娘、孫たちと連れ立って この場所を訪ね「ここが親父の…親父の80年?人生の出発点だったんだよ」なんて『公方公橋』の傍らで語り継ぐことができたら…と、思ったことでした。
  『公方公橋』から約200メートル、私の出身小学校である『兵庫県武庫(むこ)郡御影町立御影第一尋常高等小学校(国民学校)』[現:神戸市立御影小学校]を訪ねました。60数年前、あの忌まわしいB-29による焼夷弾爆弾のさなか、迫る炎と熱風にボロボロの衣服をまとい、降りかかる火の粉を振り払いながら、行く手を阻む真っ黒な油煙に咽びつつ、命からがら逃げ込んだ学校の運動場、底には恐怖に怯える被災住民たちが醸す阿鼻叫喚の…生き地獄でした。
 過去にそんな残酷な悲劇の舞台となったことも知ってか知らずか、いま、目の前では赤や白の帽子をかぶった児童たちが、元気な声をあげて走り回っています。私が小学六年生のとき、中学校へ進学するためには鉄棒’逆上がり’と跳び箱’五段’の可否が問題…ということで毎日放課後 遅くまで学級担任の 長 文治郎先生からその特訓を受けたのもこの運動場…懐かしいです。

 おぼろげな記憶ですが、当時この運動場の周りにはクスノキが植えられていました。今回の訪問で、多分それらの<生き残り>か?と思われる何本かのクスノキに出会うことができたのです。それは…すぐ近くを並行して走る阪神電車、その高架を優に凌ぐ高さにまで成長し、四方に張り出した枝ぶりをこんもりと覆う常緑の樹冠、その佇まいに…あれほどの大空襲にもめげず、大地震にも挫けずに60余年の風雪に耐え、生き延びてきたクスノキの生命力の逞しさを目の当たりに見た思いがしました。
 運動場の北側にある校舎沿いのフジ棚には、5月になったら…今でも昔と同じように、きっと紫色の花房がいっせいに垂れ下がり、クマンバチが吸蜜にやてくるのでしょうね。もうひとつ、小学生の頃には登下校の通用門として慣れ親しんだ運動場の南門…その門柱に往年の風情がそのままに…、かなり黒ずんで見えるのは、やはり歴史を感じさせられます。あれやこれや尽きない郷愁に後ろ髪を引かれる思いで、御影小学校を後にしました。(つづく)